死にたいと思うとき
あるときなんの前触れもなくふと「死にたい」と思うことがしばしばある。
何か特別イヤなことがあったわけでもないしショッキングな体験をしたわけじゃないのに。
突然「あ、死にたいな」って思う。
こんな気持ちになる人は他にもいるのだろうか。
以前の私は酷いうつ状態にあり「死にたい」「消えたい」「生きてる価値がない」「はじめから生まれてこなければよかった」
そんな考えが浮かんでは消え、その繰り返しの日々だった。
現在は双極性障害の治療中で、気分の波はあるもののそこまで酷い状態が続いているわけではない。
自殺願望があるわけでも自殺企図をするわけでもない。
これといってすごく楽しいことやすごく悲しいこともなく、大きな感情に振り回されることも減ったし、ときどき無気力になったりはたまたやる気が出てきて行動的になるときもあったりと
わりと自分の中では平凡な日々が続いている。
にもかかわらず突然電池が切れたようになにもかもがどうでもよくなって全てを放棄したくなることがしばしばおとずれる。
原因は一体なんなんだろうか。
きっと答えは見つからないだろう。
生きることに理由や意義を見出せないのと同じように。
なんのために生きるの?
その問いにはしばしばこんな答えが返ってくるだろう。
「幸せになるため」
「生きるのに意味などない」
「死ぬまでの暇つぶし」
そもそも幸せってなんなんだろうか。
人によって幸せの基準や価値観は違うからコレという決定的な事柄はないのだろうけど。
少なくともいまの私はきっと「幸せ」ではない。
わからないけれど。
仕事に疲れ、人間関係に疲れ、精神を病み、人生のどん底にいたころに比べたら状態は間違いなく良いはずだ。
だけど幸せって相対的なものじゃないような気がする。
肉体的に不健康なところはないし
住む家も仕事もあるし
友達と呼べる人だっている。
これで幸せじゃないなんて言ったら怒られるだろうか。
そうだとしても私の心はいつも満たされていない。
もちろん私も人間なのだから「嬉しい」とか「綺麗だな」とかそういった感情は持ち合わせている。
でもなんとなく虚無感が常につきまとっているのだ。
熱心に仕事をしたり
友達と一緒に時間を過ごしたり
恋人と電話で話をしたり
その時々は「楽しい」と思う。
けどその瞬間が途切れた途端に虚しさが私を襲い「死にたい」に引っ張られることがよくあるのだ。
人生良いときもあれば悪いときもある、というように
「楽しい」時間のあとには「虚しい」時間がおとずれるようにできているのか?
これって私だけ?
他の人もそうなのかな。
私は「感情」が苦手だ。
感情に限らず不確定要素のある事柄が全般的に苦手である。
答えが理論的にはっきりしないことを自分で解決したり正解を導き出す能力が欠けているのだろう。
数学や科学は好き。
一方でいわゆる文系は好きではない、そもそも理解が難しい。
自分の気持ちを伝えるのも
人の感情に関する話を聞くのも得意じゃない。
というかよくわからない。
議論するにはまず言葉の定義づけからしないと話を先にすすめることができずパニックになってしまう。
【 幸せとは 】
幸福(こうふく、希: εὐδαιμονία、羅: felicitas、英: happiness)とは、心が満ち足りていること。幸せ(しあわせ)ともいう。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
こんな説明されたって分らんよ。
ちなみに「満ち足りる」には、「十分に満足し気持ちが満たされること」という意味があるそうで。
結局「気持ち」とか曖昧なこと言われてもわからん。
「気持ち」を取り出して分析する機械にぶち込んでドーパミンやセロトニンの分泌量がどんなもんで心拍や血流とかそんな感じの科学的に定義された感情ひとつひとつを振り分けてくれよ。
って思ってしまう。
感情というものは厄介である。
人によって意味合いや捉え方は異なるし、発せられる言葉だけでなく
相手の表情の変化や声のトーン・いつもより口数が少ないといった変化も気になってしまってしようがない。
私は幼いころから人の顔色をうかがって生きてきた。
嫌われることや人にどう思われているかが不安でいつも「いい子」でいることを潜在的に自ら選択してきたんだと思う。
「あなたは本当に気が利いていい子ね」
母親や祖母からそう言われ続けて育ってきた。
気が利くのはいいことである。
気を利かせるためには周囲の状況を判断して相手の求めていることを察知し、先回りして対応しておく・準備しておく。
そのために顔色をうかがうことは私にとって必要なことであった。
それが今の私にとっては裏目に出ているんじゃないかと思ったり思わなかったりする。
別にいまさら他人にどう思われるかとか
嫌われたらどうしようとか
気を使っているわけではない、と思う。
だけれどちょっとしたことですぐに落ち込んだりいつまでたってもモヤモヤとした感情に憑りつかれてなかなか心の回復には至らない。
・目が合ったのに何も言われずすぐに視線を逸らされてしまった。
私の何がいけなかったのだろう?
・普段おしゃべりなあの人が今日は口数が少ない。
私がなにか間違ったことをしてしまったのだろうか?
・イラっとしたと言われた。
あのとき私はどうしたらよかったんだろう?
なんであんな行動をとってしまったのだろう?
・ため息をつかれた。
なにか嫌な思いをさせてしまったのだろうか?
はたから見れば些細なことだと思う。
けれども私にとってはとても重大なことでいつまでも頭を悩ませる種となってこびりついて離れない。
正直、それなりに生きづらい。
潜在的に嫌われることを恐れているのだろうか。
100人いたら100人に好かれるわけはないのだから気にしたってしょうがないことだと頭では理解しているし
嫌われたり煙たがられて離れていくような人間ならそれまでの関係だったとも思う。
別に八方美人になりたいわけでもない。
他者からどう思われようと私は私である。
でもそんなような小さい出来事の積み重ねや
ふとした瞬間に思い出すことで
「あ、死にたい」
に繋がっているのではなかろうか。
その接続を剥がすことで状況は好転するのではないか。
そんなことも思ったりする。
けどそこまで重要なことなんだろうか。
別に死にたいって思うことぐらい誰にだってあるんじゃないか?
よくわからないよ。
死にたいって思うのは一般的によろしくないことだとは思う。
けど別にどう思おうとその人の勝手である。
ただ、私は私の大切なひとがそう思っていたら悲しいだろうな。
私を大切に思ってくれているひとがいるのなら
そのひとのためにも考えを改めたり改善するべきなのではないか?
そう思うのは簡単、だけどどうしたらいいかわからない。
それにそれって自分軸じゃなくて他人軸に生きているっていうことなんじゃないか?
それはそれでどうなんだろうか。
いくら考えたところで答えは見つからないんだろうな。
少なくともいまの状態は私が目指している
「自分が好きな自分になる」
ということからは遠ざかっているのだろう。
認知が歪んでいるのかもしれない。
どうしたらいいかわからないなりに勉強して
昨日よりちょっとでもいい自分になれたらいいなと思う。
まとまりのない文章になってしまったが
多分、これがいまの私の本音なんじゃないかな。
どうかこの先、穏やかに過ごせるときがおとずれますように。