[小説|10000字]祝福
ざざあ、ざざあ。波の音が頭を突きぬける。高い崖の上、眼下には、この世のものではないような美しい瑠璃色の海が広がる。むせび泣くように、風がびゅうっとうなり、波が岸壁で砕ける。まだ燃え尽きずにいる夏の終わりの太陽が、睫毛を焼く。重力がここだけ歪められているかのように感じて、目眩を覚えた。
直樹は言った。
『深雪』
『僕がどう死ぬかより、僕がどう生きたかを覚えていて』
『愛してる』
清沢深雪は、夫の命日に、彼が命を絶った場所に来ていた。今日は2062年8月22日。あれから6年がたつ。まだ、昨日のことのように、記憶は生々しい。気がつくと、ブーケを持つ手の力が緩んでいた。直樹が好きだった、真っ白な百合の花。
「直樹」
「私ね、35歳になったよ。直樹に、追いついちゃったね」
直樹の遺体は、見つからなかった。きっと、準備をしていたのだろう。もしかして、まだどこかで生きているのではないか、という淡い希望も、時間がた経つにつれ、薄れていった。崖から海へ、ふわりとブーケを投げる。自分も身を投げられたら、どんなに楽だろうか。気がつくと、片方の目から、一筋の涙が頬を伝っていた。
「・・・・・・ちゃん」
「キヨちゃんっ!」
「コラッ! キヨサワッ!」
はっと顔を上げた。いつも通りの、白い清潔な無菌室。深雪は、大学病院の産婦人科で、不妊治療の現場を支える胚培養技術者だ。胚とは、赤ちゃんのもとになる細胞の集まりである。深雪がかじりついていた培養装置のモニタには、球形の膜の中に、粒のような細胞たちがゆっくりと動く様子が映し出されている。
「もう! お前、まーたゾーンに入ってたんだろお!」
目の前に、皺だらけの杉原の顔がある。相変わらず、150年前の文豪のような分厚い眼鏡をかけている彼は、白髪でさらさらのおかっぱ頭を振り乱し、ご立腹のようだ。
「仕事にのめり込みすぎなんだよ! ほら、この遺伝子解析装置の使用予約時間、もう過ぎてるぞ。次、俺だから」
そう言って、杉原は鼻をふんと鳴らした。深雪の上司にして世界レベルの技術者である彼は、2043年に定年制度が撤廃になったのち、現在76歳という年齢ながら、第一線で30人もの後輩技術者たちを束ねている。
「もう8月も終わるってのに、毎日毎日暑くて、やってらんねえよなあ! どお? キヨちゃん担当の胚、順調に育ってる?」
「はい、第一卵割までに遺伝的異常は確認されませんでした。生育は順調で、もうすぐ桑実胚になります。このまま胚盤胞になってくれたら、すぐお母さんのお腹に移します」
「今はさ、培養装置が進化したおかげで、大抵は胚盤胞まで無事に育つし、母胎に移植後も、着床率はほぼ100%だもんなあ。いい時代になったよまったく。俺が30いくつの頃なんてさ、胚が生育不良になったり、せっかく育った胚でも着床しないなんて、ざらだったんだぞ! いつもハラハラドキドキしてたよ。ほんと、技術革新に感謝しろよ!」
さ、どいたどいた、と杉原は装置を使い始めた。この巨大な白い箱のような装置は、不妊治療において、胚を培養する、いわば代理母の役割を果たしている。付属のモニタには、将来胚が赤ちゃんとなり、大人になって生きていくときに、どのような遺伝子がどのような影響力を持つのか、シミュレーションの膨大な結果が表示されている。杉原は、まるで愛用の楽器を奏でるかのように、鼻歌まじりに装置を操り始めた。集中しているときの癖だ。まったく淀みのない素早い動作で、次々と画像を切り替えながら、複雑な解析結果を読み解いていく。
2050年代前半に、第一卵割前の受精卵を一切傷つけずに膨大な遺伝子群の働きを予測する技術が開発されてから、着床前診断は爆発的に進歩した。この装置を使えば、数十個の受精卵を同時に培養しながら、受精卵が持っている遺伝子群が異常な働きをしていないか、非侵襲的に調べることができる。もし、解析の結果、将来深刻な異常が起こりそうな場合は、母親の胎内に移す前に、その受精卵を「廃棄」することが合法的に認められるようになった。
「キヨちゃん、その子、順調そうだからさ、今日俺が顕微受精させた仕事、たのまれて! 経験積んで、技術究めてよ!」
「はい。ありがとうございます。それでは担当させて頂きます」
「この受精卵ね、今朝受精させたばっかりだから。あとは、いつも通り遺伝子群の挙動に異常がないか調べといて・・・・・・っ」
杉原が突然固まった。無言のまま膨大なシミュレーション結果を目で追っている。
「・・・・・・これ、出るわ」
「出る?」
「・・・・・・やっぱり出ちゃった。この受精卵、自死遺伝子がオンになってる」
並大抵のことでは動じない杉原の額に、汗が滲んでいた。
***
「自死遺伝子・・・・・・ですか?」
急きょ呼び出された患者夫婦は、坂井真結35歳、夫の陽介37歳だ。深雪は技術者として、診察に同席していた。妻の真結は深雪と同じ年齢である。小柄で、色白、色素の薄い褐色の瞳が印象的だ。美しいその瞳は、不安そうに左右に細かく揺れていた。真結とは対照的に、陽介は背が高く、肌は日に焼けている。大きな手が、真結の肩を支えていた。二人とも、混乱を隠せない様子だ。産婦人科の女性医師が深雪を見て、穏やかな声で話し出す。
「こちらは胚培養技術者の清沢です。坂井さんご夫婦からお預かりした卵子と精子からできた受精卵を、育ててくれています。清沢さん、詳しいご説明をお願いします
「はい。坂井様ご夫婦の受精卵について遺伝情報を解析したところ、SUICIDAL1という遺伝子を確認しました。SUICIDAL1を持っていても、スイッチが入っていなければ害はありません。しかし、この受精卵は、SUICIDAL1を発現しています。将来、受精卵が赤ちゃんとなり、成長していくにつれ、この遺伝子の影響は無視できなくなるでしょう。SUICIDAL1は、自死遺伝子と呼ばれています。つまり・・・・・・」
深雪は目で女性医師に助けを求めた。医師は、夫婦の顔を交互に見て、慎重に言葉を選んだ。
「大変残念なことに、この受精卵が将来一人の人間となったとき、自から命を絶ってしまう確率が高いという予測結果が出ました。坂井さん、この受精卵をこのまま育てておなかに移すかどうか、ご決断をお願いします」
自死遺伝子とは、自死を招く精神状態の原因となる遺伝子群だ。自死遺伝子群の中でも、特に自死と強い相関があるとされる遺伝子が、SUICIDAL1である。統計結果から、SUICIDAL1のスイッチが入ってしまった人に、虐待やいじめ、パワハラなどの心的外傷が加わると、精神状態の悪化が加速され、自死率は健常人の20倍にまで上ることが示された。周囲の環境に問題がないと判断される場合でも、自死率は有意に高い。深刻な統計結果を受け、着床前診断ではSUICIDAL1が必須項目となっている。SUICIDAL1がどのような経緯で自死を引き起こすのか、その詳細な分子メカニズムの全貌は、未だ解明されていない。
真結は、膝の上で両手をぎゅっと握った。ややあって、きりりとした表情で、顔をあげた。色素の薄い瞳が、女性医師をとらえる。
「でも、自死遺伝子を持っていても、自死するとは、限らないんですよね?」
「はい。その通りです。私たちが話しているのは、あくまで確率の問題です」
「現行法では、受精卵を着床させるか、廃棄するかの選択を、最初の分裂までに決定する必要があります。何もしなければ、第一卵割は、受精後約20時間で起こります。生命科学の進歩によって、今では、受精卵を凍結させなくても、培養装置の条件を調節することで、最大1か月程度まで、第一卵割を遅らせることができるようになりました」
「それって・・・・・・あと1か月以内に、今回の妊娠を諦めるかどうか、決めるってことですか?」
「そういうことになります」
女性医師は冷静だ。このようなつらい場面に、今まで数多く立ち会ってきた経験値を感じる。でも、と深雪は思う。そんなに簡単に、割り切れるわけがない。
「受精卵って、将来は赤ちゃんになるんでしょう? どこまでが赤ちゃんじゃなくて、どこからが赤ちゃんなんですか? せっかくできた赤ちゃんの卵を、殺してしまうなんて・・・・・・私は排卵障害なんですよね? やっと採れた卵子だったのに・・・・・・」
そう言って、真結は膝の上で握った両手を見つめた。柔らかくウエーブした髪が、顔にかかる。
「時間をもらおう、真結。ぎりぎりまで、一緒に考えよう」
陽介が、真結の横顔をそっとのぞき込み、肩をやさしくさすっていた。
診察が終わり、病院のロビーにあるカフェで、深雪は休憩を取った。マグカップに注がれたラテからは香ばしい香りが立ち上っている。一口飲んだら、温かいものが食道を通って胃の中へ落ちていった。ロビーには、誰でも弾くことができる暗褐色のグランドピアノが設置されている。10歳くらいだろうか、水色のワンピースを纏った長い黒髪の少女がピアノの前に座り、優雅な手つきでゴールドベルク変奏曲を弾きはじめた。壮麗なアリアの響きに合わせ、静かに目を閉じる。
「あの」
ふんわりと柔らかい声。真結だ。夫の陽介は先に帰ったのだろうか。一人でこちらを見つめている。
「技術者の、清沢さんですよね? 先ほどは、ありがとうございました。 突然すみません。今、ちょっといいですか?」
少し驚き、はい、と答えると、真結は、ピアノが見えるよう、深雪の斜め向かいに座った。少女の演奏を愛おしそうに見つめた後、深雪を見て言った。
「私たちの受精卵を育ててくださって、ありがとうございます。あの、私たちの子、元気にしてますか?」
私たちの子、という言葉が胸に刺さる。順調だ。SUICIDAL1のスイッチが入っていること以外は。
「今は、お父さんとお母さんの遺伝子が出会って間もない状態です。これから最初の分裂に向けて、遺伝子たちの振る舞いが劇的に変化していく時期にあります」
「たった1個の受精卵でも、がんばって生きているんですね」
真結は、また優しく笑った。ピアノの少女は、楽しそうにハミングしながら、ゴールドベルク変奏曲を弾き進める。
「わたしね、動物カメラマンなんです。夫も、山や森に自生する植物専門のカメラマンなの。わたし、動物の親子の写真を撮るのが、一番好きで」
真結の瞳が輝いた。
「ボルネオにオランウータンの親子を撮りに行ったことがあるんです。すごく神秘的で、言葉にできないくらい、素敵だった。そしたら、突然私の直感が囁いたの。お母さんになりたいって」
「でも、もしも私たちの子が、将来自分を殺してしまったらと考えると、この子を産んで、いいのかなって。この子を苦しめてしまうだけなんじゃないかって。そう考えると、すごく怖くて」
どうしても赤ちゃんが欲しい。でも、排卵障害のせいで、なかなか妊娠しない。やっと卵子が採れて、今度こそはと思った矢先、自死遺伝子の発現が見つかってしまったのだ。口下手な深雪には、女性医師のように、真結をねぎらう言葉がすらすらとは浮かばない。なんと声を掛ければいいのだろうか。軽はずみな口はきけない。
真結は、心のざわめきを落ち着かせるかのように、ピアノの少女を見つめ、視線を深雪に移した。
「時間を下さい。時間いっぱいまで、考えたいの」
真結が去った後、深雪は冷めきった飲みかけのラテを見つめていた。昼休憩が終わるまでにはまだ時間があった。こんな時、考えることはいつも同じだ。
子供。直樹と私の赤ちゃん。直樹の子なら、たとえどんな困難が待ち受けていても、産むと誓っていた。
大学院博士課程で発生学を研究した。知識を社会に還元したいと思い、胚培養技術者の資格を取り、大学病院の産婦人科で働き始めた。仕事は忙しく、受精卵が持つ遺伝子群の振る舞いに異常がないか、徹夜で観察することもしばしばであった。
産婦人科の医師である直樹と出会ったのは、技術者として2年目の春だった。深雪が初めてペアを組んだ医師が、直樹であった。奥二重の黒い瞳。細い黒縁の眼鏡。栗色の、少しカールした髪の毛。きちんとアイロンがけされた白衣を着た、背の高い後ろ姿。ほどなくして、お互いに好意を抱いていることを確認し、交際が始まった。一緒に生きていきたいと思い、結婚をした。
結婚2年目、夏の終わりに、直樹は崖の上から、突然命を絶った。よく晴れた、空も海も真っ青な、天国のように美しい午後であった。
思い出してしまうと、いつも海にのまれたように、息が苦しくなる。直樹は死の直前、『愛してる』と言い、通話を終了した。デバイスを壊したのだろう。何度かけ直しても繋がらなくなっていた。あの時、もう1秒、直樹と話せていたら、直樹は命を絶たずに済んだのではないか。日常だと思っていた生活の中に、何らかの兆候があったのではないか。自分の鈍感さを、何億回も呪った。直樹の死後、眠れない日々が続いた。もう少しよく話を聞いていれば。何かに気づけていれば。いつも知らないうちに涙が止まらなくなっていた。
追憶の海から、深雪はなんとか生還した。ぼおっとどこかを見ていた両目が、徐々に焦点を取り戻していく。音楽が聞こえない。ピアノの少女は、いつの間にか演奏を終え、いなくなっていた。そうだ、仕事。無理やり頭を切り替える。そうやって、悲しみを飲み込んだまま日々を過ごすことに、慣れてしまっていた。
***
日差しが優しさを帯び、9月に入った。涼しい風が秋の香りを運んでくる。朝、いつも通り出勤すると、皆がディスカッションルームの巨大モニタの前に集まっていた。興奮した様子で、ついになあ、とか、これが応用されれば、などと話している。腕組みをして、群衆の一番前でモニタを見つめていた杉原が、深雪を見つけて、手招きをした。
「キヨちゃん、大発見!」
「どうしたんですか?」
「インドの研究チームが出した論文が公開されたんだよ。自死抑制遺伝子の発見だ」
「え」
瞳孔が開く。心臓が破れそうなほど、激しい動機が襲う。血管がどくんどくんと脈打っているのを感じる。自死抑制遺伝子?
「それって・・・・・・」
「HEAL13。自死を思い止まらせることができる人間が持つ遺伝子だってよ」
モニタに表示された英語論文を素早く目で追う。HEAL13をもつ人は、自死志願者と直接、または間接的にコミュニケーションをとることで、自死を思い止まらせる可能性をもつ。なるほど、可能性か。それから・・・・・・HEAL13を持つ人と直接会って会話をしたり、SNSで交流したり、著作物や音楽、芸術作品に触れることで、自死に向かっていた精神状態が改善され、自死を思い止まらせることができる・・・・・・
「すごい・・・・・・」
そう思うと同時に、ある抗いがたい衝動が発生した。その小さな染みは時間を追うごとに大きく広がり、深雪の心を真っ暗に染め上げた。
気もそぞろなまま仕事を終え、気がつくと、地下倉庫に来ていた。明かりをつける。古くなった実験装置が埃にまみれ、乱雑に置かれている様子が目に入った。人目につかない所で、どうしても調べたいことがあった。ここなら、年末の大掃除の時を除いて、まず誰も入ってこないだろう。年代物の装置の電源を入れると、今にも壊れそうな機械音とともに、液晶のモニタに使用履歴が表示された。
その日付を見て、凍り付いた。この機械は、30年間眠っていたはずではなかったか。
20560819 Naoki Kiyosawa
2056年8月19日 清沢直樹。直樹は、自分の使用履歴を消去せずに残していた。自分自身のRNAを解析していたのだ。そのデータは、直樹の体で、自死遺伝子SUICIDAL1のスイッチが入っていたことを示していた。命を絶つ、3日前のことであった。
「直樹」
「ごめんね」
涙があふれた。声を奪われる。海に飲まれていく。息ができない。海の底へ、落ちていく。
本来の目的を思い出したのは、どのくらい経ったころだろうか。持ってきた箱の中のドライアイスは半分ほどにまで減っていた。涙をぬぐい、手袋をして、作業に取り掛る。あらかじめ、サンプルを密かに抽出していた。必要試薬も調整済みだ。それらを、装置にセットする。古い機械なので、解析にはかなりの時間がかかるだろう。
永遠とも思われる2時間半が経過しすっかり夜も更けたころ解析結果が出た。深雪の体では、HEAL13のスイッチが入っていた。直樹の闇を振り払う遺伝的素質がありながら、自死を止めることができなかったのだ。思考が次々に停止していく。
「ねえ、こんな遅くに何してるの」
後ろに、いつの間にか遠野律が立っていた。彼は博士課程の同期で、深雪と同じ胚培養技術者だ。痩せていて、男性にしては小柄で色が白い。真っ黒な、まっすぐの髪。人見知りな深雪にとっては、心置きなく話せる貴重な友人だ。
「帰ったのかと思ってたけど、リュックが置きっぱなしだったから。結構探した」
遠野は、何かを見透かすような、厳しい目つきをしている。
「ああ。えーとね、うん・・・・・・」
涙で顔がぐしゃぐしゃだ。取り繕おうとしても、無理だった。
「直樹、自分がSUICIDAL1陽性だって、死ぬ3日前に調べてた。私は、HEAL13陽性だった。遠野くん、どうしよう。わたし、直樹の自殺、止められたはずだったんだよ? 止めなきゃいけない遺伝子発現してたんだよ? HEAL13を発現していたら、人を癒せるなんて、本当は嘘なんじゃない? 私、何にも気づけてなかった・・・・・・」
言葉に詰まり、嗚咽が始まった。言葉にならない獣のような泣き声とともに、深雪は床に崩れ落ちた。どれくらい泣いたのだろう。深雪は突然すっと立ち上がり、自分の喉元にナイフを突き付けるような冷たい声で、遠野に向かってまくし立てた。
「もしもさ、ゲノム編集で、SUICIDAL1を削除したら、自殺者って減ると思う? まだ細胞が1個の時にSUICIDAL1を潰せたらさ、遺伝的には完全にSUICIDAL1を抑え込めることになるよね? そしたら、廃棄される受精卵も減るし、人道的だと思わない? 何より、社会の役に立つよ。だって、もう、直樹みたいな・・・・・・直樹・・・・・・みたい・・・・・・な・・・・・・」
最後まで、話し終わることはできなかった。笑ったはずの口の中で、涙の味がする。
「清沢」
遠野が深雪を見つめながら、一歩近づく。
「お前、救世主にでもなったつもり?」
「大体、SUICIDAL1を潰せば自殺者が減るって、どうやって、証明するの? 当たり前だけど、細胞だけ見ていても証明できないよね。遺伝子をいじった胚をヒトの胎内に移植することがこの国で禁止されていることくらい、この仕事やってるんだから、知らないとは言わせないよ。当然、検証なんてできないでしょ。それとも、闇業者にでも依頼するつもり?」
混乱している今の深雪は、遠野の言ったことを認識できない。
「直樹、最期に話したときね、『僕がどう死ぬかより、僕がどう生きたかを覚えていて』って言ってた。そんなの無理だよ。勝手すぎるよ。ねえ、勝手だよねえ。ねえ・・・・・・会いたい・・・・・・会いたいよ直樹。直樹・・・・・・直樹っ!」
叫んだ。遠野は、静かに深雪をまっすぐに見つめる。
「散々自分を呪ったってさ、直樹はさ、もう、帰ってこないんだよね」
精一杯の笑顔を作った。きっと、ひどい顔をしているのだろう。
遠野が、息を吸い込み、ゆっくりと瞬きをした。
「今日は、もう帰って寝な。清沢先生は、お前がそんな顔で泣くなんて、きっと望んでないよ」
遠野は、ぶっきらぼうに言うと、初めて視線を逸らした。もしも直樹が、どこかで見守ってくれているとしたら。遠野のその言葉に、深雪は少しだけ、救われた気がした。
***
受精卵を眠らせてから1か月後、9月の終わりに、真結の診察の日がやってきた。担当の女性医師と深雪は、診察室で緊張していた。今回のように、受精卵が自死遺伝子をもつケースでは、廃棄を決断する親が9割を超える。辛い決断をした夫婦は、大抵暗く沈んだ様子で、診察室内で喧嘩が始まる場合も少なくない。命を廃棄するということは、当然のことながら重い決断なのだ。
診察室に入ってきた真結は、背筋をまっすぐに伸ばしていた。鎖骨のあたりで、髪がふわりと揺れる。陽介は、真結の後ろから、大きな手でそっと背中を支えていた。女性医師が夫婦に着席を促す。椅子に座るやいなや、真結は前のめりで話し出した。
「私たちの受精卵を、見せて頂けないでしょうか」
「どうしても、見せて頂きたいんです」
お願いします、と夫婦は頭を下げた。女性医師は、驚いたように目を開き、深雪をちらりと見、少し考えて、顔を上げてください、と言った。
「通常は、患者さんに病院の裏側をご案内することはありません。ですが・・・・・・実際にご覧になったうえで、ご決断されたいということですね。お気持ち、伝わりました。それでは、今回は特別に、受精卵をご覧いただきましょう。清沢さん、ご案内をお願いします」
女性医師は、深雪に目で合図をした。
深雪は、うなずいた。
「どうぞ。こちらからお入りください」
診察室の奥にある職員通用口のドアを開ける。ぎい、と音が鳴り、目の前に暗い通路が現れた。少し歩くと、右手に培養室の前室がある。
「ここからは、無菌エリアとなります。大切な胚を細菌などから守るためです。ここで、無塵衣に着替えて、帽子、マスク、手袋を着用の上、エアシャワーを浴びてください」
オールインワンのような、清潔な無塵衣に着替え、帽子、マスク、手袋を着用する。そして、風で微細なホコリを吹き飛ばす。夫婦が支度し終えるのを待って、培養室のドアを開けた。
「こちらです」
光にあふれた清潔な部屋の中には、巨大な白い箱のような装置があった。装置には何十ものモニタが整列するように取り付けられている。深雪はそのモニタの中の一つを指した。
「こちらが、坂井様ご夫婦の受精卵です。今は、分裂が起きないよう、培養条件を調節し、眠っている状態です」
「わあ」
不安げだった真結の顔がぱっと明るくなる。
「きれいだねえ、陽介」
モニタをのぞき込む真結の顔に、陽介が顔を寄せた。
「うん。すごくきれいだ。これが、俺たちの受精卵なんだね」
優しく落ち着いた低い声で、陽介は囁いた。
受精卵は、透明なきらきらとした膜につつまれ、すう、と寝息を立てているように見えた。受精卵の状態について、説明をしようとして気づいた。真結は、泣いていた。
「ほっとしたの。わたし、実際に見たら、この子のこと、どう思っちゃうんだろうって、ずっと不安で・・・・・・だけど、こうやって見ると、すごくきれいで、可愛くて。この子がいつか自分を殺しちゃうなんて、そんなこと、信じられる? 陽介、私、この子を産みたい。何があっても必ず守ってみせる。絶対に守れるって、私、わかるの」
あふれるほどの優しさの中に、決して揺らがぬ芯がある。毅然とした、真結の声であった。
「俺、何でもする。一緒に、この子と生きていこう、真結」
夫婦は、両手で互いの肩を抱きながら、まるで同じ顔になり、泣き笑いしていた。母親になる覚悟を決めた真結の笑顔が、いつまでも見ていたいほどに、ただ、美しかった。
***
この受精卵は、どのような人になるのだろうか。きっと、両親の愛情を一身に受け、まっすぐにすくすくと育つだろう。SUICIDAL1がその人生に影を落としそうになった時、きっと彼らなら、この子を支えることができる。それでも、もし、悪しき遺伝子が、この子を直樹のように、死へと手招きしてしまったら・・・・・・その時私は、今度こそHEAL13を持つ者として、この子に関わり、この子を生へと引き戻そう。このきらきらと輝く受精卵は、ひと時でも私のもとに訪れ、私を「第二のお母さん」にしてくれたのだから。
直樹。私、この仕事頑張るよ。たくさんの受精卵たちが、まるで直樹と私の赤ちゃんのように思えて、とても愛しいの。いつか、直樹の魂が受精卵に宿って、戻ってきてくれるって、信じてるから。
最初の分裂が、始まった。
おめでとう。素晴らしい人生を。
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本作品は、第9回星新一賞応募・落選作です。
発生学が大好きで、ショートショートにしてみたくて、
わくわくしながら書きあげた、小説初挑戦作です。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。