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走れオレ|小説/作:紀まどい

 オレは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の〆切を除かねばならぬと決意した。オレには政治が割とわかる。オレは、しがない政治学徒である。エッセイではシュンペーターだのを引き合いにだしてホラを吹き、ツイッターをこの時期までやっているしょうもない同級生たちと絡んで暮らしてきた。けれども原稿を会誌に載せられないということに対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明オレはこの会誌に私小説を乗せてやろうと企み、野を超え山を越え、十里は離れた過去の記憶を思い起こしていた。
 オレには常識も、空気を読む能力も無かった。恋人も無い。十六の、内気なオレは学校にも行かずに引きこり暮らしだ。このオレは、学校の或る爛漫な一個上の異性の先輩を、近々、恋人とすることで不登校を脱却することに成功した。自他境界線の崩壊も間近かなのである。オレは、それゆえに、先輩の衣裳やら祝宴(ソフトドリンク)のご馳走やらを一緒に楽しみに、はるばる梅田の高校に通っていたのだ。
 しかし先ず、不均衡な関係が安定するはずもなく、一年もすれば独り身に戻って、十八歳、受験勉強も本格化し、茶屋町の大路(笑)を河合塾に向かってぶらぶら通うことになった。
 その頃、オレには竹馬のネ友ができた。セリヌンティウスである。セリヌンティウスは此のネット空間で物書きをやっている。オレも物書きだった。感性もオレとセリヌンティウスは瓜二つ。今のオレに言わせれば、「きっと、男の体に生まれた君が僕で、女の体に生まれた僕が君なんだ」とさえ形容しうるほど、あまりにも正反対で、かつ、あまりにも同じだった。久しく付き合いを続けていると、オレとセリヌンティウスの周りには六名程度のDiscord上の寄り合いができた。
 オレがセリヌンティウスとの表現者としての技量を切磋琢磨を期待していたのと裏腹に、この寄り合いは複雑に相関し、時に肯定し時に否定し合っては互いに表現者として切磋琢磨する、そんな場として完成されていった。日々を暮らすうちにオレは、寄り合いの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既にオレは大学に合格して、リアルの付き合いのためにあまり寄り合いに顔を出せていないからというのはそれはそうだが、けれども、なんだか、顔を出していないせいばかりではなく、オレという人格そのものが、やけに説教をされる。空気の読めないオレも、だんだん不安になって来た。若い衆だの老爺だといった都合のよい第三者を頼って水面下で情報を得るなど(原作とは違って)オレには不可能なので、オレは主にはセリヌンティウスとの通話で状況を把握していた。
 どうやら、オレが十六歳の頃の元恋人のことを引きずるようなことを言うのが、我慢ならないと思われているらしいのだった。寄り合いに集った同世代の表現者たちは、表現をするために自らの生き方そのものを洗練するという超人的な少年少女であった——本当はそうではないのだろうけれども、そうあることのみが正しいことだと信じてさえいた。けれどもオレは、真逆である。オレは単にオレらしい生き方を実現する為の手段として表現をしていた。オレのようにどうしようもない、過去に囚われ、過大な未来を夢想し、〆切ひとつに激怒してしまうような、弱く、間違った、どうしようもない人間が、しかし水面下に確かに持っている正しさ、人間としての尊厳。それを肯定し、弱さを腕に抱くような表現をやりたかった。そんなオレがよく元恋人を引きずるようなことを言ったのは単なる自己開示であった。具体的な改善が、オレの行動ではなく、友人から授けられた一閃の策によってまたたくまに果たされるというようなことを期待していたわけでもない。そもそも、オレが改善したかったのはオレがオレ一人でオレの弱さを抱えているという困窮そのものであって、オレが弱い、という人格の形質ではなかった。そんなありふれた行き違いがあった。
 ——いいや、もっと素直になろう。オレの身の回りにいた寄り合いの彼らは、どうやらなにか「恋愛スキル」のような尺度の中で、オレのことを低く見積もっていた。有り体にいえば、悪意なき、自明視された「マウント」があるらしかった。これはある意味当然のことであった。オレがひとたび苦悩を吐露すれば、みんなはオレになにかアドバイスをしようとするから、オレは苦労せずみんなの思想や行動を知ることができた。オレはみんなのことを知りたかったし、人とのふれあいに飢えていた。だから、みんなのことが知れて、みんなと楽しく雑談することができるのであれば、たとえみんなのマウントの標的としてオレの写像を差し出しても構わなかった。すると、ますます教える側と教えられる側という構造は再確認され、次回にもまた同じような会話をていよく執り行う環境が整う。そんな循環のなかで、「ふだん通りの」コミュニケーションが営まれていた。
 しかし、そんなのは虫のよい話であった。みんなが「表現者たるものは表現活動のために己の人間性を洗練させるべき」という思想に傾倒しつつあり、実際にぶつかり合って愛し合って、各々の思う表現活動を実行していく中、オレのような「ただオレはオレらしく生きたい、表現活動はそのための手段に過ぎない」というスタンスを取り続ける人間は、本質的に、みんなの思想をバカにする存在だった。
 さて、いざ「お前は表現者として死んでいる。なぜならお前はお前自身を改善する気概が無いからだ。お前がお前自身を改善することをしないのであれば、俺はお前を表現者としても人間としても認めない」というようなことを暗にささやかれるような段階に至ると、オレは寄り合いのDiscordにそもそもあまり行きたくなくなってしまった。互いに対する不信感、猜疑心はますます深まっていく。オレと彼らとの接点はもはやセリヌンティウスのみだった。いつしかオレは、彼らと僕とのクロス・ポイントにセリヌンティウスを磔けていた。
 あるとき、ひとつのトラブルが起きた。今にして思えばよくわからないことがきっかけで、オレはそのトラブルの引き金になってしまった。
 最後に通話をしたときは、そんな一件をセリヌンティウスに謝罪することから始まった。
 オレの軽率な行動の原因は、今にして思えば、オレの恐れ——セリヌンティウスの位置とオレの位置が離れていってしまうという恐れ——に起因していた。
 オレはセリヌンティウスにこんな提案をした。
「もはや『人間的に』『気持ち的に』彼らと仲良くすることは不可能なようだ。この際、オレはみんなとの温かみのある絡みをもはや諦める。だから、あのDiscordではオレは、単に同業の表現者として、協力し合える折に協力し合うようなビジネスライクな関係を模索したい」と。
 セリヌンティウスは応えて曰く「まず、君の表現のためには君の弱さが必要だというのを、僕は肯定する。だから僕は、君に強くなってほしいとは要求しない。僕が納得いかないのは、君の弱さという君の強みを守るために、君は表現者として、みんなと喧嘩してでも向き合って、君の尊厳を守るべきだったということだ。そこから君は逃げた。それが僕には、君が僕をバカにしているように思えてならないんだ。僕も君と同じく、自分が自分らしく生きていくために表現をしている。だが僕は逃げずに彼らと向き合ってきた。それは僕が彼らのことが好きだからだ。彼らも僕のことが好きで、その逃れられない人間的な呪縛と、僕が僕のことを守りたいという信念とが激しくぶつかり合う。それを僕は受け入れて、赤裸々に戦ってきたつもりだ。なのに君はそれをしない。超越者を気取った目線で、僕らのやっている戦いから逃れて、独りで結論を出して一方的に僕に告げてくる。それが僕は我慢ならない。君は僕から離れてしまうのかも知れない。それは止められないのかも知れない。しかし僕は——人間らしい僕の感情は、それを受け入れられない。だから僕は君のことを引き留めるし、ビジネスライクな関係なんてのも認めない。君は、彼らともう一度話し合うしかないんだよ」と。
 それはセリヌンティウスの自己開示だった。オレがやっていた自己開示とは比べ物にならないほど素直で、切実で、誠実な自己開示だった。
 それは同時に、オレがほのかに抱いていた期待への、死亡宣告だった。
「……オレは、その領域ですら弱い。そうやって衝突してでも彼らと仲良くし続けるだけの価値を、オレは彼らとの関係の中に感じていない。いまオレがリアルやネットで取り組んでいるいろいろな活動に、甚大に差し障るようなメンタル的なダメージが懸念される。だから、オレは彼らと喧嘩できない。ビジネスライクな関係を提案したのは、せめてもの折衷案としてだ。彼らがオレを、友人同士の付き合いの中では尊厳ある人間として認めないとしても、いつかオレが表現者や活動者として成功を収めた時、その成功でもって問答無用に彼らを納得せしめれば、オレはもうそれでいい」
 すると次のセリヌンティウスの言は「じゃあ、もういいんじゃない」だった。通話は強制的に切られた。
 オレの指は走った。オレの指は沈みゆくメンタルの何倍も早く、破裂しそうな心拍の何倍も早く、画面を、キーボードを、マウスパッドを蹴って、走った。ブロック、ブロック、ミュート、ブロック、フォロー解除、ミュート、Discordサーバーから退出。ひっきりなしにかかってくるかつての友からの通話も流れ作業的に切り続け、らちがあかなくなって、彼もブロック。ツイートも削除、削除、削除。全ての繋がりを抹消。
 そうしてオレは、また独りになった。
 その日からオレは走った。オレはオレの年輪が重なっていくのの何倍も何十倍も早く、オレの人生を走り抜けていった。創作者仲間の寄り合い所帯から抜けたということは、別に有名創作者というわけでもないオレは今、なにか表現物を発表したときに反応をくれる人間をごっそり失ったということだ。なら、オレ自身が「目立つ」活動を実行して、オレ自身が、オレ自身の実力で顧客を獲得するほかない。オレは走った。オレは持てる人付き合いの全てを使って、やれそうなことをなんでもやった。セリヌンティウスと決裂してから五日後の六月十一日、オレはツイキャスで「これからやること」を一度にまとめて宣言した。狭い界隈で評価された。それからもオレは走り続けた。「これからやること」のうち、できなかったことも多かったが、できたことも多かった。夏休みになるとオレは大学の先輩の劇団に入って稽古に通いながら、自民党の衆議院議員の地元事務所にインターンをするようになった。夏休みが明けるとインターン過程を修了し、劇団の公演も完了。オレはまだ走り続けた。オレは十一月になると同級生らと「総合表現サークル」を設立した。それは、表現らしいことをやりたいという人間が、ビジネスライクに「場」に集いながら、その場にある複数の企画小集団のなかに人間的なあたたかなつながりを見出したり見出さなかったりして、真の意味で、メンバー個々人が「やりたいこと」を選択的にやれる空間を目指してオレが仲間たちと構想したものだった。一月にはサークルから小説を発表し、二月には社会人劇団の舞台に客演で出、三月には好きな作家のためにオマージュ小説を書いて自分で朗読し、四月には先輩の劇団で女子大生の役をやった。五月には学部の自治会で学園祭を運営した。そして六月。セリヌンティウスと喧嘩別れをしてちょうど一年が経ったころオレは、はたり一ヶ月遅い五月病に倒れた。


 ——きっと、男の体に生まれた君が僕で、女の体に生まれた僕が君なんだ。
 
「え?」
 夏の昼下がり、東梅田のなんでもない居酒屋の中で、僕はセンパイに変な会話のパスを出す。
「——って言いたくなるようなひとと出逢ってしまったら、センパイは、正気を保っていられますか?」
「えー、いないですよーそんなひと。紀さんには居るんですか?」
「……はい」
 自覚するのは、愕然とするような、会話スキルの差。まつげのふれる速度に、息を吸って吐くタイミングに、萌え袖がハイボールのつめたいタンブラーを取りにいく所作に、重ねられた経験が滲み出ている。
 会ったことのない人と、ネットで連絡をとっておち合って遊ぶ、ということをはじめてやっている。昨日まで役者と観客、あるいは読者と作家というふうであったセンパイと僕との関係が、急速に、友人と友人という相関に収束していく。その運動エネルギーをこのひとはいとも容易く乗りこなしていた。
 瑞々しいコミュ力。僕もレモンサワーに手を伸ばす。
「……いま『した』。いましたね」
「過去形?」
 なにひとつ、上等なことはない。ただお酒の入った大学二回生と役者年齢不詳が、自己開示をしあうだけの空間。それしか僕には提供できない。厚いサワーの喉越しは、あまり余計なことを考えないようにするためのセーフティーとして僕に働きかけた。
「そうです。喧嘩別れしちゃって」
「えー、じゃあ今は?」
「会ってすらないっす。そもそもネ友なんで会うこと自体なかったですけど」
 小さな嘘をついた。一度だけある。
 ——それは大学一回生のゴールデンウィーク。『寄り合い』のメンツで東京は渋谷に各々合流し、三日ほど過ごした。
 初日、カラオケに集まった僕らの中に、カンザキイオリの「ハグ」を歌った奴がいた。すると、どういうときに、どういうひとと、どういう目的で僕らはハグをするのだろう、というような話になった。僕が沈黙していると、
「! ……?」
 控えめに腕をひろげて、しかし躊躇しているわけでもないひょうきんな顔をして、僕のほうを見ていた。霹靂だった。そんなことが許されるのか? 僕はどんな感情でいるのが正解なのか? わからない。わからなくて、怖くて、逃げ出したくすらあった。だがこれは僕の悪い癖で、「今やらないともうできなくなる」と思ったことは、やっておかないと気が済まない。僕は恐る恐る近づき、広がった腕に上から僕の腕を通した。
 僕の脳内では七秒ほどが経った。居た堪れなくなった僕は、とんとん、と相手の肩をたたいた。あたかも相手を慈しむかのように。それはしかし、慈しみでは決してなかった。「君が僕を慰めるハグではなく、僕が君を慰めるハグなのだ」という、ある種の威嚇だった。
 少し不満げに、何かを言いながら僕から離れる相手。何を言っていたのか、残念ながら僕は覚えていない。
 ——しかしその一回を除いて「そのひと」とは対面で会ったことはなかった。言うなれば、いま目の前にいるこの枝豆をついばんでいるセンパイのほうが、舞台で役者として目撃したりしているだけ、まだ「会ったことがある」人なのかもしれない。
「へー。でも、そのひとがそんな、運命の人みたいなひとだったんですか?」
「まあ。……今はなんというか、ライバルっていうか、お互いに話してははいないんですけど……」
 あっ。しまった。余計なことを言った。
「えー! なんか、いいですねっ。そういうの」
 よくはない。
 僕は、これを上等なものであるなどとは決して認めたくはない。
「なんか、惚気を聞いたみたい笑」
 なにひとつ、上等なことはない。


 大学二回生の六月。四限にも間に合わない時間に目覚め、自治会の用事すらすっぽかしたオレは絶望していた。ゴミの散乱したベッドから起き上がることもままならないまま夕方の漏れ陽を浴びている。
 このベッドで昔発生したことを思い出す。
 ——セリヌンティウスと離別して二ヶ月、オレの十九歳の誕生日が間近に迫った八月一日。どういうわけか、セリヌンティウスから電話がかかってきた。オレは、びっくりするより嬉しいの方が先に来て、そのあとにびっくりして、ベッドに横たわったまま通話を受けた。
 いろいろな話をした。たとえば、オレがカラオケでのハグを拒んだときのこと。その手の動きがとても気に食わなかった、とセリヌンティウスは言った。じゃあどうすればよかったのか? ——とは聞けなかった。それは、オレがオレの感情を制御できておらず、そのくせ中途半端な制御のみをしていたという、不誠実の証だからだ。なんの不可解もなくて、なんの言い訳もなかった。
 けれども、そのときのセリヌンティウスの語り口は、オレのことを責めようというものではなかった。むしろ会話を楽しんでいるかのようにすら感じられた。
「今テンションバグって電話かけただけだから、明日には僕は忘れていると思うんだけど」
 セリヌンティウスはそう言って、いろいろなことを教えてくれた。あの寄り合いが今も続いていること。オレがその寄り合いを中心とした界隈から飛び出したのを、いろいろなひとが、いろいろに受け止めたこと。オレが寄り合いにいたときに、オレが裏で囁かれていた陰口。
「まあ……。あんたのこととやかく言えないくらい、僕らもクズだよ」
「そっか」、とだけ言った。
 ひとしきりオレと話して満足した(オレと話すことが大事だったのか、バグったテンションをぶつける先としてオレが最適だっただけなのかは定かではないが)セリヌンティウスは「あんたがまた僕に泣きついてくるまで、せいぜい足掻くことだな」などというようなことを言って通話は終わった。
 それからしばらくして、三月。オレがカンザキイオリのためのオマージュ小説をあらかた完成させた頃である。ふとセリヌンティウスのツイッターを覗いた。すると、今まで浪人していたセリヌンティウスが、美大に合格していたことがわかった。
 なんとなく、セリヌンティウスに「おめでとう」とだけDMを送った。
「すぐ追いつくし追い越す」
 それがセリヌンティウスの返信だった。——以降、オレとセリヌンティウスはなんの意思疎通もしていない。
 「追いつく」ということは、少なくともセリヌンティウスはオレの実績を「先に進んだもの」として認めているということだ。まずもってその高評価が単に活動者として嬉しい。
 しかしそれより何より嬉しかったのは「追い越す」という言葉だった。
 オレはあの日以来、あの寄り合いの中にいた表現者たちの動向を強く意識していた。彼らに負けないように、彼らの鼻をあかせるように。そう念じることが、走るオレの背をあおる鮮烈な追い風になっていた。今、この「追いつくし追い越す」というメッセージによって明らかになったのは、オレがそのようであった如く、セリヌンティウスの側もまた対抗心をオレに燃やしているということだった。
 深夜三時、スマホを投げた。飛び跳ねるほどに嬉しかった。相思相愛などという言葉では陳腐である。この瞬間に、新たに完成されたこの関係を、オレはつい肯定したくさえなった。オレはどうしても美化したくなどはないオレたちの歴史から、どうしても逃れられないことを悟ったのである。
 オレは今も、逃れられないでいる。
 その日と同じベッドでうずくまるたび、ほのかに燃える何かを、オレはここまで連れてきたのである。


  過去の痛みは全部消えない
  敵だって消えるわけじゃない
  わだかまりを抱えて生きて
  そして美しく散っていけばいい
 
 インストがカラオケボックスに響く。僕の歌う歌詞を、センパイはアルコール片手に眺めていた。
 
  揺れて溢れ落ちた花のように
 
  しきたりなんかはいらない
  世間体も忘れ去った
  花束を持って君の元へ
  それだけでいいんだ
 
 曲が終わる。普段なら僕はカラオケでは絶対に精密採点を入れる。だから今にも「花女/花譜 作詞・作曲/カンザキイオリ」というテロップに続き、軽快な採点BGMが流れてくるはずだ。しかし何も起きない。
 今日、僕は採点ナシカラオケというのを初めてやった。意外といいものだった。
「これがカンザキイオリです」
「なんか、小説家みたいだね」
 いつのまにか敬語のとれたセンパイが、しっかりと考えたのであろう返事をする。入室してから一時間と四十五分ほどが経っていて、もうそろそろ退出しなければいけなかった。センパイが一曲短いのを歌って、僕はカンザキイオリの「命に嫌われている」を歌って(今にして思えば、このときの僕はあまりにも自己開示に抵抗がなさすぎる)、荷物をまとめていた。
「まあ、」
 カバンを持ったセンパイが僕を指差して、
「あんまり思いつめなさるなよ」
 と言った。
 
 別に心配されるためにカンザキイオリを歌ったんじゃないんだけどなあ。
 階段を降りながら、そんなことを考えていた。
 自己開示にはそれそのものに救いがあるかのような感じがある。自己開示をできる機会や相手は貴重なものだし、自己開示をすると心地良くなる。僕はただそれだけのことで、カンザキイオリを歌った。
 いいや、もっと素直に考えよう。僕はきっと「お近づきのしるし」としてカンザキイオリを歌っていた。
 センパイが歌う曲の多くは「強い女だと言われがちだけど、私は一人で生きていける人じゃないのよ」と自分の弱さを暴露するかのような歌詞をしていた。売り詞に買い詞。僕も、僕の普段晒さないような弱さを晒そう、と、そんな打算的な意識でカンザキイオリを歌った。いわば野生動物の鳴き声の応報。その目的は、僕がカンザキイオリを歌った、その事実だけで達成されていた。
 そんなところに、返ってくるとは思わなかった反応が返ってきたので、僕はびっくりしてしまった。
 心配されるためにカンザキイオリを歌ったのではない。それではあたかも僕はメンヘラだ。——いいや、メンヘラというのは妙な言葉で、ある意味、僕ほどのメンヘラはなかなかいないのだけれども。僕は、救難信号のために推しの歌を歌うようなしぐさをできるほど、賢明なメンヘラでは少なくともないのだ。陰湿で、誰にも相談しない、一人で抱えて、ただ小説の中に全てをぶつけることしかしない、実は潜在的に一番面倒臭い種類の大学生。それが僕。
 しかし、やはりなんだか救われたような感もあった。
「あんまり思いつめなさるなよ」
 そんな単純で、変なネット広告とか、癒し系シチュエーションボイスとかで何回でも聞いたことのあるそのセリフ。それが、ただ生身の人間に面と向かって言われたというだけで、無視できない「救われた感」をもった。
 なんだ? やっぱり僕は、心配されたくてカンザキイオリを歌ってたっていうのか?
 結論は出ないまま、会計を終え、カラオケ店を後にした。
 梅田駅まで雑談しながら歩く道中。
 僕は、いろいろなことを考える。
 僕は—— 
 ——オレは、いろいろなことを考える。
 オレは激怒した! ——何に?
 ここまで書き上げたオレにとっては簡単な問いだ。オレは激怒した。オレは、セリヌンティウスがこの小説を読む可能性を考え、忖度しながら書こうとした。結果遅々として筆が進まなかった。みじめな様を深夜三時に晒す、そんなオレ自身に激怒した。その執着に、その臆病に、その覚悟のなさに、軽薄さに、実行力のなさに、虚栄に、自惚れに激怒した。かの邪智暴虐のオレ自身を除かねばならぬと決意した。オレには私小説がわからぬ! オレはダメ筆者である。オリジナルの短編小説を書き、身内と遊んで暮らしてきた。けれどもオレを焚きつける過去の記憶と向き合うことに関しては、せめて、人一倍に敏感でありたい。
 オレは信じられている。オレのこれまでとこれからの成長に向けて、対抗心だったり、手助けだったり、応援だったりの投資をしてくれたすべての身の回りの人々に、信じられている。死んでお詫びなどと気のいいことは言って居られぬ。オレは、信頼に報いなければならぬ。そして、オレ自身もまたオレを信頼しなければならぬのだ! 走れ! オレ。
「あ、そうだ。言うの忘れてた」
 こつりコンクリートに足音、それを人混みが掻消す。地下鉄の改札口で、別れ際、センパイは振り向いて告げた。声は掻き消えなかった。
「誕生日おめでとう、青年。遅くなったけど笑」
 走りこんでくる列車の風が、僕の耳にふいた。


作:紀まどい

この作品は、総合表現サークル“P.Name”会誌「P.ink」学祭号に収録されています。

今年1月3日から1月7日の間、学祭号書き下ろし作品を順次投稿しています。


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