『一九八四年』ジョージ・オーウェル 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
ジョージ・オーウェル(1903-1950)は、イギリス植民地時代のインド・ベンガルにて中流階級の家に生まれます。父はインドの高等文官で、阿片の栽培管理とその販売を生業としていました。オーウェルは五歳になると聖公会(Anglican Church)という西方教会におけるプロテスタントとカトリックの中間である「中道」(Via Media)の教会学校に通いました。進学の度に奨学金を受けるほどの優秀な成績を継続し、英国教会のパブリックスクール「イートン・カレッジ」へ国王奨学生として進みます。1922年にイギリスから離れてミャンマー(旧ビルマ)に向かい、警察訓練所に入所して警官の職に就きました。しかし、数年の勤務の間で帝国主義的な職務を嫌い、またイギリスへと戻ることになりました。レイシストたちの植民地への姿勢、現地人への差別を目の当たりにして嫌悪した彼は、後にエッセイや半自伝で非人間的性を批判しています(『ビルマの日々』『象を撃つ』など)。その後、ジャック・ロンドン『どん底の人々』(1903)に触発され、ルポルタージュ作家として最底辺層の生活を描こうと、中古品店から傷んだ服を購入し、非常に貧しい人々の中で暮らします。ロンドンとパリを往復しながら日雇い労働者のように働き、実際に生活を体感して、自身初となる著作『パリ・ロンドン放浪記』を1933年に発表しました。
その頃、1931年にスペインでは国王独裁政治を崩壊させて第二共和制を発足させたスペイン革命が起こっていました。世界中で広がるファシズム(ヒトラー、ムッソリーニなど)の波から逃れようとスペインは共和国を目指しましたが、世界恐慌が影響して政府に対する不満が民衆に募ります。無政府主義の感情が高まり、ストライキや暴動が繰り返されると、ブルジョワ層はこれらを抑え込むためにナチスを模範としたファシズム政党「ファランヘ党」を組織して対抗します。まとまりの無かった暴動者たちはファランヘ党に対抗するように組織化されていき「スペイン人民戦線」を結成して、組織と組織の激しい紛争が生まれ、スペイン内戦へと突き進んでいきました。他の列強国(イギリス、フランス、アメリカなど)はスペインへの内政干渉を嫌い、人民戦線への支援に二の足を踏んでいたことで、軍組織であるファランヘ党を率いるフランシスコ・フランコは圧勝を手にするように予測されていました。しかし、支援に踏み切らない姿勢に憤慨した列強国内の社会主義者や共産党員たちは、義勇兵となって旅団を組織し、ファランヘ党へと対抗しました。フランスのアンドレ・マルロー、アメリカのアーネスト・ヘミングウェイと並び、オーウェルも義勇兵として参加しました。オーウェルは、義勇兵のなかでもPOUM(マルクス主義統一労働者党)としてファシストに対抗していましたが、ソ連がファランヘ党へ支援を始めたことを契機に、共に対抗していたはずのスターリニスト(共産主義者)たちからPOUMが粛清を受けだしたことで彼は民主社会主義者へと転向しました。このようなスペイン内戦での経験を元に描いた作品が『カタロニア讃歌』です。スペイン内戦から第二次世界大戦争へと争いの規模が拡大すると、オーウェルはイギリスの民兵組織「ホーム・ガード」にて軍曹を務め、1945年の終結を迎えます。彼が数年間の戦争で目の当たりにし、実際に経験した不毛さや不条理を鋭い切れ味で描いた寓話作品『動物農場』は、共産主義、ファシズム、そして全体主義に対するアンチテーゼとして世に出され、大きな支持と名誉を得ることができました。
1949年に発表した本作『一九八四年』(Nineteen Eighty-Four)では、全体主義国家の本質と恐怖が、近未来を舞台に描かれています。スペインやロシアの全体主義政府が国家権力を維持する目的で、どれほどの恐ろしいことを成す思想を持っているかという目線から、西洋の読者に警鐘を鳴らすために執筆されました。そこには、当時から僅か三十五年先の未来に、十分起こり得る全体主義的管理社会を危惧を込めて描いています。政府に対して慎重な反抗心を持ったウィンストン・スミスは、国家が統制する情報管理の業務に従事しています。新聞や教科書は政府の意に沿って「修正」され、国民はそれらの文書や写真などの保持を禁止されています。全ての情報は政府の管理下にあり、過去を操作することで国民の記憶は曖昧になり、知識は国家の都合の良い記憶だけに書き換えられていきます。この過去の記事の修正を任されているスミスは、過去が捏造されていることを当然ながら理解しています。国家権力の元で働く人間はわずかに15%程度で、他の国民はプロレタリアート(賃金労働層)として括られ、貧しい生活を強いられています。スミスは国家権力に近しい位置にいたことで、抱いてはならない不信感を抱いてしまいます。それでも国民であることには違いなく、一般的な管理を受けた生活を送ります。〈テレスクリーン〉と呼ばれる相互通信大型モニターが部屋に設置され、常に国家に監視されています。国家の代表〈ビッグブラザー〉の大きなポスターは街中に掲示され、どこから見ても目が合うように描かれており、常に行動心理に介入してきます。家族さえも〈思考犯罪〉(反逆心を抱いただけで罪とする)の密告者となり、家庭内に安息は見られません。また、性行為を「繁殖行為」として管理され、性欲を削ぎ、不義は徹底的に罰せられます。さらに〈一斉体操〉と呼ばれる朝の集団体操を強制し、その後に長時間の勤務を与えられます。心身ともに満たされず、常に疲労状態を維持される国民は、国家への反逆心を芽生えさせることなく、ただ国家へ労働力を提供する存在へとなっていきます。そして溜まったフラストレーションを〈二分間憎悪〉という国家の敵を罵倒する儀式で発散させ、より一層の従属意識を持たせようとします。
それでもウィンストンと同様に国家に対する反抗心を抱くものはあります。実際に明確な行動を取るだけでなく、言葉の端々、特に多く摘発される事例が「寝言」です。テレスクリーンから傍受された「反抗的な寝言」は、実際に反抗心が無くとも連行されます。そこで行われる〈再教育〉と呼ばれる拷問は、思想を根底から潰して「模範的な国民」へと変えられます。謝罪や誓いといった行動ではなく、思考自体の再教育が恐怖を持って植え付けられます。廃人のようになり、行方が分からなくなるものも多くあります。しかし、過去の捏造と情報管理によって「その人間が存在していなかった」ことを作り上げ、国民の曖昧な記憶を誘導してその事実を信じ込ませます。この事実を理解していながらも、ウィンストンは反抗心を抱き、一つの行動を取ります。以前に違反を犯しながらも手にした一冊の手帳に日記を綴り始めます。「ビッグブラザーをやっつけろ」と書き殴り、自身の抱く感情や思考を連ねていきました。
ウィンストンはジュリアという、やはり国家権力のもとで働く女性に誘われ、色欲と不義という重い反逆行為に走ります。〈思考警察〉のスパイかと疑っていた彼も、ジュリアの国家に対する反逆心を告白され、意気投合して肉体同士の快楽を求める接触を果たします。密会を繰り返すなかでウィンストンは自身の「曖昧にされた過去」と「反逆の願望」を語ります。プロールと呼ばれる国民の85%を占めるプロレタリアートが反逆の原動力になる、彼らに決定的な国家の悪事を提示すれば不可能ではない、そのような考えを抱いていました。しかし、国家による過去や記憶の「修正」に頼るまでもなく、プロールたちは目の前の生活を過ごすことで精一杯であり、自国がどの国と争っているか、もしくは自国が敗戦したとしても国家権力が入れ替わるだけであり、日々の暮らしは何も変わらないという「諦め」が根付いているため、反逆などは起こり得ない環境にあると示しています。このような反逆思想を〈思考警察〉に嗅ぎつけられ、ウィンストンとジュリアは国家に〈再教育〉を受けさせられることになりました。
一冊の日記は、捏造されることのない歴史として後世に残したいという願望が現れた国家に対する小さな反抗です。自身の年齢、妻の所在、母の生死、曖昧になった過去の記憶はこれらの重要な事実さえ朧げにさせ、重要であるという認識さえ薄れています。感情さえ曖昧となり、国家奴隷として過ごす日々がアイデンティティ(自我同一性)を失わせていきます。そして、ジュリアとの性交という国家に対する大きな反抗を行うことで、国家転覆というより大きな反逆を思い描き、自身のアイデンティティを鮮明にさせようとしていきます。しかしながら〈再教育〉によって心を粉砕されたウィンストンは、アイデンティティを完全に失い、国家の従順な奴隷としての精神を得るに至り、所謂「顔の無い男」となりました。
本作の重要な主題の一つに「言語」が挙げられます。言語の自由、語彙の幅は、人間の想像力や表現力を豊かにするものです。多岐にわたる言語の吸収は、思想や思考を再現なく広げ、閃く考えを構造化させていきます。しかしながら、国家は言語を制限する〈ニュースピーク〉という新英語を脅威の統制力で広め、国民へ使用を強制しています。この〈ニュースピーク〉は、主に語彙の削除を中心に研究されており、辞書も第十一版が生み出されているところです。例えば、接頭辞「un-」が存在するため、対義語は不要であるという考えから、「good」を残して「bad」を削除します。「悪い」という表現は消滅して「ungood」、つまり「非良い」を使用しなければなりません。また、比較の不規則変化も「-er」「-est」に統一して、「gooder」「goodest」を使用させられます。徹底的に「思考する」という行為を国民から排斥させる目的で考えられた「ニュースピーク」の蔓延と、過去と記憶の「修正」が合わさり、国民の思考力は極端に低下して国家奴隷であるという自覚さえも抱くことのできないほど、「単一国民」となっていく全体主義国家の恐怖が表現されています。ここにはオーウェル自身が感じた植民地ミャンマー(旧ビルマ)での経験を筆頭に、「言語統制」が原住民たちへの政治的支配を助長させ、文学者たちによる言語の反逆を抑え込むという軍事統制としての恐怖が込められています。
本作が発表された1949年という、いまだ原子力の黎明期であり、テレビが全ての家庭に定着する以前の、国によっては戦後復興もままならない時代に、すべての国民を〈テレスクリーン〉という大型モニターで監視されるという社会を、現実性を持って描きました。現在に至っても、描かれた恐ろしい全体主義社会は実現してはいません。しかしながら、オーウェルが込めた思想的警鐘は、現在でも多くの読者に支持されて、本作『一九八四年』を重要な作品と受け止めて読み継がれています。現代社会において、自身の思考が低下していないか、思考の幅が狭まっていないか、見つめ直すのに良い著作であると感じました。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。
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