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カルヴァンって、こんな人。その2

ジャック・ブロス「世界宗教・神秘思想百科」 ‎ JICC出版局 (1993/3/1)より

■ジャン・カルヴァン(1509年、ノワイヨンージュネーブ、1564年)
宗教改革の第二の大司教ー ルターよりも急進派のカルバンは、浄化した教会を組織化し、新しい社会を作ろうとした。

■改革への道のり
・父はノワイヨン司教区教会参事会の法律顧間。
・パリのコレージュ・ド・モンタギュで学び、オルレアンとブールジュで法律を修める。文学に向かい、人文主義者の仲間と交流し、1534年にきわめて学問的な『セネカの「寛容論」注解』を出版。
・1533年11月、大学長のニコラ・ラップがルターの命題に好意的な檄を発し、議会は彼を逮捕すると同時に、この檄文を起草したのではないかと疑われるカルヴァンの逮捕を発令。
・カルヴァンはアングレームに逃亡、さらにフランソワ一世の妹で宗教改革の擁護者マルグリット・ド・ナバールがいるネラクに避難。
・その後、バーゼルに移り、1534年「キリスト教要綱」のラテン語訳を出版。
・ジュネーブに一時滞在。宗教改革を進めていたギヨーム・ファレルに引き止められるが、1538年、反対派により排除される。
・マルチン・ブツァーから招待され、宗教改革の中心地シュトラスブルクへ。
・1541年、ファレルに呼び戻されたカルヴァンは、ジュネーブを「模範的な市」にしようと決心する。神学者として、また説教師としての栄光もあって、押しも押されもせぬ指導者となった。

■改革された教会
・彼の「規則」の実践にあたって、新教に四つの聖職者が作られた。説教を担う牧師、教育を担う牧師、病人や貧者の世話をする牧師、宗務局に集まり生活態度の矯正を見守り、めいめいの市民の密接な監視を行う長老である。

このきびしさは反対派を生み出したが、カルヴァンが鎮圧。穏健派や直接的な天啓を受けたと主張する人びとを刺激した。 1553年に、カトリック教徒に従い、ジュネーブに避難したミシェル・セルベ医師を断罪するのにも躊躇せず、火あぶりの刑に処した。1559年にジュネーブ・アカデミーが創設され、初代院長はテオドール・ド・ベーズだった。

■頑固 一徹の人
病弱で老け込んだカルヴァンは、晩年相当苦しんだが、おのれの任務を忘れることはなかった。ジュネーブ出身の宣教師たちがオランダやドイツ諸国やイギリスやスコットランドやポーランドやハンガリーまで教義を広めた。第一回教会会議が、1559年に設立したフランス新教教会は、1561年に2、510を数えた。カルヴァンが死んだとき、カルヴァン主義はルター派よりすでに、はるかに広まっていた。臆病で病的なカルヴァンは、「神の唯一の栄光」の名において、人間の導き手の使命を果たしていた。このことは、彼がしばしば非難された頑固一徹であることを証明していた。

■著作
1536年の『キリスト教綱要』は、1541年にカルヴァン自身によってフランス語に翻訳され、続く二度の出版で(1539年と1559年)かなり増補された。『規則』は新教教会の基礎となった。その他にカルヴァンは、『教理間答集』 (1536年)を出版したが、1559年― 1560年において記念碑的な量とな った。それに聖体の実在性に関する『聖餐式小論』(1541年)を出版した。聖書の注釈および論争集 『聖遺物論』 (1543年)、『醜聞論』(1550年―1551年)もある。明快で辛辣な文体のために、カルヴァンは近代フランス語の創造者のひとりになった。

■教え
カルヴァンには ルターの激しい歓喜も寛大さもないが、誰も彼を独創性が少ないと非難はできない。というのは、彼が霊感を受けるのは自分の教義からだからだ。 ルターは神秘主義者で個人主義者だったが、法律の教育を受けたカルヴァンは、まず新しいキリスト教都市を実現したかったのだ。そしてジ ュネーブを「神に奉仕し、その状態を保持すること」と、「徳高く公平で慈悲深い人間を形成すること」を目的とする都市にしたかった。

彼が創設した教会組織は、教区会議から地域および国家の教会会議にまでまたがる、牧師と一般信者とで作られた重層的な議会で構成されている。まさに近代民主主義を予告するシステムである。

ルターよりも暗いカルヴァンは、人間の本性について根源的なペシミズムを示している。まず人間は、もともと自由であったが、神と一体になって初めて永遠の生命を獲得することができた。しかし、神に従わない人間は、反逆者、つまり「誘惑者」の犠牲になった。それを乗り越えるために何も企てることはできない。唯一、神が発する恩寵が、その隷属状態から解放させるのだ。

この神の至高性を肯定するカルヴァンは、それゆえ絶対的な救霊予定説を表明するようにな った。 この説は彼の後期の著作に表れ、現在のカルヴィニストたちは留保なしには同意していない。カルヴァンは、アウグスティヌスが表明した二重の救霊予定の主題をふたたび取り上げる。選ばれた人は神の無償の慈悲を表すが、不信者は罪に対する神の復讐の怒りを示す。カルヴァンは神の怒りを極端に押し進める。復讐の怒りは「堕落」以前、「宇宙創造」以前に神によって発せられたのだ。

カルヴァンがジュネーブで著述し、カルヴィニズムの永遠の特徴の一つになった社会的な人文主義の形は、きわめて我われ現代のものに近い。神の民は、連帯している。この立場のもとで、彼らはお互いに相互援助をしあっている。だからカルヴァンは、病人や傷痍軍人や老人の救護の社会組織や、めいめいに充分な糧を保証する雇用の規則を、初めて作ったのである。

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