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笑われても思い続けた将来の夢

想像していなかった未来

今回はマイナビ公式さんが募集している #想像してなかった未来 について書いていきたいと思います。

このnoteに記事を書いていこうと思ったのは、自分の夢を叶えた10年間が誰かの夢の背中を押す手助けになればと思ったからです。


本気と思われていなかった

幼い頃、どこかの忍者ショーを目の当たりにして夢が芽生えました。

「あの人になりたい」

覆面で顔も出ていない、真っ黒な塊の様な忍者。
それがいつまで経っても頭から消えなかったんです。
子供の将来の夢ってコロコロ変わるイメージがありますよね。
私も親もその1つだと思ってました。
でも、ビックリするくらい自分の中の「忍者」という存在が大き過ぎました。

水戸黄門などの時代劇がまだテレビで頻繁に放映されていた頃、【】という物がまず魅力的でした。
忍者が使う武器として。
なぜか手裏剣や苦無には魅力を感じていなかったんですよね。
未だにその理由は分かりません。

太秦の映画村に連れて行ってもらった時は、家族と別行動をしてでも忍者ショーを観に劇場に入ったり、寺子屋の様な劇場に入ったり、刀が売っているショップに居座ったりと、1人行動しても親がすぐに見つけれるくらい目的がハッキリしていました。

もちろん刀を買ってもらう事は出来なかったので、家では新聞紙を使って刀を作ったり、忍者衣装を作ったり、とにかく自作の忍者装束を何度も改良して作っていました。

それでも周りは、女の子が忍者になるなんてあり得ないと言わんばかりの反応で、私の言動はサラッと流されていました。

そんな感じだったので、自分でも私が忍者になる事は無理だと決めつけていました。


別の将来の夢を無理矢理探す

忍者になるという無謀な夢を口にする事は小学校高学年くらいの時から言わなくなっていたと思います。
心の中では諦めきれていなかったので、相変わらず忍者に関する物が好きでしたが。

とはいえ、やはり子供に付きまとう周りからの「将来の夢は何?」という質問。
これに答える為に何か決めなければいけないのかとストレスに感じていました。

この辺りから人とコミュニケーションを取るのを苦手と感じていたかもしれないです。
私の気持ちなんて誰も分からないんだから、いちいち聞かないで欲しい。立ち入らないで欲しい。
そんな感じでしたね。

家族以外は敵とさえ感じていました。
表向きは笑顔を作るけど、心の中では怒りに満ち溢れ、早くこの場から立ち去りたい、家に帰って1人になりたい、話しかけないでほしい。
そんな子供時代でした。

それでも学校は行かなければいけないと通っていましたが、付きまとう「将来の夢」質問。
無理矢理書いていたのは、白ごはんが好きだからおにぎり屋さんとか、お寿司屋さんとか、適当なことを言っていました。

でも、高校の時はそんな適度な事を言ってる場合じゃなくなりますよね。

忍者という夢は消えていなかったけど、現実的に考えれば何か仕事をしなければいけない。
でも、自分が好きな事と言われても忍者以外に何があるのか分からない。

行き着いた結果が、部屋の模様替えが好きだったので、インテリア系。
尚且つ、パソコンを触る事も好きだったのでパソコンの仕事。
あとは手に職をつける仕事。
これを組み合わせた結果、建築士という結論に行き着いた訳です。


自分の気持ちを押し殺した期間

大学などの四年制は自分には無駄な時間の様に思えて、短期間で知識を得て仕事に就ける場所=専門学校と思い、2年制の建築の専門学校に行きました。

忍者などという言葉は一切言わずに、音楽を楽しむ事にして、ギターを少し嗜んでいたのでバンドを組んでみました。
担当楽器はドラム。
叩いてみたかったというのと、前に出ずにステージの後方になる事がほとんどだと思ったので。
ここでもあまり人前に出る事を好んで居なかったんですよね。
でも、このバンド経験がかなり大きなきっかけになりました。

ライブイベントに参加したり、自分たちでライブイベントを計画して開催したり。
ステージを作るというエンタメの世界に触れる事が出来たからです。


大きな出会い

そして、ここで大きな出会いだったのが星野源さん
ドラマで見かけたのがきっかけで、どっぷりハマりました。
役者としては劇団員。音楽家としてはインディーズ。しかもインストバンドとソロ活動。
役者と音楽家という2つの顔を持っていた事で、星野源さんのライブに行ったり、出演舞台に行ったりと、音楽ライブと舞台観劇の2種類に一気に触れる事が出来ました。

ここで再び舞台というものに魅力を感じる様になりました。

建築の専門学校に行っていたという事もあって、舞台設計に興味を持ちました。
本当は忍者として舞台に立ちたかったですが、そこは気持ちを押し殺して。

しかし、まだ心の殻は破けきれて居なかったので舞台設計の方に進まずに、安牌な道を選び、地元の設計事務所に就職しました。


つまらない人生と思ってしまった

仕事を始めて半年。
ずっと地元から出ずに仕事場と家の往復で誰とも出会わず、同じような日々を過ごすのか。と考える様になりました。

もちろん、人とコミュニケーションを取るのは好きでは無いが、何の刺激もないこの生活は流石につまらない。と思って来たので、刺激を求めて何か習い事をしようと考え始めました。

そこで殺陣教室という結論が出たんです。
しかも、誰にも相談せずに体験教室を予約して、体験に行く前日に親に話しました。
事後報告です。
でも、交通費や教室の費用は自分の収入で賄えるという説明を提示して親は好きにさせてくれました。


はじめは教室に通うだけと思ってた

もちろん、まだ本気で忍者になるつもりはありませんでした。
食べていけると思って無かったので。

教室に通いながら、イベントステージ用の衣装としての着物や袴を購入し、自分用の竹光が欲しくなって購入したり。

イベントに親が来る事はありませんでしたが、ずっと言い続けていた「忍者になりたい」という夢の一部を叶えている私をずっと応援してくれていました。

そして、講師から研修生の話が出た時に親に相談しました。

30歳までやらせてほしい

父はやるならしっかりご飯を食べろ。と。
母はアンタはいつも親を説得する要素を用意してからの事後報告だから、自分で決めたならやればいい。と。

そこで挑戦が始まりました。


遂に忍者という夢を表に出す

劇団の舞台のお手伝いから始まり、脇役での出演、イベントステージへの参加など、仕事に少しずつ影響が出てくるように。

私は本気で忍者になりたかったので、女役は一切して来ませんでした。
最初から引退まで。
なので、劇団でも女子チームではなく男子チームに混ざっていたり、男女同じ事をするシーンでも男性の衣装を着たり。
とにかく男性として扱ってもらいました。
これが本当に大きかった。

地元から通うのが難しくなって来た頃、一人暮らしをする為、建築の仕事をやめました。

仕事を辞める前、自分が主演を務めた新人公演に建築事務所の所長が舞台を見に来てくれました。
花までくれて、夢を応援してくれる良き仕事場でした。

一人暮らしをする為、新天地ではスーパーの早朝バイトをしたり、派遣バイトをしたり。
でも、やはり苦しかったのでたまに母親に支援してもらっていました。

所属劇団が初めて北海道の時代村と連携する事になった時、忍者として派遣する劇団員として第一号に選んでもらい、単身で北海道に行きました。

毎日ステージがあり、朝から夕方まで忍者として過ごす環境が物凄く魅力的で、これがやりたかったと初めて夢が叶った瞬間でした。

親も初めての北海道の地に足を運んで観に来てくれて、忍者として舞台に立つ私の姿を誰よりも喜んでくれました。
北海道で忍者としての技術を磨き、身体もひと回り大きくなって帰って来ました。

自信をつけた自分は多分、行動や仕草も自信に満ち溢れていて、堂々たる忍者としての立ち振る舞いをしていたんだと思います。
周りからは一気に成長したという声をもらい、自信を持つ事は出来ましたが、女が故に慢心すれば直ぐに身体は衰退すると思っていました。

誰にも負けない「ザ・忍者」を目指すには、キープではなく更に研究する必要があると感じていました。
そこで、動きや技術ではなく知識を得る事にしました。
忍者とは何なのかをここで初めて勉強します。
ザックリとは知っていましたが、深掘りです。


体調を崩す

忙しく劇団員としての生活を送っていましたが、遂に無理がたって倒れてしまいました。

救急車で運ばれて、途端に全てのやる気を無くしました。

1週間ほど、外にも出ず、誰とも連絡を取らず、家にあった米と鶏肉だけで過ごしました。

そして思いました。
劇団を辞めようと。

忍者は続けたいけど、劇団員としてはもう無理だと。
とりあえず今の自分は人脈も無いし、劇団を辞めれば忍者は続けれないと思っていました。
でも、健康第一だと思い、辞める事を決意。

ひとまず、北海道の時代村に期間限定でもう一度行きたいと声をかけて、2ヶ月だけ再度北海道に行きました。

お陰様で体も心もまだ忍者がやりたいという事を再確認出来ました。

帰って来てからはスポーツジムのバイトをしながら、知り合いにお誘いをもらって舞台照明や少しの殺陣付けをするバイトをしていました。

家賃を払うのが辛くなって来たので、地元に戻って少しエンタメの世界から離れる事にしました。
地元のスポーツジムにバイト先を変えて。

そして関わりが少なかった先輩からの突然のDM。

伊勢の時代村で忍者をしないか

これが第二の忍者人生でした。


最後の地

伊勢に来た時、直感で「ここが自分の忍者人生最後の地だ」と思いました。

最初は期間限定ステージの忍者ショーに。
そして常設劇場の忍者ショーへ。

コロナ禍になり、収入がゼロになっても外に出かける事はなく、寮生活をさせてくれたので食費以外の出費はなく。
施設の修繕という項目で仕事を作ってくれた時代村のおかげで、生活が大変だと感じる事なく乗り越える事が出来ました。
同じ境遇の仲間が身近に居るという安心感もあり、村の人達は家族の様になって、自然と稽古も積極的にアドバイスするようになりコミュニケーションを取れる様に。

営業再開後には新演目のメイン役をさせてもらったりと、どんどん忍者劇場の一員として認めてもらえるようになり、新人さんへのアドバイスも行うようになりました。

女性とはいえ、忍者としての姿をしっかりと続けていれば、性別関係なく先輩後輩としてのコミュニケーションを取る事が出来ました。

そして、人生の伴侶とも出会いました。
昔は恋愛なんて自分には関係のないものと思っていたのですが、舞台に立つ事で感情を表に出す事を学ぶ内に自分の気持ちを感じて伝える事ができる様になっていました。

家族も私が結婚する事がかなりの驚きだったと言ってました。笑
それくらい自分の人生の中で必要のない物と思って生きて来てました。

そして引退を決意した時に思い出しました。
初めて忍者がかっこいいと思った場所って、ココなのでは?と。
親に確認すると、確かに太秦よりも先に伊勢の時代村に来た事があると。

伊勢に来た時に感じた「ここが最後の地」というのは、「ここが始まりの地」でもあったのかなと、運命を感じました。

綺麗に収まり過ぎて怖いくらいの運命ですが、20年以上思い続けた「忍者」という存在は、ここまでの自分の生きる糧になり、この先も生きていく糧を得る為に必要な夢だったと思います。


まとめ

年齢も31歳になり、10年という節目も迎えたタイミングで引退する事にしました。
建築の仕事に戻るには、あまり遅いと戻れなくなるという不安があったからです。
元々建築に戻る前提でした。

夢を応援してくれて自由にさせてくれた親に、専門学校まで行かせてくれた親に、少しでも安心してもらいたい。
これが自分なりの親孝行です。

まさか本当に忍者として生きる事が出来るなんて、心を閉ざしていた小学校時代の自分には想像できなかった未来。

人前に立つ事も、1人で新しい環境に飛び込む事も、そして怒り以外の感情を心の底から表に出せる楽しさも、これまで出会った人たちと黙って見守ってくれた家族のお陰で新たな世界を見る事が出来ました。

次のステージで新たな世界を見るために、また無謀な夢を見てみようと思います。

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