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『ビヒモス』トマス・ホッブズ 感想

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

『リヴァイアサン』で知られるホッブズの政治論はいかに構築されたか。その基盤となる歴史観を示す、著者晩年の代表作。世代の異なる対話形式で一六四〇-五〇年代のイングランド内戦の経緯をたどり、主権解体と無秩序を分析する。本邦初訳。


1603年にイングランドのエリザベス一世が未婚で亡くなり、ヘンリー七世の血を引くスコットランドのジェームズ六世がイングランド国王を継承して、ジェームズ一世として即位し、両国を治めることになりました。彼は王権神授説(国王の権力は神から与えられた神聖不可侵なものとする考え)に基づいて政治を進めました。エリザベス一世が確立したイギリス国教会を基盤として宗教統制を図り、それに倣った統治を行いました。しかしながら、イングランドにおいてはカルヴァン派に忠実なプロテスタント「ピューリタン」が多く存在し、国王を頂点とした聖職者の階層制度(主教制)に強く反発します。イギリス国教会信徒もプロテスタントですが、主教制にはカトリックの要素を含み、その信仰は中道的であるとして、ピューリタンは嫌悪します。このような反発を持つピューリタンのなかでも、スコットランドでカルヴァン派から生まれた「長老派」は多く存在し、ジェントリ(地位は高くないが土地を資産として保有する層)、職工経営者、富裕商人、自営農民などにも多く、勢力は強いものでした。このような反対派をジェームズ一世は「主教なくして国王なし」とし、主教制度を柱とした政治における王権(主権)を強化して、それに反発する聖職者たちを次々と追放しました。


ジェームズ一世から王位を継いだチャールズ一世は、絶対王政や主教制を引き継ぎ、より一層の王権強化を進めました。また、ベーメンでのキリスト教新旧両派によるドイツ宗教戦争「三十年戦争」において新教徒を支援せず、国内のピューリタンを引き続き弾圧し続けました。さらに、議会(国民から選出された政治家による国議会)への同意を無視して徴税を課し、貴族からの献金を強要するなど、チャールズ一世への不満が募っていきます。このような不当な(国王独断による政策という意味)課税や、強制的な人身拘束に耐えかねた議会の長老派議員たちは、1628年にこれを食い止めようと「権利の請願」をまとめて、国王へと提出します。絶対王政における王への請願は困難なことではありますが、1215年に規定されたイギリス憲法の根源である大憲章「マグナ=カルタ」を基に、王権の制限を含めて意見を届けました。しかし、チャールズ一世はこの請願を無視し、議会を解散させ、側近のカンタベリ大主教ロードとストラフォード伯に政治を行わせました。トン税、ポンド税、船舶税などの増税を進めて、ジェントリたちまでも大きな不満を募らせていきます。このような強制的な課税には、「三十年戦争」によるヨーロッパ全土の経済不振や自然災害などの影響、オランダの独立戦争、フランスのフロンドの乱などによる影響で、経済的な国の維持そのものが困難な状況にあったことが背景として存在していました。


弾圧を受け続けて意見までをも国王に理解されない議会の長老派と、相次ぐ課税によって生活に歪みを与えられていた議会のジェントリたちは、「反国王」への意識によって繋がりを持ちます。1637年に、チャールズ一世はスコットランドにイングランドと同様のイギリス国教会制度を統制させようとします。しかし、スコットランドには長老派が多く、激しい反発が生まれました。これは感情だけに留まらず、反発の意思は多くの群衆となり、1639年にエディンバラ暴動が起こりました。チャールズ一世は自らスコットランドへ反乱を抑えに行こうとしますが、資金が不足してしまい、議会を召集して調達しようとします。これに議会はまともに応えず、資金調達が困難となり、結果、多額の賠償金を払うことでスコットランドを収めることになりました。そして1640年に改めて議会が開かれました。チャールズ一世が許可していた商人たちの独占商法の禁止、トン税、ポンド税、船舶税の廃止、議会の解散には議会の同意が必要、などを決定します。さらに、チャールズ一世による悪政の数々を列挙した「大抗議書」が採択され、王権に対する批判を議会は全面的に推し進めていきました。


これを機として、議会は国王から王権の剥奪を図っていきます。議会が全ての権利を握る「寡頭政」を目指します。チャールズ一世のどのような意見にも耳を貸さず、指示や文書を反故にして、イングランドの政治を絶対王政から寡頭政へ向けるよう、国王の承諾なく、議会のみで、議会を絶対権力にする内容の法律を作り上げていきます。この議会の態度を受けたチャールズ一世は武力行使に出ることを覚悟し、また、議会側も争うことを理解して、互いに準備を進めていきました。王党派と議会派に分かれたこの戦いは、1642年に始まりました。このイングランド内戦(清教徒革命、ピューリタン革命とも)は、軍事経験のある王党派が優勢に進めていました。ジェントリが集めた経験の少ない民兵たちでは太刀打ちができず、戦果をあげることができずにいました。そこに熱心なピューリタン騎兵によって成る「鉄騎隊」を組織したオリヴァ・クロムウェルが議会派に現れます。この軍は「神の意志」に従う軍として強さを帯び、王党派を侵略する敵として捉えて、強固な意志を持って王党派を薙ぎ倒していきました。


クロムウェルの登場と鉄騎隊の性質によって、反国王側に新たな勢力が頭角を表します。長老派は寡頭的長老によって教会を統制しようとする派閥ですが、それらに反して、各教会の独立を尊重する派閥のことを言います。ジェントリや自営農民が主に属し、議会派のなかでも思想の分離が始まりました。長老派は「長老制」の国内拡大を目指していたため、その為に国王を利用したいという打算の元で、国王との妥協を図っていました。対して独立派は、国王軍と徹底的に戦い抜くことを望んでいました。1644年にクロムウェル率いる鉄騎隊は国王軍に勝利を重ねることで議会内での権力を強め、方向性の違いから長老派を議会から追放して、議会軍を新たな鉄騎隊「新型軍」へと組織改革を行いました。そして1645年、ネースビーの戦いで国王軍を撃ち破り、チャールズ一世は投降して第一次のイングランド内戦は終わりました。


内戦終結を機に、追放されたものの議席を残していた長老派たちは新型軍を解散させようと動き出すと、これらの兵士たちの処遇を守ろうとする水平派と呼ばれる派閥が議会に現れます。これは職工経営者たちによって多く構成された派閥で、人民の主権や財産を守ろうとする考えを持ち、「人民協定」という憲法の草案を提出します。王権(実政的な意味での)を手中にしたいクロムウェルはこれに反対して、大きな論争を生み出しました。この議会の分裂に乗じて、国王軍の残存勢力が蜂起して第二次の内戦を起こしますが、素早く結束した独立派(クロムウェル側)と水平派によって、すぐに鎮圧されてしまいます。これに合わせて、クロムウェルは長老派を追放して、独立派だけの議会「ランプ議会」(残部議会)が生まれます。そして、国王の存在を維持しようとする者は居なくなりました。


1649年、クロムウェルはチャールズ一世を処刑するために最高裁判所を設置しました。裁判委員には135人が指名されましたが、良心や責任逃れから約半数しか集まりませんでした。それでも判決文は作成され、57名が署名をして、チャールズ一世は王室居住地であるホワイトホール宮殿で、衆人環視のもと、処刑されました。国王は議会からの「人民の自由への侵害に満足せず、王は専制的政府を設立しようとし、ついには議会に対する内戦を起こして続行させた。そのため国土は悲惨に荒廃し、公共の財産は消尽され、何千もの人々が殺され、その他、限りない悪行が犯された」という譴責により、国家に対して「公敵」「専制君主」「反逆者」「殺人者」であるという帰結がなされました。しかしながら、国民はそのように受け止めず、57名の署名者を「国王殺し」、国王を「殉教者」として議会を非難しました。議会が禁止しながらも、国王を擁護する書物は出版され続け、国民は国王を支持し続けました。


国王処刑後、クロムウェル率いるランプ議会は「王政」そのものの制度を審議し、人民の自由と安全のためには不必要であるとして、君主制そのものを廃止します。そしてランプ議会は「王と貴族院抜きに現在設立されたイングランドのコモンウェルス(共和国)に対して、誠実かつ忠実であることを約束する」という誓約を制定し、共和制宣言を発しました。しかしながら、中身は「王権を議会に譲る」というものであり、その議会を支配していたクロムウェルが実質的に王権を握ったに等しいものでした。


クロムウェルの独裁はランプ議会内でも分裂影響を及ぼし、先に意見を違えた水平派を次々に逮捕し、処断して弾圧していきます。また、自営農民たちによる私有財産としての土地を共用し、共同耕作という社会改革を唱えたディカーズ(真正水平派)たちも、独立派ジェントリの財産に手をつけるという意味でクロムウェルの反対に合い、危険思想として処断されました。また、クロムウェルはアイルランドの征服にも乗り出します。アイルランドにはカトリック信徒が多かったということで、土地を荒らすほどに凶暴に侵略し、プロテスタントとしての略奪を公然と行いました。さらに、チャールズ一世の子チャールズ二世が率いたスコットランドをウースターの戦いで破り、チャールズ二世はフランスへ亡命、スコットランドはクロムウェルの支配下に置かれました。そして周辺の安定を手にしたクロムウェルは、ランプ議会さえも不要であると考え、長らく続いた議会も独断的に解散し、彼が率いた軍隊のみで組織された、実質的な軍事国家が出来上がりました。新型軍は成文憲法「統治章典」(護国卿に王権と等しい権利を付与する新たな憲法)を作り上げ、クロムウェルを護国卿に据えました。こうして、クロムウェルの独占政治が誕生します。数年間その支配は続きましたが、結果的に、政治においては混迷を極めたのみでした。クロムウェルが死去すると、その息子リチャードが護国卿を継ぎましたが、新型軍と長老派の諍いは解決できないまま、リチャードは自ら立場を退きます。無政府状態となった国内では、民衆による王政復古の声が高まっていきました。そして1660年、チャールズ二世が亡命先(オランダ)から帰国して民衆に歓迎されます。こうして、王政復古が成り、チャールズ二世が国王に即位しました。


ピューリタンによって引き起こされた国王への反乱は、十万を超える死者、国民による国王の処刑、混迷する独裁政治を生み出しました。これらの争いと権力の在り方を見つめ、「国家とはどうあるべきか」を考え抜いた哲学者がトマス・ホッブズ(1588-1679)です。彼は、国家形成における人衆心理と権力者の社会契約説をもとにした政治哲学理論を構築しました。その代表的な国家論が『リヴァイアサン』です。旧約聖書「ヨブ記」に述べられているとおり、強靭な体躯を持つ水棲の怪獣を作品名にあてています。神が述べるように、「何者もリヴァイアサンと戦いそれを屈服させることは出来ず、見るだけで戦意を失うほどである」という形容を持つ国家論には、理想的で強靭な社会を作品内で明示しています。このリヴァイアサンと対を成す陸の怪物ビヒモスは、本書の作品名として使用されており、中身も関連性が深いものとなっています。


『リヴァイアサン』は国家形成の必要な要素を連ねたものである一方、『ビヒモス』は国家における「人間の悪意」、それが齎す「悪政」が対話形式で語られています。前述の「イングランド内戦の概要」は一般的な歴史の内容ですが、ホッブズはその奥の「人間の悪意」を「証拠書面」や「証拠文書」、或いは自身で見聞きした「生の情報」を活用し、自身の見解を直截的に語っていきます。歴史で伝わるチャールズ一世の言動は、確かに処断されても致し方ないと取られる内容が多く伝えられています。しかしながら、公然と私利私欲に走って課税をした訳ではなく、イングランド(或いは三国)を守る為に徴収せざるを得なかったという面が見えてきます。当時のヨーロッパはドイツの宗教戦争の影響で経済不振が続いており、自国を守るためには自国で工面するしかなかったことは明らかです。しかしながら、議会における聖職者、ジェントリ、自営農民、職工経営者たちは、彼ら自身の安定した生活から国を守る為に課税されることを反対し続けます。だからこそ、チャールズ一世は議会を無視して課税を断行せざるを得なかったという背景があります。このような経緯がありながら、長老派をはじめとする当時の議会は、「チャールズ一世が独断で私欲のために課税を進めている」という風評を流し、兼ねてより長老派議会が企んでいた「寡頭制政治」を実現させるために、国王を排除しようと実行していきます。この実行方法が「非人道的」であり、聖職者としてあるまじき行為でした。


教皇に従うものたちは、教会内で振るう権力を世俗に押し付けようとします。この「教会権力」は、本来はイエス・キリストに由来するものでありながら、権力に目が眩んだ聖職者たちは、国王を含む世俗全てが「イエス・キリストの代弁者たる聖職者」に権力を振るうなど許されない、という思考となっていました。このような傲慢を抱いた聖職者たちに委ねられた議会が行う実政は、クレリカリズム(聖職者支配)とは名ばかりの悪意に満ちた悪政が進められることになりました。このような長老派聖職者の持っていた危険性を、赤裸々に明かしながら糾弾を進めていくのが本作『ビヒモス』です。クロムウェル、ランプ議会、新型軍なども同様であり、議会が王権(に等しい権力)を握ったがために、民衆はより一層の不幸に見舞われるという実態を、怒りを込めて熱弁します。


この長老派聖職者たちに見られる「聖職者らしからぬ悪意」を芽生えさせたものの根源は大学制度にある、とホッブズは語ります。ギリシャ、ローマの古典哲学に込められた「自由意志のみを都合よく抜粋」して、絶対王政は自由を搾取するといった表現を堂々と国民に対して行い、各地での聖職者による説教にもこの内容を含め、悪意的な啓蒙を民衆に広めていきました。これらに誑かされた民衆は、「民主制」を受け入れるようになっていき、議会の権力と国王処刑を受け入れてしまいました。ホッブズはこのような民衆に対しても怒りを見せます。「民衆には正義や義務に対して非常に無知であった」と述べる姿勢は、真の正しさを民衆が持ち得ていたならば、このような悲劇は防ぐことができたのではないか、という思いが込められているようにも思えます。


A アリストテレスの哲学が宗教の要素とされたことも、大学から始まった。それは、キリストの体の性格や、天国における天使や聖徒の状態にかんする、非常に多くのばかげた信仰箇条を言いつくろうのに役立った。大学はそうした信仰箇条を、信仰させるにふさわしいと考えた。なぜなら、そうした信仰箇条は聖職者に対して、その最も地位の低い者にすら、利益や崇敬を与えたからだった。最も地位の低い聖職者でさえキリストの体を作ることができる、と大学が人々に信じさせ、とくに人が病気の際には、聖職者が救い主をこしらえて病人のところへ持ってきてくれる、と信じられるならば、聖職者に崇敬を示さない者が、また聖職者や教会に物惜しみするような者がいるだろうか?

B しかし、アリストテレスの教説は、こうしたペテンにおいて、どのように聖職者の役に立ったのでしょうか?

A 彼らは、アリストテレスの教説というよりも、その漠然としたところを利用したのだ。彼らのお得意は、人々を言葉で困惑させて陥れ、ローマ教会の決定で最終的決着をつけねばならぬような論争を培養することだった。この点で、アリストテレスのそれこそ、うってつけの古代哲学者の文書だった。彼らは、アリストテレスの教説における多くの議論を利用した。


『リヴァイアサン』と『ビヒモス』の両作品に共通するホッブズの思想は、「誠実さと英知」、「一人格の主権」というものが込められています。権利を持つ者は、私利私欲による思考の分裂や、強欲に溺れることを自ら制し、正義の心を持って権力を振るい、国を守ることを第一の義務としなければならないことが、一貫して作品に込められています。

中世では一般的に「ビヒモス」を悪魔であるという見方がされていました。これは旧約聖書の解釈とは何ら関係がありませんが、本書の悪意の塊を捉えてホッブズは『ビヒモス』と作品名を付けたのではないかと勘繰ってしまいます。ホッブズ自身、チャールズ二世の家庭教師を担うなど、王党派らしい考えを持っていることは当然ではありますが、提示される文書の文言を見る限り、偏った長老派批判、クロムウェル批判であるとは考えられません。イングランド内戦、清教徒革命の「市民革命」的な印象がぐらつく作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。


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