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(読書)「ぼっち」上等説。

おはようございます。

私には、もともと、自分の言いたいことを4割くらいに薄めて伝えないと、相手を傷つけてしまう、というコミュニケーション障害のようなものがあります。

例えば、

「え、それって駄目じゃないですか?」

「○○くん、学校でちゃんとやっていけてる?(いけてないよね?)」

みたいなことを空気を読まずに発言して、場を凍らせてしまうのです。

はい、みなさんどこかで見たことある「KY」なママ友、

それが私です。

さすがに30年以上生きていると、折り合いがつくようにはなりましたが、日本においては、「ストレートな物言い」がダメだ、ということをアメリカに住んでみて初めて理解しました。

アメリカにおいては、英語コミュニティだろうが日本語コミュニティだろうが、私のストレートな話し方で傷ついている人はいませんでした。

これは私の人生で一大発見でした。

空気を読めないこと、物言いがストレートなこと、ハイコンテクスト(行間を読み、ストレートには伝えられない)の日本に生まれてしまったが故の、自分の問題なのだと思います。

日本における、

「優秀さを出してはいけないが、ダメすぎるのもNG」

という、日本人同士のコミュニケーションは

何十ものヴェールのようなものをかぶっており、本質が見えないため、日々とても苦しさ、息苦しさを感じます。

自分は〇〇ができる、

自分はとても成功している、

自分はダメなところもあるが、満足している、

という態度だと「マウント」だと思われてしまうのです。

私は人を褒めるのが好きですが、褒めない人に気を使って褒めるのもとても疲れます。

改善しようと思いつつ、今も私は「アナと雪の女王」ばりに、空気を凍らせ続けています。

もちろん、職場ではうまく我慢します。

ただしとても苦しいです。

いる場所が間違っているだけなら、地球上を移動すればいいのでは?と思っています。今のところ仕事がないので、仕方がなく日本にいてせっせと納税しておりますが、チャンスがあればいつでも居心地のよい場所に移動したい、と思っています。

私のような人は、遠回し文化・京都人コミュニティに入ったら、絶対に生き延びられませんね。

近くの京料理屋で食事をした際も、遠回しに「そろそろ帰れ」と言われましたが、だいぶ時間がかかりましたし、不愉快な気分になりました。

「おお!すごい!話が通じる!」と思えた人は人生で1-2人、数えるほどしかいませんが、学者系が多く分野が異なるため、通じるからといってそれが良いというわけでもないのが残念なところです。

ところで、引き続き中野信子先生のこちらの本を読んでいます。

読めば読むほど、歯に衣着せぬとはこのことか、と思います。所属団体からの批判など、ないのでしょうか、と心配にもなってしまいます。


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日本における「正しさ」「正義中毒」について、先生はこう書いています。

鉄道を例に挙げたが、日本全体に、どの分野にも、独特の空気とでも言うべき言語化しにくい何かがあるように思う。この「空気」は、人々が責任感を持って質の高い仕事を遂行したり、個人が努力して現場の課題を解決したりという大きな社会的利益をもたらすものでもあるのだが、あまりにその濃度が濃いために、窒息しかけてしまっているような人もたびたび見かける

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私は、この感覚、とてもわかります。

この生真面目さのせいで、人を批判したくなるのだな、と。

ポリティカル・コレクトネスから外れる人をたたく行為は

「正しさハラスメント」であると言います。

とても息苦しいものですが、「正義のためなら何をしてもOK」という非寛容さであり、先生は好きにはなれない、と。

正しさを逸脱した人に制裁を加えたいというのは脳の働きであり、苦痛は解消されてドーパミンという快楽物質も出るので、「自分の利益はなくても」アンチコメントを書いたりする。

昨日、長文でアンチコメントをこの間いただきましたが、こういうことでしたね。

誰かよく知らない人のアドレナリンという快楽物質のために私は存在するつもりはないので、お断り、なのですが、

だいたい、自分の快感のために人に投げた言葉は、クソリプやクソバイスのような、その人のためにならないものです。

また、虫やほかの動物が理念のために死ぬことがないように、人間も理念や虚無感といった「思考停止の産物」で死んではいけないのです

その意味では、中野先生のおっしゃる「正義中毒」の人々が制裁を下す考え方、滅私奉公して自己犠牲が伴っても尽くすというのが美学である日本の考え方に、私もいまいち賛同できません。

「高度な社会性」のおかげで人間が生き延びられたとして、集団をつくることが戦略である以上、集団維持の上で邪魔になる要素は排除しなければならない。

利己的な人は排除する必要がある。ということで、村八分があり、「正義を執行する快楽」なのである、というのが中野先生の考えです。

でも、今の時代、集団を優先必要は、災害時以外、全くありません。

結論として、「いや、知らんけど」という態度で、人と最低限に接するしかないのだと思います。

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ところで、本の中で出てくる「マック実験」がとてもおもしろいのでご紹介します。

アメリカの研究で、マックの2模擬店舗いおいて、2種類のメニューリストを準備し、一方にはサラダなど健康を連想させるメニュー、一方には載せないメニューにする。

その結果、サラダがメニューにある場合の客のほうが、ビックマックを選ぶ人が50%にもなった、というもの。

人は、「健康」という、「倫理的に正しい」ものを想像すると、なぜか免罪符のような効果を発揮し、「倫理的に正しくない」行動をとってしまう。

サラダ!健康!と同じように、正義!平和!人権!と連呼する人ほど、恐ろしいことをし兼ねない、ということが推論できます。

女性の人権!と私も良く言っていますが、暴力や批判によるアドレナリンなどはなるべく避けよう・・・と思いました。

自分の暴力性をメタ認知するというのが処方箋になりますでしょうか。


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最後に、「人は本当は真実を欲していない」と中野先生はいいます。

「自分の不安をなだめられ、あわよくば快感を得られる情報」が欲しいだけで、「真実らしいもの」であればいい、ということです。

繰り返しになってしまいますが、やはり人は自分の聞きたいことだけ聞き、話したいことだけ話している、ということなのだと思います。

「やっぱりコミュニケーションが大事だよね」というような文化で、やりたくもないコミュニケーションをとらねばならない会社をさっさとリタイアし、一人で部屋にこもり、絵を描いたりピアノを練習したり、本を読んだりするのが私の理想だな、と改め思った次第です。

「ぼっち」上等だという精神で、ゆるく人とつながりつつも、空気を読まなくてもよい環境で、社会性のない今後60年を送っていきたいと思います。

皆さんの参考になれば幸いです。



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