愛とは何か、少しだけ分かった。
「心から愛してた。」
久しぶりに長野に帰ったのは、大切な人の葬儀の為だった。
まだ父が青年だった頃、父は、自分のお母さんを亡くしている。享年55歳の、早すぎる死だった。会うことの叶わなかった私にとっての本当のおばあちゃんだ。
だけど、父にはまるでお母さん同然のごとく良くしてくれた、タカばあちゃんと岳じいがいた。岳じいはおじいちゃんの一番下の弟で、その妻がタカばあちゃんだった。
私は、物心ついたときにはおじいちゃんとおばあちゃんがいっぱいいるような感覚だった。賑やかでよかった。おじいちゃんもおばあちゃんも、多い方が楽しかった。本当に、孫みたく可愛がってくれる、猫が好きで、ジャム作りが上手な、おじいちゃんとおばあちゃんだった。
「シナちゃんは良い人だったよ。
あんなに良い人がいるかねぇと思った。
シナちゃんさえ生きていたらねぇ。」
岳じいもタカばあちゃんも、父の本当の母のことを、つまり会うことの叶わなかった祖母のことを思い出すと、きまってこう言った。
お裁縫がとても上手で、みんなの図書袋や下駄袋、服や布団、いろんなものを手作りでつくってくれた、シナちゃんは、絹のように柔らかくて、糸のように繊細そうに見えて結ぶと強い、そんなひとだったよ、と。
会ってみたかったけれど、寂しさはなかった。
寂しさを感じさせないほど、私の父と、私たち家族のことを、大事にしてくれていたからだと思う。
そんな岳じいの余命が宣告されたのは、今からちょうど、半年前のことだった。ステージ4の胆管がんで、もう、どうすることもできなかった。
「余命は半年です。」
そう告げられたら、私は何をして生きるだろう。
弱っていく体と共に、何を考えるのだろう。
タカばあちゃんと岳じいは、その余命宣告を、一緒に聞いたそうだ。
残酷な宣告だったろう。
怖かったろう。
タカばあちゃんと岳じいは、本当にいつも一緒だった。"2人で1人前だね"とそう言いながら、いつでも2人で、小さな青色の車に乗って、いろんな所へ出かけていった。2人の間には、いつだって穏やかで、あたたかくて、優しい時間が流れていた。
ガンによって、入院によって、コロナ禍の面会制限によって引き離されてしまってからも、それでも1日3回電話して、「おはよう」「ごはんたべた?」「おやすみ」を繰り返した。
毎日同じ話でも。
それに対する返事が「辛いなぁ」だけになっても。
「うん」しか言えなくなっても。
何も、喋ることができなくなっても。
タカばあちゃんは、それでも毎日電話して、「おはよう」「ごはんたべた?」「おやすみ」を言った。
機械が苦手なのに、いつでも持ち歩けるようにとスマホを買って、岳じいのために、必死に操作を覚えて。
大好きな人に、おはようと言いたい。
大好きな人が、ちゃんとご飯を食べていて欲しいなぁと願う。
大好きな人に、おやすみと言って眠りたい。
それが、愛しているって、ことなのかなぁ。
それが、血の繋がりのないもの同士が、家族になるって、ことなのかなぁ。
あれから半年。
先生からの宣告は、本当に的を射て、岳じいは死んだ。
火葬場で、「お別れです。」と、扉を閉められる時のあの感覚が、何回その悲痛さを経験しても、慣れることのない激痛として残る。
「心から、愛してた。」
タカばあちゃんは、岳じいが焼かれてしまう瞬間、はっきりとそう言って、その場に崩れた。
いつも、私がタカばあちゃんに、「つらいよねぇ。」「大丈夫、大丈夫。」「えらいねぇ。」と、包まれる側だった。
その温もりに、育てられてきた。
岳じいとタカばあちゃんに、私の人格の基礎をつくってもらったと言っても、過言ではなかった。
一緒に泣くことしかできなかった。
ひとしきり泣いた後、「手がきれいなところが好きだった」「字が上手なところが好きだった」「子供が好きなところが好きだった」と、岳じいの一つ一つの好きだったところを、ポツリポツリと、教えてくれた。
本当に、愛していたんだろう。
『愛はきっと奪うでも与えるでもなくて 気が付けばそこにあるもの』そうミスチルから教わって育った。"気がつけばそこにあった愛" なら、大人になった今、たくさん気付くことはある。お母さんが、必ず私よりも早く起きて朝ごはんを作ってくれていたことも愛だ。おじいちゃんが、姿を見せるだけで手放しで喜んでくれていたことだって愛だ。友達が、どれだけつらい時だって、気が済むまで飲みあかしてくれたことも愛だ。あとそれと、声を聞いていたい時に限って色んな話を聞かせてくれたことも、大袈裟に言えば愛だったんだって、思っていたい。最後のは、エゴかもしれないけど。
私は、愛してるの響きだけで強くなれる気がする人たちの感覚が、分からないでいた。
人生はいつだって、 What is love だし。
瞳を閉じればあなたが瞼の裏にいることなんて、それほど強くなれる理由にはならなかった。
出会って恋をして別れたり、すごく好きでも生涯を通しては好き同士でいられなくなったりするわけだし。
それでも、岳じいが死んで、タカばあちゃんと話して、愛って何か、ちょっとだけわかった。
愛って、きっと、与えようと思って与えているわけではないし、欲しいと思ってもらうものでもない。
愛するということになんの見返りもなく、本当にただ気がつけばそこにあるぬくもりを、言葉に変換してみた時に愛だと気付く、それくらいの、些細なものなんだってこと。運命なんかに、神様なんかに、占いなんかにすがりたくなっちゃうから、いつしか壮大なものみたいに思えてしまうけど。そうじゃなくて、朝おはようと言いたいし、ご飯ちゃんと食べていて欲しいし、寝る前におやすみって言いたいってこと。
岳じいは、どう思う?
口下手で肝心な事が何も言えないところばかり、あなたに似てしまったよ。
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