見えざるメス
「いただきます」と「ごちそうさまでした」ほど、無意識に発する言葉はない。無意識なので、「あれ、今『いただきます』って言った?」と同席者に確認することもある。自分のことなのに。
一人のときでも言う。本来これらの挨拶は、調理をした人だけでなく生産者や食材となった動植物にも敬意を表するものなので、自分一人だろうが100人と一緒だろうが言うのが当然である。と僕は思っている。
しかし、意外と「いただきます」「ごちそうさまでした」を言わない人が多い。かつて同じ職場だった人の中にもけっこういて、軽いカルチャーショックだった。逆に「ちゃんと言っててえらいね」なんて言われることもあり、なんとなく違和感。
挨拶といえば、「こんにちは」や「ありがとう」を言わない人増えてない?僕は、コンビニとかで商品を受け取ったら「どうもー」って言うようにしてる(無意識に言ってる)んだけど、無言で立ち去る人のほうがマジョリティーな気がする。
挨拶って、なんなんだろうね。
漢字の意味を調べてみると、「挨」は「打つ・押す」、「拶」は「近づく・進む」らしい。二つ合わせて「押して進む」という意味になる。
元は「一挨一拶(いちあいいっさつ)」という禅宗の言葉で、「師匠が弟子の悟りの深さを確かめるために繰り返し問答をすること」を指していたそう。
出会い頭に禅問答されちゃたまったもんじゃないが、現代の意味での挨拶はしたほうがいいと思う。コミュ障だろうがなんだろうが。
まぁ、やんややんや言ってはいるが、「したほうがいい」のであって「しないといけない」とまでは思っていない。
僕なりの解釈として、挨拶はある種の意思表示だと思っている。
たとえば、
挨拶した→「あなたのことを認識している」「あなたを歓迎している」という意思表示
挨拶しない→「話しかけないでほしい」「あなたを警戒している」という意思表示
みたいな。
だから、挨拶しない人に「挨拶しなさい」と言うのは、ちょっと見当が違うのかもしれない。心にもない「ありがとう」や「ごめんなさい」ほど、無責任な言葉もないだろうから。
例外として、小さい子どもの場合、挨拶には教育的要素もあるので言ったほうがいいと思う。
Webライターとして働き、こうしてnoteで文章を書いているからこそなのかもしれないが、言葉の重みを感じる昨今。
言葉というものは、人の心を癒したり傷つけたりするメス(医療器具)のようなものだと思う。病巣を取り除くのにメスは便利だが、使い方次第では命を奪うこともある。
つまり、「挨拶をしない」ということは、自分のメスを隠す行為ではないだろうか。そしてそれは、良くも悪くもである。機嫌の悪さゆえに挨拶がトゲトゲしくなってしまうと、挨拶された側が傷つくこともあるだろう。そういう意味では、「挨拶をしない」という選択も必要なのかもしれない。
しかし、だからといって挨拶をしなければ、
「あいつ挨拶しなかった」
→「感じ悪いな」
→「ちょっと距離を置こう」
→そして誰もいなくなった。
のようなことにもなりかねない。
この線引きは非常に難しい。
また、言葉や心は目に見えないので、どれくらい切られたか(どれくらい傷ついたか)がわからない。まさに「見えざるメス」である。
そして、その見えざるメスに傷つけられた人は星の数ほどいるのだろう。この僕も含めて。
言葉の重み、挨拶の重み、今一度考えてみることも大切なのではないだろうか。
言葉を商売道具としている身として、そして他者の言葉による傷痕を持つ者として、言葉の重みは一生考え続けなくてはならない命題である。見えざるメスによる傷は癒えても、その傷痕は心の奥深くに残り続けるのだから。