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日本は「2050年を生きている」?それとも「神経症」?

「Japan is living in 2050」というネットミームをご存じでしょうか?これは、日本の技術や文化が他国に比べて非常に未来的であると驚きや称賛を込めてyoutubeやtiktokなどのSNS上で語られる表現です。たとえば新幹線の正確さ、ハイテクトイレ、徹底されたサービス精神。これらの事例は、日本がまるで「未来」に生きているように見える理由として、よく引き合いに出されます。

たとえば、ハイテクトイレ。日本の温水洗浄便座(いわゆるウォシュレット)は、訪日外国人に「未来的なトイレ革命」と称されるほどの驚きを与えます。自動で開閉する蓋、温かい便座、調整可能な洗浄機能や消臭機能など、細部にまで配慮された機能は、まさに「2050年」を体験しているように映るのです。同様に、新幹線の正確な運行やその安全性は、海外では驚異的なものとして捉えられています。(実際、アメリカのトイレでウォシュレットは見たことがないですし、そもそも一つも故障していないパブリックトイレも珍しいくらいです。私が住む町の電車は、しょっちゅう前触れなく30分くらい停止します)

私はMBAのプロジェクトで企業とともに活動していたとき、あるインド系社員から「日本に行ったことはないけど、‘Japan is living in 2050’の動画でどんな国か知ってるよ」と言われたことがあります。その瞬間、改めて日本の「未来的な姿」が海外でどのように見られているのか実感しました。その一方で、『2050』と言われるほどのクオリティや進んだ製品群、それをどこででも当たり前のように享受できる環境が、日本人の働く人々の多大な努力によって支えられていることも、私たちはよく知っています。

食品パッケージの例を挙げましょう。ある海外の有名食品メーカーが日本市場に進出しようとした際、消費者が食品パッケージの細部にまで異常なほどこだわるという事実に直面しました。たとえば、パッケージに少しでも傷があれば購入されないのは当たり前、そもそもパッケージは運搬では歪まないが開けるときには抵抗なくスッと開く構造でなければならない。整然と美しく並べられた商品棚が当たり前で棚管理も重要。これを聞いたメーカーの幹部は、「なんだって、それじゃあまるで神経症レベルじゃないか」と天を仰ぎました。彼らにとって海外市場と日本市場で求められるクオリティが違いすぎて、規模もコストも非常に大きな挑戦だったのです。(一方でアメリカのお菓子やカップ麺のパッケージについては、ある人が揶揄していた「アメリカの食品パッケージの8割は、開くべき場所から開けようとしてもうまく開きません。残りの2割は、初めからどこかが開いています」という言葉がその通りだと笑いました。そんなものなのです。日本ではどちらも、許されないことですよね)
製薬メーカーの在庫管理の例でも、あるグローバル企業のひとから聞いた話では、他の国に比べ日本は在庫の量を常に多く保たなければならず、在庫管理コストが異常に高くなり、グローバル管理部門からプレッシャーをかけられるそうでした。その理由は、何があっても欠品が許されない、日本の国の厳しい管理体制だそうです。日本の医薬品管理の質の高さは誇るべき点も多く、良し悪しは別としてですが、日本はそれだけ他国と比べ極端な水準にいるということは知っておいてよいかもしれません。

こうした完璧主義の文化は、日本の消費者にとって「未来的な品質」を実現している一方で、製造業やサービス業における負担は計り知れません。新幹線の運行ひとつを取っても、その正確さを維持するためには、鉄道会社の管理者や現場作業員が厳格な基準の下で業務をこなしています。同様に、ホテルやレストランの「おもてなし」も、その期待値を満たすために従業員が過剰なプレッシャーを感じることが少なくありません。

とはいえ、日本は物質的には「2050年を生きている」と言われるほど、素晴らしいクオリティの製品やサービスをあまねく享受できる国です。それは、世界から賞賛を浴びていると言って過言ではありません。一方で、私たちが日本で「当たり前」ととらえているものは、世界水準ではやや「頑張りすぎ」の高い水準であることも、知っておいてよいかもしれません。「これくらいやれて当然」と厳しい目で見るのではなく、少しだけ肩の力を抜いて、遊びを許してもいいときなのかもしれないなと思います。

この「2050」と称されるクオリティを誇りにしつつも、少しだけ余裕を持つことで、日本の未来がさらに豊かで持続可能なものになることを願っています。

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