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カルヴァンって、こんな人。その3

水村光男「この一冊で世界の歴史がわかる!」三笠書房 より

■カルヴァン主義はどう広まったか?
ジャン=カルヴァンは、フランス東北部ピカルディ地方のノワイヨンで、かなり裕福な家に生まれた。パリ大学などで法学・神学・古典語を学んだが、やがて福音主義に転じたため、迫害を恐れてパリを離れた。

フランスは中世以来、「ガリカニスム(カトリック信仰を守りながらフランスの司教権を教皇権の支配外に独立させようとする主張。国家教会主義とも いわれる)」を唱え、パリ大学神学部はすでに1521年、福音主義を「異端」と断定していた。

34年にスイスのバーゼ ルに居を定めたカルヴァンは、36年、27歳の若さでプロテスタントを擁護する神学書 『キリスト教綱要』を著し、大きな反響を呼んでたちまち新教理論の指導者と目されるにいたった。

新しい教会の建設は、1536年、たまたま立ち寄ったジュネーブで教会革命を依頼されたのが始まりであった。

彼は単なる福音主義にとどまらず、道徳的な峻厳さを要求する 「信仰告白」に各人が署名することを求めたため、彼を「余所者」と見ていた市民は反発し、 一時彼は市を追われた (1538〜41)

党争をくり返して弱体化した市で改革派が勝利してカルヴァンもようやく市に復帰すると、市政府との協力関係を樹立する一方、信徒に関しては「長老会」 にすべてを委ねた。

「長老」とは、平信徒のなかから信仰・道徳ともに模範的な人物を選び、彼らが牧師 (新教諸派では聖職者をこう呼ぶ)と協力して自律的に教会を運営してゆくもので、国家権力からの教会の独立を図ったといえる。

55年、市参事会選挙でカルヴァン派が勝利をおさめ、国家に対する教会の優位が決定された。これをさして「神権政治」ともいう。

カルヴァンの考えはルターと同様に福音主義であった。しかし、彼は 「救済」について一歩進め、「人が救済されるのは予め神によって定められた予定であって(予定説)、人は自分の救済についてはただひたすら自分が救済される側にあると信じることができるだけだ」とした。

そして「救済」についての確証は、各人が社会生活によって「成功」することであると説き、社会的成功は勤勉・禁欲 ・節倹によって得られる、とした。それゆえ当時勃興しつつあった新興市民階級の生活理念と一致して、彼らの支持を得ることができたのである。

■福音主義 ー出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
福音主義(ふくいんしゅぎ)は、キリスト教の用語で、大別して以下2つの異なる意味を持つ。

1、ドイツ語: evangelisch(主にドイツ語圏で)
・(狭義)16世紀の宗教改革において主流派の地位を築き、その伝統の上にある教派。具体的には、ルター派教会、改革派教会(カルヴァン主義)、そしてその両者からなる福音主義合同教会が含まれる。→福音主義教会
・(歴史的)その中でも特に、初期のルター派が自己言及において用いた言葉。
・(広義)現代ドイツ語では、いわゆる新教(プロテスタント)全般を指す言葉。
2、英語: evangelicalism, evangelical / ドイツ語: Evangelikalismus, evangelikal
・プロテスタントのうち、米国・英国をはじめとする英語圏を中心として、自由主義神学に対抗して近現代に勃興した、聖書信仰を軸とする神学的・社会的に保守派のムーブメント。→福音派

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