見出し画像

君と、家族になるということ。

「もらってくれます?」

公園で子犬を見つけた。
芝の上をコロコロ転がるように駆けてきた君を、よしよしとかまっていたら、遠くから話しかけられた。

声のするほうに目をやると、見知らぬ夫婦が君の兄弟を数匹抱き抱えながら、こちらに向かって歩いてきた。

「たくさん生まれたんですよ。里親さんを探していて。」

画像1

その時、私はまだ学生で、寮生活を送っていた。
寮で犬と暮らすことはできない、そんなことはわかっていた。だけどなぜだか、君とはもう家族になるようなそんな予感がしていて、実家の母に電話をかけた。

「犬、子犬なんだけどさ、連れて帰ってもいい?」

私の両親は共働きで、子犬を昼間1人にするのはかわいそうだということで、実家の近くにある祖父母の家に、君を迎え入れることになった。

いきなりのことだったけれど話はとんとん拍子に進み、君が、家族になった。

***

君は、長野県の山の麓まで引っ越すことになった。
祖父母と一緒に暮らしていた、祖父母の長男家族が、私が君と出会った公園まで、車で迎えにきてくれた。

車で3時間ほどの距離を、君を乗せて走った。

初めての場所に、君はなんだかわからないというような顔をしてキョロキョロしていたけれど、そのうちに慣れて、祖父母の家を探検しては、お気に入りの場所を見つけるようになった。

画像2

子犬だった君は、私が3時間先の地で学生生活を送るうちに、みるみる成長していった。祖父母と祖父母の長男家族に目一杯可愛がってもらいながら。

そして、君がどんどん成長していくそばで、祖父母は、少しずつ年老いていった。

***

仕事熱心な祖父母だった。杏、ぶどう、さくらんぼ、梨、お米、ネギ、ナスにピーマン。祖父母に作れないものはないんじゃないかというくらい、沢山の作物を熱心に育てていた。朝早く起き、日が暮れるまで働いていた。いつも、お米や果物たちのことを考えていた。

そんな祖父も、一歩一歩、ゆっくりでなければ歩けなくなっていった。日々の生活に、酸素が必要になった。祖父自身が「老い」を受け入れて、一日一日を、そして祖父と接する全ての人を、大切にしていたように思う。君は、祖父のそばにいつもいてくれた。私は、帰省するときでないと会えない分、君が祖父のそばにいてくれることが、心強かった。

画像3


画像4


祖母は、脳梗塞で入院したのを契機に、認知症が進んだ。あまりにも熱心に仕事をしてきたからか、入院して少し動かなくなった途端に、じんわりと、でも確実に、認知症が進んでいってしまった。退院してからも、認知症は祖母を蝕むのをやめなかった。徘徊や自殺企図などもあり、仕事をしていた祖父母の長男夫婦の手にもおえなくなった。祖母は、大好きだった家を離れ、施設に入ることになった。

「一度でいいから、家に連れてってくれや。」
「ずっと家のために家のために仕事をしてきたのに、なんでこんなところに入れられたんかやぁ。おら何か悪いことしたかやぁ。」
施設に顔を出すたびに、悲しそうに言う祖母の言葉に、何も返すことができなかった。

だけど、祖母のベッドサイドには、君の写真が飾ってあった。それを見ては「ご飯にするか。」と呼びかけて、ご飯を食べていたそうだ。君は、祖母の心の支えにもなってくれていたんだね。ありがとう。

やがて、私が会いにいっても、祖母は「誰だいやぁ?」と言うようになった。「ばあちゃん、私だよ。」話すうちに、昔の記憶を辿るようにして目を細めて「メメかぁ。ほおかぁ。かわくてかわくて(可愛くて)仕方なかったんよ。目に入れても痛くないくらいかわくってなぁ。じいちゃんとふたんで(2人で)かわるがわるおべちょ(お風呂)に入れてやったんよ。」と温かな手で撫でながら、話してくれた。

そんな祖母と、ベッドの端に腰掛けて、一緒に家系図を書いた。明日私のことを忘れてしまっていてもいい。また、こうやって一人一人記憶の糸を辿って、今日はこの人のことを、明日はあの人のことをと、順番に思い出していく材料になればと。

画像5

こうして書いておいた家系図は、施設の職員さんが丁寧にラミネートしてくれていた。
「いつもこれ見て、一生懸命思い出してますよ。」
そう、教えてくれた。

だけど、そううまくはいかなくて、認知症は被害妄想の方へと進行していった。「おらをこんなとこにおいやったのはじいさんだ。じいさんが違う女を家に連れ込んでいるのを見たんだ。」と。
何を隠そう、もう90にもなる酸素をゴロゴロ転がしている祖父である。どこに女がいるんだと、笑ってしまったくらいだ。

だけど、会いたいと、強く思えば思うほど、それが違った妄想となって記憶に定着していってしまったような印象だった。

ずっと「じいちゃんは元気でいるかや?」
「おらのことなんか心配してねぇでも?」と、
気にかけていた。施設に入ってから、ずっと。
そりゃあそうだ。何十年と共に家を守り、作物を育ててきた相棒だ。最後の時を、大好きな家で2人で過ごさせてあげられなくて、ごめん。ばあちゃん、ごめんね。

そして、去年の5月、祖父がこの世を旅立った。辛く悲しい別れだった。祖母にそのことを伝えるかどうか、家族みんなで悩んだ。伝えたら本当に後を追ってしまいそうで。だけど、最期に会わせてあげないということも、できなくて。悩みに悩んで、そして、祖母を、祖父のもとへ連れていった。

実家のしきたりで、通夜は家で、お葬式はお寺で行われた。出棺の時まで、祖父が家で過ごす最期の時だった。白い布団に白い布をかけられた祖父が眠っていた。

祖母は、施設から久しぶりの我が家に訪れた。


忘れてはいなかった。
忘れるはずはなかった。

祖父が眠るそばまで、這うようにして近付く。


「じいちゃーーーーーーーーーーーーん」


ありったけの声で叫び、祖父を抱き寄せ、祖父の隣で、声が枯れるまで大声で泣き続けた。

そこには、認知症の祖母の姿も、被害妄想が深刻化して祖父を責めるようになってしまった祖母の姿も、ひとつもなかった。ただ、夫婦としての2人が、確かにそこにいた。

「おらもここで寝るだぁ。じいちゃんのそばにいたい。」
そう言って祖母はしばらく、棺桶に入る前の、白い祖父の布団に一緒に入り、祖父を抱きしめて眠った。

死人と同じ布団で眠る、異例の光景だった。
だけど、自然な光景でもあった。
そこにいる誰もが「気が済むまで、一緒にいたらいいよ。」と、それを咎めなかった。

そして、お別れの時が来た。

とても愛されていた祖父だった。みんなで棺桶の中にお花や祖父が大切にしていたものを入れて、みんなで、棺桶の蓋を閉めた。そして、棺桶を霊柩車に入れるとき、庭に出てみて驚いた。近所中の人が出てきて、出棺を涙し共に見送ってくれていた。祖父は、この世を旅立つ瞬間にまで、皆が同じ悲しみにくれ、涙を流し惜しまれる人生を送ったんだ。

普段知らない人がいると、番犬の役目を存分に発揮して吠える君も、涙する人々と共に頭を垂れて、祖父との別れの時間を共有した。

そして、1年半が経ち、後を追うようにして先日、祖母が亡くなった。

眠るようにして亡くなったと聞いた。
生前の口癖だった「じいちゃんのとこへ行きたい」という言葉。聞き飽きるくらいに何百回と繰り返された祖父への愛だ。苦しまずに、安らかに、最愛の人の待つ場所へ、旅立っていったんだ。

また1年半前と同じように、家で通夜が行われ、棺桶をお花いっぱいにして、皆で棺桶の蓋を閉めた。

君も、お別れをよくわかっているようだった。
お焼香に来てくれる一人一人に頭を下げて、喪服で座る一同の横に、ちょこんと座っていた。

祖母が焼かれて、お骨になった。
骨は立派に残っていた。90にしては大変立派ですと、お言葉もいただいた。納骨をしながら、本当に亡くなってしまったのだなといった実感が急に押し寄せてきた。大好きだった人が、また一人、この世から居なくなってしまったんだな。

お葬式は、祖父と同じお寺で行われた。
祖父の時と同じ和尚さんがお経を唱えてくれて、祖父の時と同じ和尚さんが、戒名を下さった。

月を耕す、という文字が入っていた。
『「月に釣り雲に耕す」という言葉があります。普通、釣りといえば魚を、耕すといえば田畑を、と目的語がありますが、いずれも何らかの収穫が目当てとなります。しかし、その収得を忘れ、ただ釣りのために釣り、耕すために耕すのを「釣月耕雲」というのです。ただ無心に、その先の利益や損得を顧みずに働く。生活のための労働という概念にとらわれず、目の前の作物のために、ただ一生懸命に働いてこられた方でした。私たちでさえ、たださとりを開くもの欲しさのための坐禅をするのではなく、ただ坐るのは難しい。しかし、おばあさんは、それを毎日のように行ってこられました。ちょうど、中秋の名月の美しい時分にこの世を旅立たれたということもあります。お月様を見るたびに、おばあさんの働きぶりに学んだことを思い出すことと思います。』

祖父の時に、祖父には「耕雲」という文字が入った戒名を下さった和尚さんだった。祖父が大好きだった祖母に、とてもお似合いの戒名だ。ありがとう。喜ぶ顔が、目に浮かぶよ。

画像6


画像7


この地に来て、君と、大切な人を2人看取った。
どれも君を心から愛してくれた人との別れだったから、君にとっても、とても辛い経験だっただろう。

その顔から、その背中から、寂しさが伝わる。

私が地元にいられない間も、ずっと私の大切な人のそばにいてくれたのは君だった。
ありがとうね。

共に暮らすこと、時間を共有すること。

本当に大切な人とすら、できないのが現実だ。
死を経験するたびに、私も両親のそばにいなければ後悔するのではないかという戸惑いが襲って消えない。後何年一緒にいられるんだろうなんて不安さえもよぎる。

だけど、それでも、私はこの地で暮らしていく。
自分の足で立ち、自分の進むべき道を進み、その姿を見せることで、親が「この子を生んで良かった。」と思ってくれたなら。今の私には、そんな親孝行の方法しかできないけれど、これが、私なりの両親への感謝の伝え方だ。

そして、いつか私にも、私の新しい家族ができたら。
その時は、君のように、気付けばそばにいて、当たり前のようで普段は気づかないけれど、そういえば精神的な支えになっているような、家族にとっての、そんな存在になりたいと思うんだ。

この地に来てくれて、ありがとう。
おじいちゃん、おばあちゃんのそばにいてくれて、ありがとう。

家族になってくれて、本当にありがとう。

画像8

(祖父母が育てた杏の木)

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 このnoteが、あなたの人生のどこか一部になれたなら。