#7 マヤ文明におけるヒトの立ち位置
参考図書:知られざるマヤ文明ライフ(響田亜紀子・誠文堂新光社)
はじめに
上司との会話で偶然「マヤ文明」が出来たのですが、私自身、まったく知らなかっため、たまにはビジネス書以外も読んでみようと手に取りました。
すると、これまで記事にしてきた「仕事の楽しさ」や「しあわせな組織」、「しあわせ、とは」から、格段に視点の上がった「人間とは」が見えてきました。
しかも、その価値観の軸は、人間ではなく、自然(神)にあり、人間は、自然との共存ではなく、自然との融合のように見え、究極の多様性と感じました。
1アラウトォンは、「6,308万1,429年」のこと
高度な天文知識を有するマヤ文明では、1日や360日(約1年)を表す単位から、何百年、年千年、何百万年と、日付の単位が存在していたそうです。
これが意味することは、「1アラウトォン(6,308万年後?)」を使う場面があったということだと思うので、現代の価値観における時間軸とは、未来の置き方が全く異なっています。
(英語でも、one decade の10年を表す単語がありますが、次元が違いますね)
それは「私」や「人間」が存在していないかもしれない世界観であり、「人間」が主観では無いということかと思いました。
では、「人間」が主観ではなければ、誰が主観か、というと、それは自然環境であり、神さま、となりそうです。
書籍の中でも、マヤの人たちが、あらゆる自然環境に神さまが存在すると信じており、厳しい自然環境を生きていくには、神さまに加護がもらえるように神さまに奉仕していくのが当然だったのでは、と書かれてました。
このため、神さまを軸に、あらゆる活動が行われていたようです。他の地域との戦争についても、目的は、征服や略奪ではなく、捕虜を獲得して神さまへの生贄にすることだったようです。
マヤの人々は、神さまにお願い事をする代償として、人間の血を捧げなければならないと考えていたようです。このため、王や高位の者も自らの血を捧げていたようです。
つまり、自然と共に生きる(SDGsの考え方)というよりは、自然の大きなサイクルに「人間」も溶け込もうとする考え方であったように感じました。
(やり方はいったん置いといて)
何千万年先という途方もない時間単位で、「自然(神)に対して人間が果たす役割」をどのように語っていたか、非常に興味深いですね。
(6300万年後の君へ、は壮大すぎますね)
自然環境がもたらす影響が、現代とは全く異なっていた点も大きいですが、改めて、当たり前が当たり前ではない、人間が主人公でない視点に立つ面白さを感じました。
Appendix
ちなみに、マヤは20進法(先ほどの単位も20で新たな単位になってます)で数字を扱っており、ゼロがすでに存在していました。(インドでゼロを確立するより数百年早いそうです)
また、暦が2つ有り、その2つは約52年を周期となっていたようです。(厄年で考えると、ちょうど良いタイミングに思えます)
その高度な天文学の知識により、「エル・カスティーヨ」の神殿では、春分と秋分になると、太陽が作り出す影によって、ククルカンという羽毛のヘビの神さまが姿を表す仕掛けとなっています。
また、土木工事についても、きわめて高度であることが書籍で紹介されています。
つまり、何が言いたいか
この極めて高度な文明と、生贄による神への奉仕が、あまりにアンバランスに思えており、非常に尖った文明であったと感じました。
また、時間を見つけては、色んな価値観、多様性を調べてみたいと思いました。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?