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幸福の形は"好きこそものの上手なれ"『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』青山拓央

幸福とは何か?なぜ幸福なのか?

本記事は青山拓央著『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』のうち、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の「エウダイモニア」にまつわる幸福論が提示される第一章を元に展開する。

青山拓央は日本の哲学者で、現在は京都大学大学院准教授。以前紹介した永井均の教え子のひとり。

ちなみに、アリストテレスは紀元前古代ギリシャの哲学者であり、かつ、その多岐にわたる自然研究の業績から「万学の祖」とも呼ばれる最強の学者である。アレクサンドロス大王の家庭教師で、マンガ『ヒストリエ』にも登場。

何のために生きているのか?

何のために生きているのか?という問いに向かう前に、まずは日常風景を眺めてみよう。

私たちは普段からさまざまな行為をしている。朝ご飯を食べたり、仕事をしたり、勉強したり、眠ったりする。

これらのごく日常の行為は、何らかの「よさ」を得ることを「目的」とする手段である。例えば、医療行為は健康という「よさ」を、大工仕事は家屋を、戦争は勝利を、泥棒は金品を、というように。仮に反道徳的な事柄であっても何らかの「よさ」を「目的」としている。

そして、目的は次なる手段へと連鎖していく。例えば、遅刻しないように電車に駆け込むのは時間通り出社するためであり、時間通りに出社するのはちゃんと働くためであり、ちゃんと働くのは金を稼ぐためである。

しかし、なぜ金を稼ぐのか?生活するためか?なぜ生活するのか?生きるためか?では、なぜ生きるのか……?

「どうせ死んでしまう」という人生無意味論に抗って

私たちが行為を通して得られる成果は、いずれ無に帰す。人生はいつか終わり、人類も地球も、あるいは宇宙もいつか消滅する。

いずれすべては無に帰すというのにどうしてあくせく生きているのだろう。これが「どうせ死んでしまうのに」というセリフに代表される人生無意味論である(中島義道が著名)。

――二百年も経てばいま生きている人間はみな消え去り、数万年かあるいは数億年経てば全人類もおそらく消え去るだろう。同様に、人類の作り出したあらゆる文化も、やはりいつかは消え去ってしまう。では、私たちは何のために生きているのか。自分のためにしたことであれ、他人のためにしたことであれ、すべてが無に帰してしまうのであれば、あらゆる営みは無意味ではないのか。「何のためにそれをするのか」。目的をつねに未来に置くことでこの質問に答えていくなら、「その目的の目的はなにか」「さらにその目的は何か」……、これらの質問に答えつくすことはできません。
『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』58-59頁

人生無意味論は、手段としての行為によって到達されるようなある目的を、さらなる別の目的を目指すための手段と見立てることによって成立する。すると、手段と目的は連鎖していく。

そして、人生や人類史を手段と目的の連鎖の総体と見たとき、その総体は自分の死や人類・宇宙の消滅によって終息し、目的であるはずの一切の成果は残らない。いかに美しいものを生み出しても、素晴らしい発明をしても、平和な家庭を築き上げても、あらゆるものは消え去る運命にある。それなのに生きている意味などあるのだろうか?

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好きこそものの上手なれ(エウダイモニア)

人生無意味論から逃れる方策として、青山が紹介するのがアリストテレスの「エウダイモニア」である。エウダイモニアとは「最高善」「幸福」「繁栄」などと訳され、そもそも訳が難しい単語だが、本記事では、それ自体を目的とし、他の目的を目指すための手段にはならない自己目的的な事柄として扱う。

そのようなものがあるだろうか?と思われただろう。意外と身近にあるものだ。

青山がバートランド・ラッセルの『幸福論』における「熱意」の概念を援用して挙げる例としては、「家族で面白い話をして笑うこと」「画家が、コンクールの入賞やその後の賞賛などではなく、美しい画を描くことそれ自体に生きがいを見出していること」「草野球で各プレイに没入し熱中すること」などが挙げられている(ちなみに、アリストテレス自身は政治と観想の生活を勧めている)。

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賞賛を得るためでもなく、金銭を得るためためでもなく、誰かを喜ばせるためでもない。外部に目的をもたず、それ自体が楽しいこと、喜ばしいことであり、それ以上の目的も理由もないものである。いわば、行為そのものが目的であるような行為である。

ただし、麻薬で得られるような単なる快感はこの限りではない。なぜなら、エウダイモニアに至るには、行為者が持つ力量(徳)が行為を通して十全に発揮されることが求められるからだ。

力量(徳)が十全に発揮されるためには、葛藤や、苦しみや、努力や、強い意志のもとに動作しているようではダメである。自然に、好んで、力みなく、動作する必要がある。

そのためには、行為そのものが目的であるような行為を繰り返し、その行為をよりうまくなすような習慣づけが必要である。真に徳のある行為は、好んでなされるため、継続した習慣づけが自然になされ、よりその行為は水準の高いものなる。いわゆる、好きこそものの上手なれであり、それこそがエウダイモニアに至る道なのだ。

実際のところ、心身が自然に動き、力量(徳)を十全に発揮することは簡単ではない。今現在への集中を欠くような事態、例えば、後悔(過去へのこだわり)、不安(未来へのこだわり)が妨げになる。

だが、エウダイモニアが幸福であることは、ある種の心理的事実と言えるだろう。好きなこと、興味のあることをして、そのスキルが向上しより洗練され、さらにそれをなす糧になるのである。これが幸せではないはずがない。

ときには窃盗術や殺人術など道徳的には賞賛されないようなエウダイモニアもあるだろう。それでも、祝福されるべき「よさ」があるのだ。

人生はいつか終わる。どうせ死んでしまう。私たちが生み出した数多の成果はいずれ無くなる。何も残らない。そのためにむなしい気持ちになるかもしれない。

だが、何も残らなかったとしても、それだけでむなしいと言い切れるものではない。人生の中に描かれたそれぞれの「よさ」は、未来に何かを残せなくとも、それ自体の輝きだけで、ただ祝福されるべきものなのだ。何かを後世に残すことだけが、人生の目的ではないのだから。

幸福の幸運と、不幸の残酷さ【後日談的所感】

実は多くの人は祝福されるべき人生を信じて、その人生の中を生きている。人生無意味論を唱えている人も、実は今現在その祝福を受けているか、将来祝福されることに望みを持って生きながらえている。

一方、一切の祝福を受けられないと確信に至った不幸な人は、もはや人としてはこの世にいないだろう。祝福され得ない人生を終わらせるため、人知れず苦痛に満ちるであろう人生に幕を閉じるだろう。

希望と絶望、どちらの道も万人に開かれている。人生の存続に疑問を持たない人も、たまたま幸福な人生を信じることができているに過ぎない。

祝福を信じるためには、自分の能力と幸運を信じることが必要である。例えば、草野球を楽しむ力、家族との会話を楽しむ力など、何であれ力量を発揮し熱意をもって楽しむための能力の有無は、熱意を持つために必要な最低限の努力をする力も含めて、実のところ天賦の才が必要であり、さらには、そのような力を発揮するための環境も必要だ。潜在的な能力は何の意味もない。

試みに、数学がとても好きで、数学的な問題を解くための高い素質を持っている人を想像してみよう。その人が住む社会では数学をすることが固く禁じられており、数学をするいかなる機会も与えられないとしたら、その人は熱意も能力も発揮できない他の何かをするほかない。その人は数学によって幸福にはなれない。

われわれは可能性の世界を生きている。われわれのある人は偶然にも幸福であり、ある人は偶然にも不幸である。それは誰のせいでもない。ただ受け止めることしかできない残酷な事実なのだ。そして、そこから人生を始めなければならない。

さて、この世界は祝福されているだろうか?

※参考文献:『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』青山拓央  太田出版(2016)


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