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入不二基義「非時間的な時間 第三の〈今〉」を読む

1.はじめに

「非時間的な時間 第三の〈今〉」は入不二基義『時間と絶対と相対と 運命論から何を読み取るべきか』の第一章である。

さて、哲学における時間論では、大別して「A系列」と「B系列」という立場が存在する。「A系列」は時間を独特の「変化」として動的に捉え、「B系列」は時間を順序関係として静的に捉える。この分類はマクタガートという1900年頃に活躍した哲学者によるものだ。

それをふまえたうえで、はじめにこの論文の結論を述べておこう。

入不二は、それぞれの系列が考えるような〈今〉が捉えそこなっている、「第三の〈今〉」があるという。それは「「まさにこの現実世界がある」ということに最も近い何かであり、この第三の〈今〉は、通常のイメージの「時間」からは、むしろ最も遠い「非時間的なもの」かもしれない(36頁)」という代物である。

そして、通常の時間のイメージからほど遠いこの「第三の〈今〉」こそが、現実世界の時間の要となる、というのだ。

以後、「第三の〈今〉」を適宜「まさに現実化している〈今〉」と呼ぼう。

2.同時性としての〈今〉

さて、入不二の順序にならい、B系列的な〈今〉、つまり、同時性としての〈今〉からはじめよう。

まず「同時性」の説明から。
「同時性」とは、二つの出来事の間に成り立つ関係である。二つの出来事E₀,E₁が存在するとき、この二つの関係は、時間的な前後関係で表すことができる。E₀がE₁に対して「より前」か、「より後」か、それとも「同時」の三つのうちの、いずれかになる。これは数直線として表される実数の位置関係、順序関係と非常によく似ている。
このうち「同時」とは、二つの出来事が同じ時点上で成立していることを意味する。

次に、「今、妻は入浴中です」という入不二のサンプルを用いて論を追っていこう。
「今、妻は入浴中です」という表現には二つの出来事が含まれるとみなされる。「妻が風呂に入っている」という出来事はもちろんのことだが、もう一つは「今、妻は入浴中です」という発話や、ペンで書かれた文章や、心の中つぶやきなどである。
これら、発話等々のことを一般に「トークン」と呼ぶ。この「トークン」という出来事が生じている時点が〈今〉なのだ。

「トークン」は、発話等々の出来事の一つであるため、時間軸上に位置づけることができる。「トークン」が生じている時点が〈今〉であり、その時点より前の出来事は過去、より後の出来事は未来ということになる。

3.動く〈今〉

次にA系列的な〈今〉、つまり、時間に特有の「変化」や「流れ」や「動き」としての〈今〉をとりあげる。
と、急に言われても何のことやらわからないだろう。ここでは「変化」という表現にフォーカスして考えてみよう。

「変化」とは、通常の意味であれば、あるものが別の状態になることを意味する。例えば、青空が夕方には赤くなる。子どもが大人になる。コップが割れる、などなど。

だが、A系列では、通常の「変化」から独立した、時間固有の「変化」を重要視する。
時間固有の、と言うからには、この「変化」は時間にまつわる特殊な「変化」である。具体的に述べると、ある出来事がこうむる、「まだ未来である状態から、次に現在へと到来し、やがて過去へと消え去っていくという「変化」である(27頁)」というものだ。
例えば、2100年に起こる出来事Aがあったとして、〈今〉が2022年であれば、出来事Aはまだ未来であるが、時が進めば徐々に現在に近づき、とうとう2100年に現在の出来事となり、さらに時が進めば過去になる。
ポイントは、出来事Aはその性質や内容をまったく変化させることなく、時間的な「変化」のみをこうむるという点だ。通常の「変化」は性質や内容の変化をともなうが、時間的な「変化」は、そういった変化から独立している。
これをつきつめると、世界に状態変化がまったくなく完全に静止した状態であっても、あるいは、何も存在しない空白状態だったとしても、そのような状態とはまったく無関係に、時間変化だけは残る、ということになる。

しばしば、時間的な「変化」は「不動の時間軸上を〈今〉が移動していく」、あるいは、「時間軸のほうが動いていて不動の〈今〉の上を移動していく」というイメージ図でもって表現される。〈今〉は2022年から2100年に移動し、さらにその後も未来に向かって移動し続ける、あるいは、不動の〈今〉の上を時間軸の側が移動していく。(「私見※1」参照)

4.二つの〈今〉は、「第三の〈今〉」を欠落させている

説明した二つの〈今〉のほかに、入不二は「第三の〈今〉」という〈今〉の捉え方があると主張する。しかも、二つの〈今〉は、「第三の〈今〉」は捉え損ね、必然的に欠落させざるを得ないような構造になっているというのだ。

5.同時性としての〈今〉は、第三の〈今〉が欠落している

まず、同時性としての〈今〉が欠落させているものが何かをみていこう。

入不二は「「今、妻は入浴中です」の現実性が……「今」というトークンが生じるどの時点でも可能な、任意の同時性ではないということは、どうやって捉えられるのだろうか。(30-31頁)」と疑問を呈する。

この疑問を言い換えると、こういうことだろう。
「今、妻は入浴中です」という種のトークンはどの時点でも発生しうるし、実際に発生していると考えるべきである。例えば、2022年の私ではなく、2023年の私が「今、妻は入浴中です」と言うこともできるだろうし、100年前のヨーロッパのどこかで誰かが日記に書いた「今、私は空腹だ」という文字も立派なトークンである。
いずれも、同じ種類の〈今〉にも関わらず、他時点のトークンを差し置き、2022年の人間がとらえる出来事が、とりわけ特別な〈今〉だと主張する根拠はどこにあるのだろうか。

それは、まさに現実化しているのは、2022年の〈今〉であるから、という端的な事実でしかありえない。

入不二は「他の時点の〈今〉」を「任意の時点で可能的な〈今〉」(31頁)と呼ぶ。一方、「第三の〈今〉」を「まさに現実化している〈今〉」(36頁)と呼ぶ。つまり、複数の〈今〉の存在を認めつつ、「現実」となっている〈今〉と、「可能」な〈今〉という二種類の〈今〉があるというのだ。

さて、入不二は、まさに現実化している〈今〉を捉える試みとして、二つの方策を検討する。
一つ目は、トークンの反射性を繰り返す方法(「「今」と発話しているこのトークンが今である」と発話しているトークンが今である・・・、というように)であるが、しかし、これは無限後退に終わる。
二つ目は、まさに現実化している〈今〉を、トークンを経由して把握するのではなく、逆に、トークンが発生する際にすでに現実性が読み込まれていることで、まさに現実化している〈今〉を把握していると考える方策である。
例えば、「トークンという出来事に先立つ〈今〉(32頁)」「トークンを介した同時性の把握に先立っている(32頁)」と述べている。
そして、同時性としての〈今〉だけでは、現実化している〈今〉の存在が欠落していると総括する。(「私見※2」参照)

6.動く〈今〉の誤解

A系列的な動く〈今〉が、時間にとって本質的であるという発想には、出来事を、時点という数直線上に固定して配置するB系列にはない、「時間らしさ」を補おうとする動機がある。入不二はこの動機を、「B系列的な同時性としての〈今〉把握に欠けている、まさに現実化している〈今〉を、補おうとする」試みであると評する。

だが、この試みは失敗すると述べる。まさに現実化している〈今〉は、結局のところ、動かないからだ。だが、なぜ動かないのだろうか。

動く〈今〉を、詳しく説明してみよう。それは、「現実化している〈今〉が、時点t₁から時点t₂へと「移動」している(35頁)」という風の説明になる。より細かく描写するならば、「時点t₁が現実化している〈今〉であった ・・・状態から、時点t₂が現実化している〈今〉である ・・状態への「変化」があるだけである……任意の時点がそれぞれ同じく、現実化しうる〈今〉であるということ。つまり、現実化可能な複数の〈今〉が並立していること(35頁)」なのである。

これに対して入不二は、現実化している〈今〉は、そもそもは複数性が意味をもたないような存在であり、一つしか存在しないがゆえに、〈今〉は動かないと反論する。

ただ、入不二は、紙幅の都合なのか、現実化している〈今〉が、なぜ複数性が意味をもたない存在なのかについては、深く言及していない。
補うとすれば、おそらくその理由は、デカルトが懐疑の果てに発見した初発の存在であるコギトが、ただ一つと見なされたことと類比的であろう。なぜ、初発のコギトはただ一つなのだろうか。
簡単に言えば、それは、世界が開けていること、そのものだったからである。世界は「すべて」という意味なのだから、原理的に一つしかない。その外部がありえないような存在なのだ(「私見※3」参照)。

7.時間の かなめ

入不二は「まさに現実化している〈今〉なくしては、時間は「まさにこの現実世界がある」ことと接点を持ち得ない(36頁)」と述べるが、なぜ時間が「まさにこの現実世界がある」ことと接点を持たなければならないのか。なぜ、まさに現実化している〈今〉が欠落していることが、問題を含むのか、ここもやはり紙幅の都合なのか、この論文では詳しく述べられてはいない。入不二の他の論文や著作をあわせて読解する必要があるだろう。

もちろん、まさに現実化している〈今〉がなければ、何もないと言えるほど、実質を失ってしまうという直観は理解できる。だが、B論者のように、実はそのようなものは存在しない、と主張するとも可能ではないだろうか。

とはいえ、まさに現実化している〈今〉という発想は、A系列、B系列双方の時間に関する観念に埋め込まれていると思う。以下「私見※2、※3」を参照されたい。

最後に、なぜ「まさに現実化している〈今〉」という表現なのか。なぜ「単なる現実世界が、〈今〉という時間概念を用いて言い換えがなされているのか。以下「私見※4」を参照されたい。

私見

※1 動く〈今〉の二つの立場

入不二を離れて付け加えるとすれば、動く〈今〉にもさらに、異なる二つの立場が考えられる(永井均訳・注解・論評のマクタガート『時間の非実在性』90頁)。それは、動く〈今〉をどの時点でも成り立つとみなすか、世界にただ一つの時点だけで成立している特異な何ものかとみなすか、である。
入不二はおそらく、後者のA論者を想定していると思われる。なぜなら、A系列を、まさに現実化している〈今〉をB系列に対して補おうとする立場と位置付けているからである。しかし、動く〈今〉の説明の際には、t₁,t₂という、任意の時点を代入できる変数を用いており、前者とも解釈できる。

とはいえ、仮に後者の立場だったとしても、「論文」という、事後的にしか読むことができないトークンで、まさに現実化している〈今〉が存在することを伝えることができるのか、という問題は残り続けるだろう。

なお、同じ時点で議論する場合(例えば、同じ時点で、同じ部屋で議論する場合)は、伝達の問題は起こらない。これは、独我論を他人に語りえないことと類比的ではるが、独今論は同時点の他人と共有することができる。

※2 同時性としての〈今〉の「現実性の萌芽」

B系列から欠落している、まさに現実化している〈今〉が存在するという入不二の主張は、当然のことながら、ハードなB論者には受け入れられないだろう。B論者は、まさに現実化している〈今〉を特別視する理路はなく、そういった主張は無意味、あるいは幻想にすぎないと切り捨てる。
なぜなら、あらゆる時点のトークンが示す〈今〉の存在論的な「重み」は平等であり、特別な時点などは存在しないからだ。入不二が述べるような「トークンが現実化している〈今〉を捉えられない」という種の悩みにさらされることはない。

私の思い出話であるが、私がハードなB論者と議論した際に、やはり、特別な〈今〉など存在しない、言われたことがある。
私はその主張に疑義を差しはさんだ。「それでは、私たちが2012年でもなく、2010年でもなく、2011年に存在しているのか、2011年が端的に現実である事態を、いったいどのように説明するのか」と。それに対する応答は、「そのような認識は真理ではない「幻想」」、というものだったと記憶している。永井均風に言えば「〈今〉は存在しない」ということも可能、といったところだろうか。このことは、『意識はなぜ存在しないのか』という永井の著書のタイトルを思い起こさせる。
純粋に言語的な世界把握においては、特別な〈今〉など存在しない。だが、もし各時点に〈今〉を読み込むのであれば、その観念がどこから輸入されるのだろうか。

以前に紹介した入不二の論文「懐疑論・検証主義・独我論から独現論へ」の、「現実性の萌芽」という言葉を借りて、B論者への反論は、以下のように表現した方が適切ではないだろうか(入不二の他の著作でより優れた表現があるかもしれないが、私が一介の労働者ゆえの不勉強をお許しいただきたい)。

「B論者は各時点で生じる〈今〉をトークンを介して分析するが、その動機はいったい何であるのか。B系列にとって〈今〉など余計なものではないか。少々言いかえると、B論者はなぜわざわざ〈今〉を分析しなくてはいけないのだろうか。実は、その動機のうちにこそ「現実性の萌芽」がある。
まず、B論者はただ一つしかない〈今〉を、「現実」「可能」の対比のもとで捉えることで〈今〉を複数化する。そのあとに、「現実」が内容を含まない無意味なものであると言い立てて、その突出性を押しつぶすことで、すべての〈今〉を均一な「すべて可能的」であるという相のもとに捉える。
この把握は、実質的に「可能」の意味をも消滅させる。なぜなら、それら可能的な〈今〉は「現実」になりえないからである。「現実」になりえない可能性など、もはや「可能」とすらいえない。
そして、様相概念を離れて、単に複数個存在する出来事の実在として捉える。だが、そうなってもなお、なぜ彼らは〈今〉などという、B系列にとっては不純な存在者を分析しなければ気がすまないのだろうか。その動機こそが、「現実性の萌芽」である。
〈今〉とは、元来「現実」「可能」の対比において意味をなすような複数性だったはずだ。まさに現実化している〈今〉こそが、「現実」「可能」にはじめて意味を与え、〈今〉の複数性を認めようとする起点となっているのではないだろうか。」

※3 動く〈今〉の「現実性の萌芽」

これもまた入不二の「懐疑論・検証主義・独我論から独現論へ」における独我論のように、動く〈今〉が誤っているとしても、厚遇する余地ができるのではないか。
※1で紹介した、動く〈今〉の二つの立場のうち、後者の「世界にただ一つの特異点としての〈今〉が存在する」という立場であれば、動く〈今〉は、現実世界があるという端的な事実を、あくまで時間概念の相のもとではあるが、B系列の牙城から復権させる試みだと解釈でき、「現実性の萌芽」を動く〈今〉に見出すこともまた可能だろう。
どの時点にも〈今〉が存在するような、均質化した時間観がB系列だとすると、そこから「世界にただ一つの特異点としての〈今〉が存在する」と認めて、まさに現実化している〈今〉を突出させようとするのがA系列である。その突出の動機を与えるのは、まさに現実化している〈今〉が、この時点において、世界そのものであるようなあり方をしているからだろう。

※4 「現実世界」が、「まさに現実化している〈今〉」と言い換えられる理由

A系列、B系列がともに欠落させる、まさに現実化している〈今〉は、〈今〉である以上、時間概念のもとで理解するべきだろう。そうでなければ、まさに現実化しているものが何であれ、〈今〉という表現を選択する理由はない。
だが、あくまで時間概念を供給できるのはA系列、B系列で取り扱われる種類の時間概念だろう。

時間概念を輸入することによって、まさに現実化している何ものかは、まさに現実化している〈今〉へとその相貌を変える。これを初発の、まさに現実化している何ものかの変質と捉えることも可能であるだろう。

私たちは、この現実化している何ものかを、素のままで捉えることなどできるのだろうか。できない、という道もまた開かれているのではないだろうか。

参考文献
入不二基義『時間と絶対と相対と 運命論から何を読み取るべきか』勁草書房(2007)
ジョン・エリス・マクタガート 永井均 訳・注解と論評『時間の非実在性』講談社(2017

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