学歴の意味
学歴・学歴主義の機能
個人レベルで学歴は,①地位達成や立身出世の手段になる。学歴が知識・技能を習得したことの証明として獲得されるものであるから。②学校教育が拡大し,学歴主義が制度化するにつれて,学歴は意味が拡大 して知識・技能の証明から資格証明へと転化し,さらに能力一般や人格をも含意するようになる。
学歴主義の汎化は,システム・レベルでは,③メリトクラ シーを促進する。メリット(能力+努力)を評価すべきだという考え方が規範 化し、メリットを追求する競争が常態化する。
意味の次元では,④学歴の象徴性が強まる。入学試験の小差を決定的な差へと転化し,学歴の差異化機能も強 まる。学歴主義は,さらに地位・集団のレベルでは,⑤学歴エリートを形成 し,選別・排除の機能を果たす。意味のレベルでは学歴エリートの活動領域や 学歴エリートを多数抱える集団を社会的エリートとして認定する。学歴で箔がつくのである。
学歴の意味(I)
1970年代以降高等教育への進学率が高まり,大卒であってもブルーカラー 労働者になる者が増え,ホワイトカラー職に就いても必ずしも大企業の幹部候 補生とはいえなくなった。大卒=エリートではなくなった。このように,学歴 の機能低下が感じられるようになってからかえって学歴獲得競争がはげしく なっている。このパラドックスはなぜ生じたのであろうか。現在,厳しい受験競争に多くの人々が参加しているのはなぜなのだろうか。
日本では学歴は階級的に「生まれ変わらせる」力をもってい るからなのだろうか。だが,学歴に実際これほどの威力があるとは感じられないので,これが先の問いに対する答えであるとはいえないだろう。また,公立 の中学校,高校でなく,一流大学受験に実績のある有名私立の中高一貫校に子 どもを進学させるだけの余裕のあるのは,中の中以上の豊かな階層であろう。 この仮定が間違いないとしたら,その子どもたちの「生まれ変わり」の動機も 必要も大して強くないであろう。文化資本の学歴資本への変換というブルデューの見方の方があてはまるかもしれない。 さらに,ガルツングが述べたような学歴の「身分化」や学歴による「生まれ変わり」という傾向は戦後日本よりも戦前の日本の方が強かったと考えられ る。帝国大学法学部卒業者は無試験で国家の幹部である高級官吏に任命され た。また,大企業には学歴にもとづいて経営身分秩序が形成されていた。社員 ―準社員―工員―組夫という身分秩序があり,社員=大学・高専卒,準社員= 中学・実業学校卒,工員=高等小学校卒,組夫=尋常小学校卒という対応関係 が形成されていた。社員は幹部候補で給与は月給制,準社員はホワイトカラー で給与は日給月給制,工員は養成機関を経たブルーカラーで給与は日給制,組 夫は単純労働をする下請け業者に雇用された底辺労働者だった。これだけ身 分格差があれば,低い階層出身の頭のいい者が,帝国大学法学部卒業の学歴を 得て高級官吏となり上流階級に生まれ変わることも可能であった。しかも,今 日では大学卒と高校卒とで初任給でも生涯賃金においても以前ほど大きな格差 はみられないのである。
われわれは将来への投資といった,学歴の道具的機能以外の機能に注目する必要があるだろう。
岩田龍氏の議論
彼は学歴の機能が低下しても 従来の傾向の惰性として,あるいは皆が大学へ行くから自分も行くという惰性説や学歴に恵まれず苦労した親たちが自分の子どもだけはと進学させるタイム ラグ説では,十分事情を説明できないとして,さらなる説明を用意した。ま ず,エントリー説であるが,大学進学者が増えると大学卒業の資格だけでは成 功する保証にはならないが,エリートへの道は大卒者に限られるようになるの で,大学卒の資格だけは身につけておく必要があるというものである。つぎに社会的圧力説は,進学率が高まると進学しない者には何らかの欠陥があるとみ なされがちなので,これが圧力としてはたらき,不本意ながら進学する者が増 加するという。そして,競争への参加者が増加するにつれて権威のある一流大 学はますます入学が困難になるため,難関の突破は,それを突破した者の抜群 の潜在能力を証明するものと考えられる結果,より大きな機会をもとめて競争 が激化するというのが,能力証明説である。そして,能力アイデンティティ説は,若者たちは将来自分がひきうける役割を選択する前に,自分がどのような 能力を持ちどのような仕事を遂行しうる人物であるかを自分自身に確認させよ うとする。大学入試がその確立に大きな役割を果たしているという。そして, 学歴の機能低下と進学競争激化のパラドックスの説明としては,これらの組み合わせで考えていく必要があるといった。
このように,彼は,学歴の能力証明機能と能力確認機能を指摘した。
学歴の意味(II)
かつて日本では9割の人々が「中流」意識を持っているといわれ,日本は一億総中流社会だといわれた。「中流」意識が「幻想」かどうかをめぐって専門家の間で論争が行われた。理論的に考えると上でもなく下でもない中が9割を占めることはありえないので,「中流」意識は共同幻想である。だが,重要なことは日本には自分の生活程度を「世間並み」と見なしている人が9割いるということである。日本社会は階級的差異の見えない平等社会に近いという認識を皆がもっているということである。ところが,その一方で,平等主義が進めば進むほど人々は自分と他の人々を区別する差異を求める傾向が強まるのである。就学率が 100%に近い義務教育,高校教育の準義務教育化や高等教育機会の拡大といった平等状況は,これにぴったり当てはまる。その結果,ほとんどの子どもとその親は,学歴の差異化競争に加わることを強要されるのである。
それでは,人々は学歴の何によって自他を差異化しようとするのであろうか。
ここで,消費社会論を参考にしてみよう。アメリカの経済学者・ 社会学者のT・ヴェブレンは,誇示的消費説を唱えたが,その説によれば,人々があるものを消費するのはそのものの効用や使用価値を求めているからではない。あるものの消費によって彼の社会的地位や経済力を誇示することができ るから,ステイタス・シンボルとして役立つからである。この点からすると, 難易度の高い大学の入試に合格することは,合格者の高い能力を示すことにな る。一流大学卒業という学歴を獲得することは,彼が一流の人間であることを 誇示する機能をもっている。
「学歴こそは国民全員がもれなく競争に参加した結果ついてまわる地位表示記号」である。 さらに,今日の消費社会においては,学歴は消費されていると考えられる。
かつてD・リースマンは『孤独な群集』のなかで,大衆消費社会に生きる現代人の性格構造を「他人志向型」といい,現代人が自分の内面化された価値観にもとづいて行動するよりも他者からの信号に絶えず細心の注意をはらい,他者 がどのような期待や好みをもっているかについて敏感になるといった。そこで,学歴獲得は職業に結びつけて捉えるよりも,他者からの認知と称賛を得る ための競争として位置づけられるようになるのではないか。「その際に私たち が買っているのは,学歴の『使用価値』でなく,『象徴的価値』つまりイメー ジなのである」と加野芳正はいう。
そして,J・ボードリヤールの『消費社 会の神話と構造』の一節を引用する。
人びとはけっしてモノ自体を(その使用価値において)使用することはな い。 理想的な準拠としてとらえられた自己の集団への所属を示すために, あるいはより高い地位の集団をめざして自己の集団から抜け出すために,人び とは自分を他者と区別する記号として(最も広い意味での)モノを常に操作し ている。
そして,
消費を促す欲求とは決してある特定のモノへの欲求ではなくて, 差異への欲求(社会的意味への欲求)である。
そこで,加野は,「限りない差異化としての学歴競争こそが,わが国における学歴社会の本質である」と結論する。そして,それは日本において前近代的な身分制社会が崩壊して,平等な社会が出現したことの必然的な結果であ る。平等になればなるほど,人々は微細な差異を求めて競争を強いられていく からである。「微細な差異を求めての学歴競争は,平等化日本が支払わなけれ ばならない対価でもあるのだろう」という。しかし,「微細な差異」とはなにか。さらに,追求する必要があるだろう。
竹内洋は日本の「受験社会」が,システムとして相対的に自律化し,自己準拠 的構造をビルトインしてしまったという。「学校ランクや偏差値ランキングが それ自体として競争の報酬になり意味の根拠になってしまう。」たしかに, こういった側面はあるだろうが,これにつきるとは思えない。
ここで,日本人の学歴に対する“まなざし”に意味があるという議論が想起 される。梶田叡一は,「現代日本社会においては,どの学校に進んだのか,ど の学校を卒業したのか,ということが,多くの人からの“まなざし”を規定す るものになっている」といい,「有名大学を卒業していることは自他の“まなざし”の中で人間としての基本的価値が高いことを,社会的毛なみの良いことを,つまり現代社会においてその人が“貴種”であることを意味するものと なるのである」という。親の側の学歴信仰も生涯賃金その他で実質的に有利 になるからというよりも我が子が社会的イメージの中で,人々に共有の“まな ざし”の中で“貴種”に位置づけられることを追求しているのが真相に近いの ではないかという。日本においては,人々は学歴を通して自己および他者の位 置づけを認識するのである。
それゆえ,「日本の受験競争は出世やお金の社会経済的地位効果を目標にするだけでなく,それ以上に『出自』(出身階級)獲得競争である」といえる。 本来「出自」は生得的なもので努力や勉学では獲得できないが,日本の学歴と いう階級は努力や勉学で獲得できるのである。
では,「貴種」「出自」とはなにを意味するのだろうか。ここで記号論を援用 すると,シニフィアン(意味するもの=記号表現)としての学歴が機能してい るといえる。それでは,学歴のシニフィエ(意味されるもの=記号内容)はな にか。それは人間の能力,努力などの評価であり,学歴は地位を表示・象徴する記号だとすれば,議論は振り出しに戻ってしまう。
そのかわりに,薬師院仁志の議論を参考にしてみよう。彼は,現代の日本では象徴すべき地位そのものが中流幻想のなかに溶解してしまっているという。 「世間並み」以外に中流の地位を象徴するものはないのである。したがって, 「学歴は,何らかの現実を表示したり象徴したりするものではない。
それは,指示対象の欠落したイメージにすぎないのである。むしろ,学歴というイメー ジを通してはじめて,各人に社会的な位置づけを付与することができるのであ る。」消費社会では個人間の差異そのものが,記号の水準で生じる。指示対 象を欠く,空虚な示差的な記号に生じる差異だけが意味や価値をもつのであ る。「仮想の座標軸が,イメージのなかで人びとを差異化しているのであ る。」
そして,「学歴というイメージは,その内容が空虚であるがゆえに,さまざ まな指示対象が追補されうるのである。」イメージの指示対象の位置には無 限の「報酬」を置くことができる。それは人それぞれ異なるであろう。
さらに,彼は「中流」幻想が支配する社会のなかで「一流」大学や「一流」 企業といったイメージだけが,人びとの羨望の的になっているという。
現代人にとって,イメージこそ現実なのである。なかでも,学歴というイメージは, 人々にとって最も現実的なイメージなのである。学歴によって自己のイメージ を演出し,飾りたてることこそ,自分の存在証明となっているのである。
私たちは仮想現実社会の学歴競争において,微細なイメージ差を追いもとめているというよりも,望ましい自己のイメージを追い求めているのである。
学歴社会の将来
日本の学歴主義,学歴社会はこれからどうなるのであろうか。
まず,日本の情報社会,知識社会の動きが進展するので,ますます高度の情報処理能力や専門知識が必要とされるようになり,学歴主義は強まるだろうという説がある。近年,教職・法曹・会計・ビジネス関係の専門職大学院が設けられて この方面の専門家は大学院修了が要求されるようになった。このような動きは 学歴主義の強まりという予測に合致している。だが,一般の事務や販売の仕事 では大学院レベルの教育は要求されていないので,先の動きは主に専門職の領 域での動きである。
そして,従業員の選抜に際しては学校の教育歴よりも自分たちで能力を判定 するので学歴は無用だという考え,大学入試のペーパーテストの成績だけで人 の能力を判定するのはおかしいという考え,一流大学卒は潜在的能力をもって いるのでその人を採用して企業内で教育訓練するというやり方よりも卒業後即 戦力を求める傾向の高まり,現在は学歴よりも所得が重視され,学歴は所得に 関係ないのだという考え,これらが強まっているので,学歴主義から実力主義 へ向かうという説もある。
こうして,学歴の価値の上昇がある一方で,学歴の価値の低下も見られるのが現状である。また,近年,大卒と高卒で初任給や生涯賃金における格差が縮小しているので,学歴の道具的価値が低下していることは確かである。しか し,その一方で,一流大学の入試競争が激しくなっていて依然として「学校 歴」は重視される傾向があり,学歴の象徴的,イメージ的,ブランド的価値は 弱まっていない。
結論として,日本において学歴主義はかつてほど強くはないが,消滅するほ ど弱まってはいないといえよう。結局,日本の学歴主義,学歴社会の将来は, 日本人が学歴をみるまなざしがどのように変化するのかにかかっているであろ う。