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【読解】飯田隆「言語とは何か?」

本noteは、『現代思想2024年1月号 特集=ビッグ・クエスチョン(青土社)』に所収された、飯田隆の「言語とは何か?」という論文の主張を検討したものである。本論文は、ウィトゲンシュタインの哲学的態度の変化を道標に「言語とは何か?」という問いについて考察している。
さて、「言語とは何か?」という問いは、特有のフラストレーションが伴う。概ね飯田は次のように言う。

「言語とは何か?」と問うとき、ひとはすでに言語を使わざるをえない。問われている等のものを前提しないと、何も問うことができない。われわれは言語を檻と思いなし、奇妙なフラストレーションを感じる。

「言語とは何か?」197頁

では、飯田からしばし離れ、ウィトゲンシュタインであれば「言語とは何か?」という問いにどのように答えそうか、少し考えてみよう。

まず、『論理哲学論考』は、「言語とは何か?」という問い自体が、そもそも錯覚だとかわすだろう。『論理哲学論考』の態度は、「論理」がさまざまな言語の基礎にあり、その言語は世界の構造と対応しているという世界観である。「多摩川の上流で雨が降っている」という文は、世界で起こりうる多摩川の上流で雨が降っているという事実を完璧に記述する、というわけだ。世界の構造=言語の構造なのである。
『論理哲学論考』によれば、本質をめぐるような哲学的問いは無意味である。なぜなら、言語は世界の事実を記述しえるものしか許されないからである。世界の事実とは、先の「多摩川の上流で雨が降った」のような経験命題に対応するもののみである。だから、「言語とは何か?」という、世界で起こる事実を記述しえない問いとその答えは無意味なのである。
とはいうものの、『論理哲学論考』が全体として「言語とは何か?」という問いに答えた書物であり、例外的に無意味ではない。ウィトゲンシュタインが特権的に言語の意味を与えているのだから、前提としてそうに決まっている。「言語とは何か?」には2通りの答え方(2枚舌)があるわけだ。

また、『哲学探求』も同様に錯覚だとかわすだろう。『哲学探求』の態度は、『論理哲学論考』とは対照的に、「言語」は他のありふれた「テーブル」や「椅子」や「六法全書」などとの言葉と同じ地位であると主張した。「言語」という言葉は、ありふれた他の言葉と同じく「テーブルにお茶を置いてくれ」と言うときのような、人々の実用的なコミュニケーションにおける道具としての地位なのである。ざっくり言えば、生活に役立つ身振りや交通標識やチェスのルールなどと同じであり、これらは総括的に「言語ゲーム」と呼ばれる。だから、ここでの「言語」は例えば、「鳥も言語を持つらしい」や、「あのプログラムの言語は何だろう?」と言うときに使われる意味以上ものはないわけだ。「言語とは何か?」という問いは、「ドアとは何か?」と同じレベルの問いなのだ。「ドアとは何か?」は「ドアは建物の内外に出入りする任意のタイミングで壁を開閉するための機構である」などの辞書的な回答が考えられるが、「言語とは何か?」はこれと似たような回答で事足りる。つまり、「言語」という言葉で、ひとびとがどういったコミュニケーションをとっているのか観察すればよい、といった答えになる。
その前提で、ウィトゲンシュタインに「言語とは何か?」と問えば、「言語ゲームである」と答えたことになる。これはウィトゲンシュタインが、言語に言語ゲームという定義をもたせたから、前提としてそうに決まっているのである。ここでも「言語とは何か?」には2通り(2枚舌)の答え方があるわけだ。

2通り(2枚舌)の答え

では、今一度冒頭の問題意識に立ち戻ろう。「言語とは何か?」と問う際に、すでにして言語を使用していることに対する、フラストレーションの問題である。つまり、これから解明しようとしているものを使わないと、その問いをたてることさえできない、という問題である。われわれは言語とは何かを知らない状態で、つまり正当化されていない道具を使って問いをたてざるを得ない。その問いは、結局のところ、正当な問いになっているのだろうか。

飯田は本論文で、『論理哲学論考』のような、言語の超越性を認める立場がフラストレーションを生み出すと述べている。そして、『哲学探求』はその脱却にもっとも役立つとしている。概ね以下のとおりと読める。

『論理哲学論考』のように、言語が超越的だとみなされるのは、論理をわれわれが好き勝手に変えられないことに端を発している。これがフラストレーションの原因なのである。だが、現代では、ウィトゲンシュタインや、その先駆者であるフレーゲが見出したような論理は絶対的なものではなく、他にも様々な種類の論理があることがわかっている。こうした事実から、論理や論理に基づく言語が何であるかは、経験的に探究されるべき課題である。

「言語とは何か?」210頁

「経験的に探求されるべき」という主張は、『哲学探究』の内部に即した考え方であるといっても間違いはない。

『論理哲学論考』では哲学的問いは無意味だと言ったが、『論理哲学論考』自身だけは別である。この哲学だけは他の哲学と違って外から言葉や世界を定義する唯一の前提であり、それがゆえに自己否定の書なのである。ウィトゲンシュタイン自身もそのことを自覚している(だから、梯子は登ったあとに投げ捨てられなければならない)。
だが、それは『哲学探求』も実は同じではないだろうか。結局は、『哲学探求』の「すべては言語ゲームだ」という主張だけは、言語ゲームの中には登場せず、経験的に知られるものではない。
たとえば科学的な知は経験によるものだが、実験や調査を積み重ねて知を構築できるのは、それらのデータの累積を知とみなせる地盤があるからである。その前提とされる地盤でさえ、経験的な知に支配されているのだとしたら、その地盤としての経験的な知は何によって正当化されるのだろうか。さらなる経験によって?
そうではなく、私たちが問いをもつ瞬間のこの言語の正しさだけは、経験によって正当化されるものではない。すでに言語によって支えられていなければ、私たちは何も問えないという驚くべき事実なのである。「なぜなのか?」や「何であるか?」以外の問い方が可能なのだろうか。その可能性が、私たちに理解可能な形で開かれているとは考えにくい。『哲学探求』では、知の根底が、盲目的な跳躍によってなされていることを暴いたのだが、言語への問いにまつわるフラストレーションもこの盲目的な追認に対する、いらだちなのではないだろうか。

続編はこちら。

※ひとまず、このnoteは投稿するが、非常に難しく、かつ大切な問題であるため、また考え直すときがくるだろう

※参考文献『ウィトゲンシュタイン入門』永井均(1995)ちくま新書


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