ステイ|江川 知弘さまのための小説|企画【あなたのための短編小説、書きます】
こんばんは、樹立夏です。
私設企画【あなたのための短編小説、書きます】season2第二弾、江川 知弘さまからご紹介いただいたコラムを原案として、小説を作りました。
原案とさせていただきました、江川さまのコラムはこちらです↓
それでは、本編をどうぞ!
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題:ステイ
誰もいない部屋のドアを開ける。
闇の冷たさに、また心が一重、凍りつく。
床に置いた間接照明だけを灯して、ソファに倒れ込んだ。
今日も、なんとか生き抜いた。
ふうっと息を吐き、壁の時計を眺める。
深夜。何も食べていないのに、食欲がない。
生きていくためには、お金が必要だ。けれど、お金を稼ぐことで、生きていられる残り時間がどんどん減っていくような気がする。矛盾している。
ふと、心の部屋をノックする音に気付く。
僕の心の中にいつもいてくれる「彼」が、助けに来てくれたのだ。
寒い。毛布を頭からかぶる。壁に投影されたプロジェクターの光が、網膜に焼き付く。さあ、最初から始めよう。何度でも、何度でも。「彼」との冒険の物語を。
最初に「彼」と出会った時、僕はまだ子供で、自己主張があまり得意ではなかった。僕のイニシャルは、「彼」の名前と同じ。残酷な子供たちは、僕をからかい、馬鹿にした。「彼」が奇妙な見た目をしていたせいだ。「彼」のせいで馬鹿にされた僕は、「彼」を憎んでさえいた。馬鹿にされる度に、泣きそうになって空を仰いだ。ほら、空はどこまでも青いけれど、宇宙船なんてどこにも見当たらない。見えないものは、存在しないんだ。以来、「彼」の名は僕のタブーとなった。
大人になると、誰もが、社会という巨大な怪物を動かすための歯車となる。自分は歯車なんかじゃないと主張する人もいるだろう。けれど、否。すべての人が、その行動が、それぞれ微細な動力となり、社会を動かしている。ゆったりと動く歯車もあれば、近隣の歯車とひしめき合い、軋みながら動かなくてはならない歯車もある。僕は、後者だ。仕事でも、私生活でも、なにひとつうまくいかなかった。このままでは、僕という歯車は、押しつぶされ壊れてしまうだろう。けれど、僕が壊れたら、すぐに代わりの歯車が現れる。僕の存在なんて、はじめからなかったかのように、歯車は動き始める。社会という怪物は、僕が壊れてしまっても、変わらず生きていく。息を吸って、吐き、次々と人間を喰い続ける。
会社を飛び出した。仕事なんか、どうなってもいい。僕の命よりも大切な仕事なんて、存在するわけないじゃないか。昼間の街を歩くのは、ずいぶん久しぶりだ。もう、何もかも、どうでもいい。そうだ、映画を観に行こう。何を上映しているのかを調べることすらせずに、僕は、映画館に飛び込んだ。ポップコーンを買い、さて、どの映画を見ようかと演目を確認する。「彼」がいた。子供のころの苦い思い出がよみがえる。けれど、吸い寄せられるように、僕は「彼」の映画のチケットを買った。
映画の中の「彼」は、やっぱり奇妙な見た目をしていた。初めから、期待はなかった。椅子に深々と埋もれ、ポップコーンを齧る。最近、ほとんど眠れていなかった。けれどここでなら、少しは眠れる気がする。このままここで寝てしまってもいいのかもしれない。
しかし、予想外なことに、僕は、映画に釘付けになった。主人公の少年は、子供のころの僕そのものだった。弱く、傷ついていて、孤独な少年。「彼」との遭遇は、少年の運命を変えた。
優しさ
素直さ
純粋さ
賢さ
温かさ
ストーリーは進む。僕は、泣いていた。大粒の温かい涙が、次々と頬を伝う。子供の頃の、孤独な日々。家にも学校にも、居場所なんてなかった。それでも、必死に生き抜いてきた。何のために? その問いそのものがナンセンスだ。僕は、ただ、生きるためだけに、生き抜いてきたのだ。
『カム』
ラストシーンで、「彼」は少年を宇宙へと誘う。少年が、これ以上、地球で苦しむことがないように。
少年は答える。
『ステイ』
少年は、「彼」と共に、宇宙に逃げることを選ばなかった。
僕がこれまで辿ってきた、石だらけの荒れた道。僕の前に続く、まだ見えない、霧の道。僕は、僕の道を降りようとしていた。
『アウチ』
映画館で、ぐしゃぐしゃに泣いた。
そしてその夜、僕は久しぶりに、ぐっすりと眠った。
夢の中に、「彼」が出てきた。朝、「彼」が夢の中から去るとき、半分だけ覚醒した状態で、僕は、僕自身の人生から逃げ出さないことを、「彼」に誓った。
頭からかぶった毛布を握りしめる。
彼は言う。いつものように。
「カム」
僕は、呟く。
「ステイ」
やっぱり、僕は泣いていた。
限界を迎えていた僕の心を、「彼」が、今夜も救ってくれた。
照明を消し、カーテンを開ける。
遠くの地平線まで、街の明かりが、海を照らす夜光虫の光のように続く。
ベランダに出て、夜空を仰ぐ。
子供の時、見えないものは、存在しないのだと自分に言い聞かせた。
けれど、今は。
この夜空の無数の星々のうち、どこかに、「彼」の故郷は、きっとある。きっと、きっとある。いつも僕を助けてくれる、優しくて賢い「彼」は、きっと実在する。
たとえ見えなくても、存在する。
『アイル ビー ライト ヒア』
冷たく湿った夜気を吸い込む。肺が、体が、新しい空気で満たされていく。安心すると、お腹が空いた。
あなたの心の中に、かけがえのない友人はいるだろうか。たとえ自分の人生を降りたくなっても、絶対に諦めないでほしい。あなたを助け、勇気を与えてくれる友人は、必ず、この世界のどこかに存在しているはずだから。
<終>
江川さま、江川さまのための小説、いかがでしたでしょうか?
江川様のコラムを拝読すると、心の中に「かけがえのない心友」をもつことがいかに重要かが分かりました。心友は、人生を救うのですね。そんな心友は、たとえ今傍にいなくとも、まだ出会っていないだけで、この世界のどこかに、確実に実在するのだと、確信いたしました。
江川さまのためだけの小説、という主題に加え、今回は、この物語をお読みくださっている、まだ見ぬ誰かのための小説、とさせていただきたいと思います。江川さまのコラムには、読者様を勇気づけるメッセージが溢れていたからです。そのコラムを原案とさせていただいた以上、私も、読者様へのメッセージを発信する役目があるのだと、僭越ながら思い至りました。
江川知弘さま、この度は、お題を頂き、誠にありがとうございました!