牛丼の特盛をオーダーしたい
ずっと以前、日本経済新聞のコラム『私の履歴書』で取り上げられていたのが、吉野家の牛丼「特盛」の誕生エピソードだった。
「盛りを増やしてみたら大ヒット」なんていう単純な話ではなく、開発当初は社内からの猛烈な反発に遭ったという。担当者は「損失が出たら身銭を切って補填する」と腹をくくって押し切ったそうだ。
結果は言うまでもない。1991年10月に発売されると大ヒット商品となった。今や家庭でも「特盛で」と言ってゴハンを催促する場面もあるだろう。特盛は日常に溶け込んだ。
しかし、そんな特盛とわたしとは擦れ違いの関係にある。どんなに求めても、大盛りしか出てこない。
20代の頃のある日、ガツガツ食べたい欲求に襲われて吉野家に入店。気分に任せて特盛を注文したことがあった。
眼の前に置かれた丼を見て、「おお、これが特盛か!さすが!」となかば感激しながら貪り食べ始めたところ、どうやらカウンターの向かいで食べている男性の丼の方が大きい。
遠近感がおかしい。いや、彼が食べている丼のシルエットは独特で、肩を張ったような強そうな雰囲気を漂わせている。もしかして、あれがそれなのではないのか。
お勘定のとき目の前に現れた店員はこう告げた。
「はい!牛丼大盛と味噌汁ですね〜」
やっぱりだ。
「特盛を頼んだのに、大盛を食わせておいて、大盛の金額を取るんですか?」
という主張は胸に留め、その場は黙って店を出た。特盛のチャンスは消えたわけではない。また次に食べればいい話だ。
ところが、その日だけではなかった。特盛をオーダーすると大盛が出てくるということが、他の店舗でも立て続けに2回起きた。
どうもおかしい。これはもしかすると、特盛のオーダーは口頭だけではダメで、特別な作法が必要だったんじゃないか。
ビートたけしのコマネチのポーズをとりながら「特盛!」
刑事のように警察手帳を掲げながら「特盛だ」
能『敦盛』を舞いながら「特盛ぃ」
いやいや、これはいくらなんでも目立ちすぎる。吉野家でコマネチしている人はおろか、「人間五十年〜」を舞っている人なんて目撃したことがない。
だとすれば、もっと目立たない暗号のようなカタチではないだろうか。
まるでスパイ大作戦でフェルプスが極秘指令を受け取るときのように、店員との何気ない会話が、特盛オーダーの合図になっているのではないか。
「特盛」と伝えたのに特盛が出てこない原因は、もうこれしか思い当たらない。
差し当たってのミッションは、特盛オーダーの暗号を突き止めることだ。お店に入ったら、店員と客との会話に耳を澄まさなければなるまい。
コマネチのポーズで「特盛!」とオーダーする客が現れないことを願うばかりだ。