『あのころはフリードリヒがいた』ハンス・ペーター・リヒター 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
1870年に起こった普仏戦争で領土を制圧したプロイセンは、首相オットー・フォン・ビスマルクが中心となってドイツを統一します。フランスに残った傷はやがて怨恨へと変わり、反ドイツの意識が高まり続けていきます。ビスマルクはこの報いを警戒し、フランスへの軍需輸出を停止して、周囲の国々と関係を強めて自衛を図ります。オーストリア、ロシアへ歩み寄り三帝同盟を結びますが、この結束は固いものではありませんでした。ドイツに対して強気の条件を提示するロシアは非協力的でした。ビスマルクはより強固な防衛網を形成するため、オーストリアとの独墺同盟、そこにイタリアが加わった三国同盟、そしてドイツ・ルーマニア同盟が結ばれていきます。さらにはイギリスとの国交を良好なものに進めて、フランスは孤立した存在となっていきます。
しかし、ロシアがドイツに見切りをつけるようにフランスへ近付き、露仏同盟が結ばれました。また、同時期からイギリスとドイツの商業摩擦(主に工業、貿易、植民地など)が激しくなり、イギリスはフランス、ロシアと立て続けに協商を結びます(三国協商)。さらには出し抜くようにイタリアがフランスと秘密中立条約を交わし、ドイツが正式な同盟国と言える国はオーストリアのみとなりました。領土、資源、植民地を中心とした各国の、各同盟の小競り合いは徐々に激しくなっていきます。
1914年、オーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が陸軍演習を視察するため、ボスニアへ訪れます。オスマン帝国主権下の施政権を得たオーストリアは、フランツの指揮によりボスニアとヘルツェゴヴィナを併合しました。そしてハンガリー、チェコをも併合してオーストリア帝国の三元化を目指していました。これをよく思わない汎スラブ主義(バルカン半島におけるスラブ民族統一を掲げる)は、フランツ・フェルディナント夫妻を暗殺します。このサラエボ事件を発端として三国同盟と三国協商がぶつかり合うヨーロッパ戦争が起こり、第一次世界大戦争へと肥大化していきます。両陣営は幾箇所で紛争を起こして、双方に多大な被害を齎していきます。そして軍需、資源、食糧が底をつき始め、国民は苦しい生活を強いられます。それでも止まない戦闘は更なる被害を生みました。イギリス商船をドイツの潜水艦が撃沈しました。そこには中立宣言をしたアメリカの国民が大勢乗り合わせており、これを引き金にドイツへ宣戦布告して三国協商側につき支援を開始します。戦力差が決定的となり、1918年にドイツが休戦条約に調印し、大戦争は終結しました。
1919年に連合国(三国協商側)がドイツに対して、全ての植民地権益の放棄、軍備制限と徴兵制度の廃止を求めるヴェルサイユ条約を弁明の余地無しに調印させました。そして「戦争の全責任はドイツにある」として賠償金1320億マルクの支払いを命じました。フランス首相クレマンソーのドイツに対する報復が全面に取り入れられた理不尽な内容でした。この天文学的な賠償額と全責任を押し付けられた条約を、ドイツ国民は受け入れることができず、Diktat「強要」と呼び、強い怨恨へと変化していきました。
異常な額の賠償金は円滑に支払うことができるはずもなく、遅滞されていきます。1923年にフランス軍とベルギー軍が共謀して、遅滞の代償にドイツ工業の中心であるルール地帯を占拠します。これに怒りの火がついたドイツ国民は、ルール地帯での労働者へストライキを呼び掛けます。しかしドイツの中央政府は軍同士の衝突を恐れ、対抗的な姿勢を見せないままでした。遂にドイツ国民は自国の中央政府に向かって蜂起します。ミュンヘン一揆と言われるこのクーデターは大きな被害を出す前に鎮静化させられましたが、政府と国民の溝が決定的に刻まれた格好となりました。この一揆の首謀者の一人がアドルフ・ヒトラーでした。
捕らえられたヒトラーは、一揆とその後の裁判による弁舌で益々の国民支持を得て、バイエルン州の地方政党であったドイツ労働者党が、国民支持率第一党へと躍進します。ルール占領の弊害的インフレ(労働者へストライキさせる代わりに与える報酬を紙幣増刷で対処したために貨幣価値が著しく低下した)に拍車を掛ける形でドイツを襲った世界恐慌で、国民感情は貧困と疲弊と怨恨で充満します。そこに掲げられた「打倒ヴェルサイユ体制」は当然のように支持され、ナチズム運動を加速させることになりました。
国政に反ユダヤ主義を備えたナチス党は、ユダヤ人迫害を実権の拡大とともに激しくさせていきます。ユダヤ系ドイツ人はゲシュタポ(秘密警察)に追い立てられ、厳しく責め立てられました。しかし、ユダヤ系ポーランド人は国交の混乱を避けるため、迫害の対象外となっており、在住外国人としての権利が保証されていました。ドイツにおいて免罪符のように使用できたポーランド旅券ですが、1938年に効力を失うことになります。反ユダヤ主義であるポーランドとしてもユダヤ人排斥を望んでおり、ドイツから戻ってくることができないように、ポーランド旅券の検査印を新たに設定し、無いものを無効とする旅券法を交付します。つまり、現在の旅券の効力を無くしてポーランドへ入国できないようにと目論みました。布告から施行まで約四週間しかなく、ポーランド側の意向は明確でした。これに憤慨したドイツはユダヤ系ポーランド人をポーランドへ強制的に送り返すため、ゲシュタポを用いてポーランド国境まで一万七千人以上を運びます。施行前に移動させられたユダヤ系ポーランド人を、ポーランドは法を無視して受け入れを拒否しました。ポーランド警察が国境を封鎖し続け、行き場を失ったユダヤ系ドイツ人たちは、荒廃した無人の国境付近を、食糧も無く寝床も無い環境で彷徨い餓死者まで出すことになりました。
その翌月、フランスのドイツ大使館で書記官エルンスト・フォム・ラートが殺害されます。ポーランド入国拒否をされた家族を持つユダヤ人、ヘルシェル・グリュンシュパンによる凶行でした。ドイツの非人道的行為を世に示すためと供述し、ユダヤ人迫害を訴えるためという行動でした。
事件を知ったドイツ国民は憤慨します。ドイツ国内の各地で反ユダヤ人暴動が幾つも起こり、ユダヤ教会堂(シナゴーグ)やユダヤ人経営の商店、企業、病院、墓地などあらゆる施設が襲撃されました。抵抗したユダヤ人は怪我を負い、死亡した人々も多くいました。傷つけられた建物は壁紙が剥がされ、マットレスは引き裂かれ、家具は倒壊され、全ての窓ガラスが割られました。地面に散らばった無数のガラス片が光に反射して輝いていた光景から、この事件は「水晶の夜」と呼ばれます。
本作『あのころはフリードリヒがいた』では、この実態を「ぼく」の一人称で語られ、民衆の目線で描かれています。迫害の詳細を伝える臨場感や高揚感は、強制的に読者を物語へ引き込んでいきます。
「ぼく」の幼馴染であるフリードリヒは一つ上の階に住むユダヤ人でした。家族ぐるみでの付き合いは微笑ましく、穏やかな印象さえ与えていました。しかし、時代の流れに合わせた環境の変化、価値観の変化、人々の態度の変化が政情を知らない子供にも違和感として伝わり、不穏な空気が漂い始めます。
大ドイツ青年運動を礎とした「ヒトラーユーゲント」(ヒトラー青少年団)は、国家による加入義務がある以前に、青少年たちの憧れの的でもありました。打倒ヴェルサイユ体制を具体化したかに感じるこの組織は、ドイツ国民の誇りを守ろうとするヒトラーの行動に、若年ながら参加できるような感覚を持っていました。著者のハンス・ペーター・リヒターもその一人でした。虐げられたドイツの誇りを取り戻そうとする思想に共感し、憧れを抱きます。
「ぼく」はフリードリヒを青少年団の集会に連れて行きますが、そこでユダヤ人排斥のイデオロギーを直接的に打ち付けられます。そして物語は、ユダヤ人家族の息苦しさを目立たせていきます。
一人で下校している「ぼく」は、暴動を目にします。何が起こっているか理解しきれないまま、いつも新聞を配達する女性が暴動者を扇動していることに気付きます。女性がこちらに気付くと手伝うように強要し、騒ぎの中へ参加させます。戸惑いながらも暴動を手伝う「ぼく」は、徐々に気持ちが昂まり、破壊衝動に身を任せる快感さえ覚え始めます。無自覚でありながら「ユダヤ人迫害」に加担していたのでした。
ナチス・ドイツでは帝国国民啓蒙宣伝省というプロパガンダを管轄する組織がありました。ラジオなどの報道機関を統制することによって、情報や印象を操作して、国民の意識を政党の意向と統一しようとする試みです。中でも重要であった「新聞」はその特色から権力の集中化を大々的に謳うことはありませんでしたが、新聞記者としての資格を制定する「編集人法」や、国民投票時期の新聞紙面からも見受けられるように、明らかに管理されていたことがわかります。つまり新聞を含めた報道機関は政府によって掌握され、政党の指示で行動していたと言えます。
「ぼく」が目にした暴動の煽動者である女性新聞配達員も国家に管理されていた一員であると考えられ、暴動を「国家ではなく民衆が自発的に起こした」とするために行動を指揮されていたと見て取れます。ヒトラーがミュンヘン一揆周年記念式典を前にラートの訃報を受けて、予定していた演説を切り上げてナチス突撃隊(SA)に指示を出したことが明るみになっていることからも把握できます。
煽られた民衆は、貧困と疲弊と怨恨で溜まったフラストレーションを刺激され、憂さ晴らしのような暴れ方をします。「ぼく」も興味本意から小さな破壊を行い、そこに快感が伴い常軌を逸した行動を平然と取ります。そして民衆暴動はエスカレートし、国が誇りを掲げて禁止している、略奪や強姦、殺人に至るまで止まることを知らず暴虐の限りを尽くします。本作の「ポグロム」の章では迫力ある描写で、こちらの鼓動を激しくさせる臨場感を持っています。
「水晶の夜」からユダヤ人迫害が国を挙げて激化していきます。明確な排斥意思を持った国の命令が次々に発令されていきます。商店や手工業の営業停止、劇場や映画館への入場禁止、ドイツ学校からの退校、自動車運転に関する許可証の没収、有価証券や宝石の没収、外出の時間制限、電話機所有の禁止、毛皮製品の没収、衣服に「ユダヤの星」(ユダヤ人証明バッジ)貼り付けの義務、交通機関の使用禁止、散髪屋への入店禁止、タバコの配給禁止、暖房された部屋の使用禁止など、非人道的な命令を受けました。
ハンス・ペーター・リヒターは、「ぼく」には責任がないのかを問い続けます。熱心なヒトラーユーゲントであったことは、それまでのドイツの受けた情勢を鑑みると寧ろ自然であるとも言えます。しかし幼馴染フリードリヒを、庇う力が無かったことも事実であり、また無理をして家族を危険に晒すことは正しいことであるとも言いきることができません。
本作を出版した後に「ぼくはわたしです」という告白をしたハンスは、心に残った苦しみと後悔を、少しでも多くの人々へと伝えたかったのだと思います。読者の印象をフィクションから半自叙伝へと変化させたこの告白は、現実的な憂鬱と恐怖を読者に与えることになりました。その境遇を生きた苦悩と、歴史に振り回された生涯は一個人で解決できるものでもなく、社会全体で考える必要があることだと感じます。
フランスからドイツが受けた理不尽を、ユダヤ人が請け負うことになった負の連鎖は、大量虐殺によって口を閉じられました。『あのころはフリードリヒがいた』は、現在のドイツでも差別意識、戦争による弊害を考えさせる最も重要な著作として今もなお読み続けられています。
ヒトラーをドイツ国民がなぜ支持したのか、ユダヤ人排斥がなぜ民衆の手で行われたのか、見つめ直す良い機会となる著作であると思います。未読の方はぜひ読んでみてください。
では。
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