そもそも「自己をどの位置で肯定するか」に苦しめられている。
まえがき
こんにちは、自律神経失調症の郁ポポです。
この記事は人生をストイックにしたい人には向きません。もっと人生楽になりたいという人に向けた記事です。
そして、めんどくさい話です。めんどくさい話について来られる人だけ読んでください。
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今日は、ある親しかった人と、昔や今の互いの心理について話し合う機会がありました。
親しいとはいえ、何というか人生とか生き方とかそういうレベルで捉え方が違う。でも愛してた。
どう頑張っても何かが噛み合わない。その人とはそういう仲の、切ない関係でありました。
彼はよく私に「君は普通なんだ」と言いました。これはおそらく彼にとっての褒め言葉でしょう。
それと同時に、その台詞には「君には僕のことを理解できないよ」という意味が込められている気がして私はとても悲しかったのです。
だから私は、いまだにその人を理解したい欲求を持ち、何かが噛み合わないその人とこうして深く話をしたいと願うのでしょう。
そして今日、ひとつ発見があったのです。
「自己肯定感」
恐い言葉です。
中にはソレが低いほど謙虚と思っている人もいれば、ソレが高いほど我が強いと思っている人がいます。逆に、ソレが低いほど情けないと思っている人もいれば、ソレが高いほど格好いいと思っている人もいるでしょう。
まあそんなことは別に大事なことじゃないんですが。
ひとつ、話を先に進めるために私の悩みを聞いてください。
「私」の自己肯定法則
自分に生産性があること、つまり、働けること、家事ができること、誰かの役に立てていること、誰かが喜んでくれること。あと、自分の考えの表示や心底の欲求により文章を書くこと、自分が心底楽しいと思えることをすること。学童期でいえば100点をとったり学級委員をやることが当たり前であること。それらが素晴らしく、素晴らしくあるべきと思っていました。
努力をします。生産します。何でも頑張ります。それをできている状態しか自分を認められない。(他人は別です)
もう少しざっくりいうと、自己満足であっても他人のためであっても意義のあることをしている自分、それが私を肯定するのです。
雑に言えば、高得点を取っていないと私には生きる価値がないと思っているのでしょう。私の人生は自分に対して「減点方式」なのです。まあ完璧主義らしい特徴ですね。
私はものすごく高い位置でないと自己を肯定できないと理解できます。
それ故に今このように病気になってしまうと上記のことが叶えられないため、私は自分に価値が見出せなくなりがちです。それ故に大変自己を肯定できず、ひどくネガティブになります。不安が増大します。頭の中でキャパオーバーし、心が「無」になります。
心が「無」である状態というのは、思考や感情が停止している状態を指します。私はこれを「死んでいるのと変わらない」と感じます。それ故に頭の中を「死」がぐるぐるするのです。
ところが。
私がこのことをその人に吐露したら、その人は少し驚いたようにこう言いました。
「基本的に感情とか思考が停止している状態ってデフォじゃないの!?」
「その人」の自己肯定法則
「基本的に感情とか思考が停止している状態ってデフォじゃないの?」
私は驚きのあまり「それでなんで生きていられるの?」と聞いたら「おいケンカ売ってんのかテメェ」「違うの違うの真面目な話なの!」楽しい言い合いとなりました。
彼は「死んでないから生きてる」そうです。
まあその人はマジョリティから見たら「変わった人」と言われやすいわけなんですが、その人はもちろん楽しいか否かだったら楽しい方がいいとは思ってるみたいなんですが、感情とか思考が停止している状態ってデフォルトらしいです。
私がこの人のことを主観的に、さらに雑に表現すると、鬱がデフォ。幸福度最底辺がデフォ。苦しいのかは知らないけど…もうそれが当たり前というか本人にとっては普通らしい。人生「加点方式」?なんじゃないかな。
おそらく、私とは対極で、「その人」は自己を肯定する位置がすごく基本的なところ(自分ありのまま)にあるということが理解できそうです。
そんな中で生きている。本当にこの人には興味しかない…
「夫」の自己肯定法則
その人との会話した内容を夫と整理した結果として、こうして記事を書くに至っています。
それでは夫自身は?
夫はさっきの人のように感情とか思考が停止している状態がデフォというわけではない。しかし、「死んでないから生きてる」には共感するようです。
そして、学校のテストの点数で31点を取り続けることに自己肯定を見出すような、そういう人なのです。
なんとなく伝わりにくい文章になっている気がしますが、多分これ、わかる人にはわかるのでしょう。
頑張らない。頑張ることに価値を見出さない。ちなみに夫は割と頭が良くて要領のいい人です。だから、おそらく頑張ったら私なんか以上にテストで高い点数を出せるのです。しかし、社会的に(学校的に)ギリギリ許されるラインを渡りきって見せる。それを誇りとする。
「その人」ほどではないけれど、夫も自己を肯定する位置が基本的なところ(自分ありのまま)にあるということが言えそうです。
【追記】訂正です。----------------------------
赤点ギリギリをあえて狙っていくのは夫の友人の話であって、夫はは「60点を取ろう、と思って60点を取ること」「100点取れるな、と思って100点を取れること」「あーこれ30点しか取れねえな、と思って30点を取ること」のように、自分が予想した通りの結果が出ることに、自己肯定を見出していたようです。
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…改めて、私はマジョリティから見たら「変わった人」を好きになりがちですね。
総括(7/21 10:45訂正済み)
私は自己を肯定できるようになるためには自己満足にせよ他人のためにせよ意義のあることをしている必要があるわけです。(しかもここには私の強迫的な焦りのようなものが加わり、1分でも暇が生まれると不安に包まれます)
つまり、私が「私の自己肯定法則」に則って自己を肯定しようとすることは非常に難しい、困難、てか無理。
それに対して真逆の「その人」や「夫の友人」、「夫」は各々の自己肯定法則に則って、ありのままの自分を肯定したり、努力(苦しみ)の度合いを下げて自分を肯定したり、なんなら努力とは違う手段で自己を肯定したりすることができるわけです。
私は、病気で働けないし、家事もできない時があり、私の法則的にはめちゃくちゃ落ちてる状態です。しかし、「その人」や「夫」から、もっと「弱い自分のありのままをベースとすること」や「人生加点方式」を学んで楽になれそうな気がしています。
私に限らず、いわゆる「自己肯定感が低い」と感じている人、もしかしたらそれ、ただ自分に求めているものが高すぎるということかもしれません。
まずは自己を、どの位置で、どのように肯定するかを考えてみると、救われるのかもしれません。
あとがき
私はとても「自己肯定感」が高い人間だと思っていました。だって高い点数が取れたり、部活や、なんらかのコンテストで賞をとったり、親もそれを誇らしそうにしていた。私は「誰かが褒めてくれる」「誰かが高い評価を与えてくれる」これによって私を保っていたのです。しかしこれは、他者への依存です。「自己肯定」とは全く関係のない話なのです。
この他者への依存は大抵恐ろしいことになります。その自分を肯定する他者はいつもそばにいるわけではありません。いざ一人になったときに自分には何もないことがわかります。その時、生きていられるか。
病気の私は、日々それと闘っています。働けない私、病気の私、弱い私、なーんにもできない私。私はこれらを肯定しなくては生きてはいけないのです。
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