【第11回】デザイナー原大輔のはじまり
俺が再三言っている「原風景」とはなにか。
1999年からの数年間、友人を通して知り合った仲間たちと作ったコミュニティのことだ。
その前に、俺のデザイナーとしての成り立ちから話そうと思う。
大学受験にことごとく失敗した俺は、最後の最後で夜間の大学に滑り込んだ。現役と浪人時代に美大を受験していたのだが全て不合格。高校の最後の時期までラグビー漬けだったので、当然デッサンなんてやってこなかった。小論文には自信があったので、学科と小論文で受けられる大学を探して、受験した。ひとつは学科で落ち、ひとつは補欠合格。補欠なんで受かる保証もない。結果、不合格。
友達たちに合わせる顔がないと思って、ハワイの留学を考えた。なぜハワイなのか?それは南国でなんとなくだらっと過ごせるなどと夢物語を勝手に抱いていたからだ。(自分が親なら、殴るけどね)いろいろ調べてハワイの大学を受けようかと両親に相談するも、即却下...。
両親は名古屋に住んでいたので、名古屋に来いと催促されていた。せっかく東京にいるのになんでエビフライの国に行かなきゃならないんだよと、東京に残る理由を探した。そこで夜間の大学があることを知って、すぐ申し込んで受験して合格。晴れて東京に残る理由ができたのだ。
合格はでき、東京に残ることができたのだが、デザインの仕事がしたいという思いばかりが募っていた。入学して、大学のアメフト部に誘われたのだが、デザインへの想いを立ち切れずにいた。
1、2年生は御茶ノ水にある画材屋の上の喫茶店でバイトをした。そこは画材屋らしくバイトは全員美大生だった。アートのこと、デザインのことをいろいろ教えてもらった。漠然とデザインの仕事がしたいと思っていたけど、デザインがなんなのか詳しく知らなかった俺の中で、デザインの世界がものすごく拡がったことを覚えている。
インテリアがキてる
「いまは、インテリアがキてるよ〜」あるバイトの先輩からデザインのトレンドとしてインテリアを勧められた。
なるほどインテリアか〜。さっそくインテリアの雑誌を買って読んでみると、非認可のインテリアの学校の広告が目に飛び込んできた。2年間で学費も安い。さっそく両親に掛け合い、大学とインテリアの学校とのダブルスクールの道に進んだのだった。
2年間、インテリアの勉強をして、学校の先生の紹介でデパートなど台湾の商業施設の設計をやっている日本法人に入ることができた。下っ端だった俺は、そのころ導入され始めていたCADやMacをやらされた。パソコンなんて触ったこともなかったが、若いって素晴らしい。なんなくこなしていた。
仕事以外でも課外活動として、インテリアデザイナー「内田 繁」さんの追っかけをしていた。彼の講演や展示会にいき、そこで行われるレセプションパーティに潜り込んで、いつもそばで話を聞いていた。
ある日、レセプションパーティで内田さんから声を掛けられた。
「君、いつもいるよね」
そりゃそうだ、毎回、内田さんがやっているものは全部行って、レセプションに潜り込んで顔を覚えてもらおうと画策していたんだから。
「こんど塾をやるから、君も参加しなよ」
は!内田さんに顔を覚えてもらえる上に、塾生になれるだと?!そんな話にNOなんて選択肢はなかった。
案内をもらい、仕事帰りに、土日に「内田塾」に通うことになった。そこでは錚々たるデザインのインテリたち、松岡正剛さんなど豪華なゲスト陣。夢のようだった。
夢のような時間を過ごし、憧れだった内田さんたちとの会話。しかし...。自分の中で違和感を感じていた。確かに思考を醸成するには最高の場所だし、今考えれば必要なことだと思うが、若干20歳前半の俺には退屈だった。(若気の至り)
かっこいいもの作りたい。ただそれだけが湧き上がってきていた。
次第に、俺の足はその場所から遠のいていた。下っ端がゆえにMacなど触ってるもんだから、これから来る、デザインの新しい動きの方が気になっていた。DTP時代の到来である。
DTPとは、DeskTop Publishing(デスクトップパブリッシング)を略したもので、日本語では「机上出版」や「卓上出版」と言われています。 DTPの主な役割は、パソコンでデータを作成し、実際に印刷物を作成すること
高価だったMacが安価になって一気に広まった、Macintosh LC630
考えたものが即出来上がる。頭の中に出てくるものが、画面上に映った。
「なんじゃ、こりゃぁぁぁあ!!!」
1990年代初頭のグラフィックブームの到来である。
いてもたってもいられなくなり、転職雑誌を読み漁ったのはいうまでもない。
憧れはインテリアからグラフィックデザインになっていた。
インテリア業界1年目、グラフィックの経験もない。
(つづく)
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