『カラーパープル』アリス・ウォーカー 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
黒人奴隷制度を巡って南北戦争が勃発したアメリカでは、エイブラハム・リンカーンによる1863年の奴隷解放宣言以後も、主としてアメリカ南部における黒人に対するさまざまな差別が続きました。南部のアメリカ連合国(CSA)は、北部のアメリカ合衆国(USA)に打倒されたものの、実質的な奴隷制度の継続を目指します。合衆国憲法に抵触しないように文言を工夫して、黒人の人権を次々と脅かしていきます。まず1890年にミシシッピ州が黒人の選挙権を剥奪します。州憲法の条文に「人頭税」や「読み書きの試験」を取り入れました。これは、有権者登録するためには、選挙係官に人頭税納入受取りの提示、示された州法の理解が必要となりました。これは奴隷解放直後の黒人たちには極めて困難な条件であり、実質的な選挙権剥奪であったと言えます。これは「ミシシッピ・プラン」と呼ばれますが、この手法が南部全土に広がり、黒人差別に拍車を掛けることになりました。合法的な黒人差別は多くの権利を剥奪していきます。南部で発布された「黒人取締法(ブラック・コード)」は、土地所有の制限、他人種間の結婚禁止、武器の所持禁止、夜間外出の禁止、陪審員選出禁止など、非人道的な剥奪を合法として進めていきます。さらには、「黒人分離政策」というものが制定され、鉄道車両における白人と黒人の座席を分離し、違反した乗客を取り締まることができるという州法でした。後には、列車座席だけでなくバス、公園、病院などの公共施設、学校の教育現場においても「分離」を合法化し、実質的な「黒人隔離」を合法化しました。このような「平等を守る隔離」は世間的な通念となり、州法さえも制定せずマナーのような常識に変わり、一流ホテルや劇場などでもそのような「隔離」が当然のように行われました。ビートルズがフロリダ州でこのような「黒人隔離」が行われると知らされてコンサートの出演を拒否した事件がありましたが、これは1964年のことです。奴隷解放宣言の100年後でも当然のように罷り通っていた社会通念でした。
アメリカ南北で広まっていた黒人隔離の風潮は、白人至上主義団体KKK(クー・クラックス・クラン)などのレイシズムたちの危険な思想を助長させて、彼らによる黒人への集団リンチが至る所で起こりました。黒人に対する厳しい目は、分離のルールだけでなく、難癖をつけるような者へと変化していきました。特に白人女性は黒人男性に厳しい態度を取り、睨みつけた、性的な目で見た、卑猥な言葉をかけた、などという「言い掛かり」で多くの黒人は集団リンチにあいました。このリンチは、KKKなどのレイシズムたちは、見せ物や催し物のように執り行い、白人は老若男女問わず野次馬として集まり、公開処刑を公然と眺めていました。さらに恐ろしいことに、警察は黙認し、時にはリンチに加勢することもありました。裏を返せば、集団リンチが犯罪として摘発されることは無く、残虐な行為として訴えられたとしても、前述の通り、陪審員裁判の陪審員は全て白人であったことから、有罪判決が下ることはありませんでした。このような恐ろしい逃げ場のない暴力は、殆どの黒人の心を萎縮させて、差別に反抗する感情や行動は途絶え、社会通念として黒人側にも受け入れられていきました。
このように国からも法的に抑圧を受けていたアフリカ系アメリカ人たちの社会は、実に歪なものとなっていきました。男性は白人に対して恐怖心と嫌悪を抱き、蓄積された鬱憤を身近な女性や子供へ撒き散らします。女性の感情を無視し、人間性を無視し、避難と暴力によって召使のように扱います。父親は絶対的であり、考えるすべてが正しく、それに従う以外に生きる術などないという、極端な家父長制社会が構築されていました。女性は恋愛感情を剥奪され、或いはそのような感情が芽生える前に嫁がされ、ただ主人に従うことだけを強要されました。望まない結婚、望まない性行為、望まない出産、理不尽な暴力、過酷な生活など、希望抱くことを忘れさせるほどの環境に十代の女性は追いやられます。このような社会のなかで、「神」にのみ気持ちを打ち明け、女性同士の絆によって自己を発見し、人生を取り返していくという姿を描いているのが、本作『カラーパープル』です。
1982に出版された本作は、ピューリッツァー賞、全米図書賞を受賞しました。暴力的描写、性的描写が露骨であるということで何度も検閲の対象となっており、米国図書館協会からは禁書指定を受けたこともあります。虐待され、教育を受けていないアフリカ系アメリカ人女性が、「人間として生きる権利獲得の戦い」を描いた作品で、二人の姉妹が書いた手紙で構成された書簡体小説です。
ミスター※※という虐待的な男性と結婚させられた南部ジョージア州に住むアフリカ系アメリカ人女性セリーが、「神さま」へ綴る手紙を中心に物語が進められます。彼女はアフリカにいる妹にいつか再会できることを願い、手紙を書き続けています。セリーは理不尽な虐待生活に耐えるため、自身の感情を押し込め、無機質な者となることを意識して毎日を過ごします。苦痛の暴力や望まない性行為を、ただ耐えるために心を無にし、自身の主張や思考を停止させます。このように抑圧した彼女の本心を、彼女は「神さま」に対して手紙を書き、感情を吐き出していました。そのような状態のセリーは、ミスター※※の愛人シャグと出会い、徐々に感情を通わせ合って絆を結び始めます。シャグはセリーの状況や感情を理解して、「あなたは処女よ」と伝えます。この言葉によって、セリーは抑圧され続けてきた彼女の自己を認識し、自分自身の人生というものを理解して見つめていきます。そして遠く離ればなれとなり、音信不通であった妹ネッティーからの手紙が、セリーの心に希望と強さを与えて、「生きよう」とする意志を持たせます。
このような抑圧された女性の「自己認識と発散」を、著者のアリス・ウォーカー(1944-)は単純なことではなく、非常に危険性を帯びているということを示しています。登場するソフィアという男勝りな女性は、この感情発散によって白人の怒りを買い、十二年間を拘束されて暮らすことになりました。周囲を取り巻く男性だけでなく、国や社会、それらを構成する白人が敵となって立ちはだかり、理不尽を与えられることを明示しています。しかしながら、それでもウォーカーは女性の絆が育む勇気によって、国や社会や男性たちによる抑圧や支配に対して、自己を守るために抵抗することが可能となることを強く説いています。その必要な「絆」は、実にさまざまな形で表されています。母親や姉妹といった家族のようなもの、師弟関係のようなもの、同性愛的なもの、そして性を超えた友情のようなものが存在します。そして、セリーを「自意識の獲得と感情の解放」へと導くシャグは、そのいずれの形にも成って救いを齎してくれます。
この歪な黒人社会は、抑圧され続けた時間が長かったことによって、伝統的とも言えるほど根付いた男性社会の価値観を持っていました。父親は妻と子に対して虐待的であり、絶対的であり、神的でした。この環境で育てられた男性は、父親になれば自身が受けた虐待性や絶対性を持とうと意識して、自身の妻子に同様の虐待を与えます。しかし、このような歪んだ性別役割が、本質的な人間性と結合せずに役割破壊を起こす登場人物が、本作では多く登場します。彼らは、伝統的な性別役割の境界を打ち破ります。前述のソフィアの強さと反抗心をはじめ、シャグの(抑圧されている女性にも関わらず)強い性的な自己主張、ソフィアの夫ハーポの小心と繊細さなど、性別役割と人間性の相違が齎す主な例です。また、セリーとシャグの間に芽生える同性愛的な関係性は、性別役割の認識をそれぞれに曖昧にさせ、純粋な「絆」というものを強固にさせていきます。このような性別役割の曖昧さは、人間の「性別認識」そのものを根底から覆し、ジェンダー問題の複雑さやセクシャリティの複合性を再認識させ、人間同士が結ぶ「絆」こそが重要なものであると訴えています。
また、ミスター※※を筆頭に登場する虐待者たちは、純粋な悪人として割り切るものではなく、長い年月で築かれた歪んだ社会の生み出した怪物として考えられます。暴力や虐待が正当化されてきたことで、その虐待者たちもパターナリズム(強い立場の者が本人の意思を無視して本人のためとして行動に介入すること)の被害者であることが認められます。虐待的な行動が各世代に周期的に繰り返されているという事実に対して、セリーやシャグのような登場人物たちが「絆」で立ち向かい、「加害者である虐待者たちに」真の意味での「人間としての人生」を見直させることができるという話の流れは、ウォーカーの意思を代弁しているようにも思われます。
題名に付けられた「カラーパープル」に関して、ウォーカーは「神性」のことであると話しています。「国民が受け継いできた神が、必ずしも彼ら(黒人)にとって必要な神ではないということを理解してもらうこと」を表現したものだと言います。「自然は神であり、自然は必要なところに、どこにでも存在しています。」
自分の考えや感情を表現する能力が、自己意識を育むために重要であることは明確です。しかし環境によっては、感情を表現する困難さ、自己意識の認識や育むことの困難さが存在します。抑圧された環境からの脱却は、抑圧された環境のなかで抑圧に反発し、抑圧を跳ね除ける必要があります。それは、一人では困難です。助けとなるのは人の「絆」です。人間同士の絆、愛情に関して、深く考えさせられる作品『カラーパープル』。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。