『シンベリン』ウィリアム・シェイクスピア 感想
こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。
古代ブリテンの国王シンベリンには二人の王子と一人の美しい娘がいましたが、後妻を迎えたころに幼い王子たちは失踪して行方不明になりました。世継ぎの問題もあり、一人娘のイノジェン(イモージェン)の婚姻に関しては後妻の息子クローテンと結び付けようと考えていましたが、彼女は密かに愛情を育んでいた紳士ポステュマスと既に契りを交わしていました。これを認めるわけにはいかないシンベリンはポステュマスを追放し、引き離したイノジェンとクローテンの婚姻を進めようとします。追放されたポステュマスは友人の住むローマへと向かい、そこで策士ヤーキモーと出会います。酒の席で女性について論じ合っているなか、白熱してヤーキモーはポステュマスの恋人など一夜でものにすることができると言い出し、イノジェンの守る貞節を賭け事にしてしまいます。謁見の紹介状を手にしたヤーキモーはイノジェンのもとへ向かい、口説き落とそうとポステュマスの偽の悪態を連ね挙げますが、そのようなものには彼女の心は傷付かずに毅然とした態度で跳ね除けます。早々に口説くことを諦めたヤーキモーは、別に仕込んでいた悪辣な罠を用いて、結果的には「イノジェンの貞節を奪ったという証明」を手にしてローマへと帰ります。証拠を突き付けられたポステュマスは半狂乱となり、彼の侍従ピザーニオへイノジェン殺害を手紙によって指示しました。しかしピザーニオは善良な心からイノジェンを救うべく、ローマ将軍ルーシアスに男装して小姓として仕えることを勧めます。
後妻である王妃は息子クローテンを拒んで婚姻を結ぼうとしないイノジェンに憎悪を持っています。そもそも、国王の権力と財産が目当てであるため、それを意のままにするためにはクローテンが婚姻して次期国王へと歩まなければなりません。また、クローテン自身も愚者の典型と言える人間で、品位や良心の欠落した人物として存在しています。そしてイノジェンへ強く迫った際、ポステュマスが追放されても変わらぬ拒絶を見せるばかりか決定的な存在否定を受けて憤慨し、憎しみが頂点へと登ります。ポステュマスを追い掛けて城を脱走したイノジェンを、クローテンは怒りに任せて殺害に向かいました。一方の男装したイノジェンは森に迷っていたなか、過去にシンベリンから追放を受けた貴族ベラリアスと二人の息子が住まう洞穴へと辿り着きます。衰弱しきった彼女を三人は言い知れぬ親愛の情を抱き、親切に介抱して快復させます。それもその筈、二人の息子は失踪した二人の王子であり、正真正銘に血が繋がった兄妹であったからです。互いに素性は明かさぬまま過ごしますが、三人が狩りに行っているあいだ、衰弱したイノジェンはピザーニオより渡された強壮剤を飲み干すと気絶してしまいます。その頃、狩りに向かった三人のもとへ、道に迷ったクローテンが出会します。イノジェンへ屈辱を与えるため、ポステュマスの服を身に纏っていました。元々貴族であったベラリアスは一目見てクローテンであると気付き難を避けるために離れようとしましたが、兄のギデリアスは勇敢に立ち向かい、争いの末クローテンの首を刎ねてしまいます。
三人が洞穴へ帰るとそこにはイノジェンの死姿(実際は気絶している)がありました。嘆き悲しむ二人の王子は、心よりの葬送の詩を送り、首の無いクローテンの横へと埋葬のために寝かせます。三人が離れるとイノジェンは意識を戻し、真横に横たわるポステュマスの服を着た首の無い死体を目にします。彼であると勘違いしたイノジェンは嘆き悲しみ打ちひしがれていると、ブリテン王国へと向かうローマ帝国の使者団に遭遇し、将軍ルーシアスに事情を尋ねられます。身分を隠した打ち明け話しをしたイノジェンは、大変気に入られて小姓としてルーシアスに召し上げられ、同行することになりました。その後、ルーシアスは国王シンベリンに対してローマへの服従を強制したことによって戦争へと発展します。激しい戦いはベラリアスと二人の王子、そしてポステュマスの貢献によって勝利を収めました。しかしポステュマスは、ピザーニオより届けられた「イノジェンが死んだと理解できる証明」によって自暴自棄となり、死を望むがあまり捕虜のローマ軍人として連れられることを望みました。そして、シンベリン、ルーシアス、ヤーキモー、イノジェン、ポステュマス、ベラリアス、二人の王子、ピザーニオなどが一堂に会し、互いの言葉によって絡み合った紐が解けていき、喜劇として終幕を迎えます。
実に多くの要素が複雑に絡み合い、思惑と誤解が錯綜する入り乱れた劇です。そしてこれらの要素は、かつてシェイクスピアが作品に織り交ぜてきたものが多く見られ、どこかしらの既視感を思い起こさせます。イノジェンの男装、ベラリアスの代理父、ポステュマスの親族の亡霊、イノジェンとギデリアスの血縁の印となる黒子、王妃の悪意と憎悪、ヤーキモーの策略など、シェイクスピアが他作品で用いた要素が、集積されて本作の物語を作り上げていることがわかります。この事実によって、本作はあまり舞台で演じられていないばかりでなく、数多くの批評家から辛辣な意見を与えられてもいます。多くの要素を織り交ぜて終局で全てを紐解くという手法は、シェイクスピアが得意とする描き方ですが、本作の要素の多さによって集大成的な印象よりも「数の多い寄せ集め」の印象の方が優っているとも感じられます。しかしながら、本作の試みにはシェイクスピア自身が「戯曲で表現する技法そのものへの問題提起」とも取れる姿勢が見えます。当時の演劇における風潮は悲喜劇(ロマンス劇)が主流となっており、明解な喜劇や悲劇よりも複雑に入り組んだ作品が多く好まれていました。このことによって、込めるべき思想や哲学よりも、劇における虚構性や劇的なリアリズムへと作家の意識が傾いていたことに対するシェイクスピアの批判的な態度が映し出されています。彼は自身の作品によってそれを批判し、世に訴えようとしていたように思われます。
とは言え、終幕にてシンベリンが見せたブリテンとローマの和平は、観るものへ大きな安堵を与えるとともに、当時の英国が望んでいたヨーロッパ諸国における和平交渉者としての立場を示唆している点が、国王ジェームズ一世の野心を肯定するように描かれており、非常な喜びを与えていたことが窺えます。そして事態は好転し、失った王子たちを取り戻して国を守り、イノジェンとポステュマスを幸福へ導こうとする「シンベリンの赦し」は、ジェームズ一世へ満足を与えています。このことからも、シェイクスピアが自身の立場、あるいは望まれる仕事を全うしながら、自身が訴えたい思いを込めて本作を書き上げたことは素晴らしい技術であると言えます。
また登場人物において、その優しさと気立の良さはシェイクスピア作品のなかでも随一と言われるイノジェンを生み出したことも、本作では大きな意味を持っています。度々のポステュマスの愚かな行為にも、健気に立ち向かって受け止める姿は自分の運命に抗おうとする逞しさと決意が現れ、観るものを強く惹きつけます。そのような素晴らしい人物であるからこそ、策士ヤーキモーは早々に口説きを諦めて感嘆したのだと理解できます。
このイノジェンの仮死を受け、悲しみに暮れるギデリアスとアーヴィレイガスの両王子による葬送歌も、光り輝く美しさをもって綴られています。不思議と生まれた親愛の情をもって、美しくも優しいイノジェンを想う二人は、母(ベラリアスの妻)を失ったと同様の悲しみを覚えて心からの親愛の情を述べます。
死は誰にも訪れる、それは理不尽や苦痛からあなたを解放してくれる、だから何も恐れるものはない、と優しく諭すように歌われます。この葬送歌は、その美しさからヴァージニア・ウルフやT・S・エリオットなどによって引用されています。
本作は物語に込められた要素の多さにも関わらず、スラップスティックにならずに重い空気を募らせて、最後には華やかな喜劇へと導くという筋書きを持っており、読み応えもありその世界に没入できる作品であると言えます。シェイクスピアは晩年となって、時代の風潮に疑問を持ちながらも、それに対する単なる批判ではなく重厚な悲喜劇として世に打ち出しました。そこに込められた詩性にはやはり素晴らしい天才性が光っています。晩年に描かれた『シンベリン』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。