『夏の花』原民喜 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
原民喜(1905-1951)は、広島県広島市幟町で陸海軍を相手とした縫製業によって大きく成功していた父親のもとで生まれました。幼少期より口数が少なく、自分の意見を自ら述べるようなことのない内向的な性格でした。対外的な環境ではその性格が災いし、仲の良い級友を作ることも困難で、仲間内からははみ出され、より一層に孤立していきました。裕福な家庭環境にあったため、心の帰る場所は家であり、また、文学に関心が強かったため、家に引きこもってロシアやフランスの文学にのめり込んでいきました。これが幸いし、本来持っていた文才が開花していき、やがて詩作をはじめて作品を生み出していきます。
慶應義塾大学文学部予科へ進学すると、のちの文芸評論家である山本健吉、日本シュルレアリスムの代表的存在となった瀧口修造、バレエ評論の第一人者になる蘆原英了、などが同学年に属していたことで芸術への関心が高まり、自らの詩作も「第一次世界大戦争によって齎されたニヒリズム」を表現するダダイズムへと傾倒していきます。無口であることには変わりありませんでしたが、原が文学における「芯」を持っていると感じた山本健吉らは自ら近寄っていき親交を深め、彼には良き級友が幾人も集いました。しかし、対人関係にまで影響を及ぼす元来の無口は社会生活を困難にして働くことができずに、結果的に原は裕福な家庭に助けられながら作家としての生活を歩んでいきます。
いつまでものんべんだらりな生活を過ごすことは許されず、原は実家から事実上強制的な見合いをさせられます。これは、名士の一族足り得る世間体を原に持たせようというものでした。辿々しく、支離滅裂な発言しかできなかった原でしたが、運命的な出会いであったのか、ことはうまく運んで結婚することになります。この相手は本書の解説者である佐々木基一の姉貞恵で、二人は千葉で結婚生活を過ごします。原の精神を守るように傍に居る貞恵の存在は、彼にとって大変居心地が良く、心底愛し合いながら世間を隔てた二人の空間を守っていきました。かと言って、同人誌に参加している程度では暮らしていける訳もなく、原は相変わらず実家の支援を頼りに日々を暮らしていました。
しかし、この幸福は妻の結核罹患という事態によって大きく変化します。内外の生活をすべて妻に委ねていた原は、なんとか快復させようと熱心に看病をします。いままで見せたことのない目に見える努力は日を増して激しくなりますが、その甲斐も虚しく、糖尿病を併発した貞恵は1944年に亡くなりました。彼は闘病生活のなかで「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために」(『遙かな旅』)という言葉を残していました。そして、それを全うするように、先に見える自らの死を受け入れながら、愛を込めて妻を詠うために生きていきます。
独り身となった原は、家族と離れて暮らす意味も無くむしろ困難であったため、広島の実家へと戻ることになりました。しかし第二次世界大戦争の真唯中にあった実家は、陸海軍の御用達であることから戦況悪化の煽りを直接受け、以前の裕福な環境は薄れていっていました。実務に役立たない原は、半ば厄介者のような扱いを受けていましたが、それでも僅かな手伝いをできる範疇で務めます。そして愛妻の初盆を控えた1945年8月6日の朝、アメリカ合衆国より広島の地に原子爆弾が投下されました。原は偶然に狭いトイレのなかに居たため、家屋の崩壊による怪我などには合いませんでしたが、外に出ると悪魔的な人災が目の前に広がっていました。あらゆる家屋は原型を留めず、自然は荒廃へと変化して、悲鳴と呻き声が方々から聞こえていました。
一命を取り留めたという事実は、天啓的に原へ文学者としての使命感を与えました。彼の目から見える景色、聞こえる音を詳細に残すと同時に、彼の詩性を持って一つの作品へと昇華されました。そして執筆された作品が本作『夏の花』です。
少年時代より、父、姉、母が亡くなり、そして最愛の妻をも亡くした原は、戦禍を免れるために広島へと逃げ延びて被爆しました。親族、隣人、街の人々、顔を見知った人々の多くの死を目の当たりにして、荒廃と虚無に包まれます。死に包まれた孤独という「生」は、彼にとって決して華やかなものではなく、幸福に溢れるものでもありませんでした。また被爆による体調不良は活力を削ぎ、体力を奪っていきます。それでも彼の芯に突き刺さった「使命感」は、動かぬ腕を動かします。
死を凝視し続けた原は、父、姉、母、妻の死と、原爆による被爆死とを、明確に区分して捉えていました。前者の死は、生を受けて病と闘い死に至るという、自然の摂理的な受け止め方がされており、悔やむ心のなかにも生前を思い返す美しさが込められています。対して後者は、生を受けて不条理な人災により殺されるという全く別の感情が存在し、怒りと虚無が入り混じる複雑な心で捉えていました。
本作の描写では実に冷静で緻密な観察眼のもとに、被爆の荒廃と、放射能被曝の凄惨さが綴られています。詳細に描かれる無念の感と、絶望の淵を歩く被曝者たちの悲惨を、目を背けることなく細かに描き、読む者へ激しい臨場感のもと胸に突き出すように映し出しています。しかしその一見冷徹とも思える描写の奥からは、原民喜自身の持つ沸々と煮立つ怒りが垣間見えて、非人道的な行為に抵抗しているように感じさせられます。また、詳細な生活苦の描写や死に至る情景は、当時の現実を伝える重要な記述となっており、それらの凄惨から目を逸らさない原の姿勢にも感嘆させられます。
愛妻の死後、愛を綴り続けようと決心した鎮魂の一年は、結果として初盆を前にして潰えました。しかし、被爆した広島の人々の多くの死に対する使命感をもった鎮魂の数年は、彼に生きる力を与えました。本作が検閲によってなかなか出版できなかった経緯もあり、漸く「三田文学」で掲載されてから、そのまま執筆や編集などを任されて文学者として生活していました。その後、戦後派作家と言われる武田泰淳、埴谷雄高、堀田善衛、遠藤周作らと親交を深め、文壇における重要な人物として目されるようになります。生活が安定し、生きる活力が湧いてきたかに見えた1951年、原は国鉄(現JR)中央線の吉祥寺-西荻窪駅間で身を横たえて鉄道自殺しました。
この自殺は決して衝動的なものではありませんでした。遺書を十九通も認め、すべてが丁寧に感謝の念を添えて書き綴られ、僅かな遺品をどのように分配するかなど取り決められていました。動機は憶測を超えませんが、当時に拡大し始めていた朝鮮戦争において、アメリカのハリー・トルーマン大統領が「原爆の使用もありうる」という声明を出したことに失望したことが原因ではないかと考えられています。確かに、第二次世界大戦争後に多くの広島の被爆を描いた作品を発表したことで、彼が天啓的に受けた使命は果たされていたのかもしれません。しかしながら、その実態を後世に残すということは、そこから教訓を得るべきであり、二度と繰り返してはならないという考えがあってこそ意義があると思われます。原が何もかもを成し得た末に昇天したとは考えにくく、失望によって死の孤独へと導かれたように感じられます。
現在、原爆ドームに「原民喜詩碑」が建てられています。建立は1951年、原民喜の亡くなった年です。原と親交の深かった文学者たちによって建てられたこの詩碑は、現在でも彼を偲ぶ人々によって訪れられています。
「遠き日の石に刻み 砂に影おち崩れ墜つ天地のまなか一輪の花の幻」(碑文)
天地を崩すような惨禍を越えて立ち現れる一輪の花の幻に、原民喜は何を映し出していたのか、今もなお考えさせられ続けます。
戦禍の跡形もないほどに広島の街は美しく復興しました。世界各地ではいまだに紛争が絶えませんが、戦争を実行しようとする人間たちが、少しでも原民喜の持つ平和的な観念に気付くことができればと願って止みません。原民喜『夏の花』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。