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芸術作品が子供みたいなものだっていうアーティストへの疑問
芸術作品は子供みたいなものだっていうアーティストがけっこういます。
加えて、何年たっても作品が残って欲しいと言います。
この言葉、ずっと引っかかってました。
子供って育てるの大切に育てようと思えば、手をかけられるし放任でもいいのだから、なんで子供みたいなものだとかいうんだろ。
かっこつけているのかな?なんて思っていました。
生みの苦しみが〜なんて言ってね。
哲学者 竹田青嗣の『欲望論』にて、芸術についての本を読み、
これが答えかしら?なんて思いました。
芸術の捉え方にキーがあるようです。
まず歴史的に死ぬほどざっくり分けると
① 芸術は本体があるとされている
②相対主義的芸術論
そして③竹田の芸術論
があります。
① 芸術は本体があるとされている
本体、簡単に言えば真理ですね。
これが芸術にはあると考えられてきました。
例えばカントは「芸術の与える感銘の本質は、神のみが造り出しうる自然の形象の驚くべき美(合目的性)を、特別の才に恵まれることで人間も創出しうることへの驚きであり、それゆえ天才のみが芸術の担い手である——。カントのこの見解は、芸術とは神の業の人間的模倣であり、それ自体が一つの賜物であるという観念に支えられている。」
カントは、芸術は神の業の模倣と考えたのです。
そのあとは、相対主義的芸術論がでてきます。
②相対主義的芸術論
「現代の芸術論の舞台は、「テクストに虚心に耳を傾けよ、「真理」が君の耳に届くまで」という形而上学的芸術的司祭たちの教説と、「テクストからどんなものも好き勝手に解釈することができる」という知的相対主義の僧侶たちとで、足の踏み場もないほど混雑をきわめている。」
人の解釈によるじゃん芸術なんて〜という主張ですね。
③竹田の芸術論
「芸術作品がまず存在し、その後に、その卓越性、真正性の判定についての批評のゲームが現われるのではない。ある創作物から何かを感じ取ったものがそれについて語り、これについての異なった語りの多数性が現われることで批評のゲームがはじまり、この批評のゲーム、すなわち作品が与える感銘の卓越性や優劣をめぐる言説のゲームの中で、あるものが「芸術作品」と呼ばれる。このゲームの関係的集合性が芸術というジャンルを形成する。」
作品があって、それに感動した人が話して、批評が始まります。
「こうしていまや、芸術作品の起源が理念、絶対者、理、存在といったものに還元されえないことは明らかである。これが真の作品であるという個々「確言」の集合性が芸術作品を生み出し、芸術的価値なるものを集合的信憑として生み出す。あるいは、これこそ「真の作品」であるという批評、この判定についてのせめぎあい、そこから現われる間主観的な信憑だけが「芸術」を生み出すのである。」
いろんな人の言葉で芸術というものが決定される構図です。
おそらく子供みたいなものだというアーティストはカンティアンなのかもしれません。
自分が神の存在となり、作品=こどもを作る。
という意識なのやも。
岡本太郎が、子供なんて他の人に産ませておけばいい。
わたしはより難しいものを作っているんだ。
と言っていましたが、これはカントの考えだとしたら、理にかなっています。
ただ、竹田の芸術論からみれば、こどものようなものだ。はどうなんでしょう。
いくらこどものように可愛いものでも、結局、鑑賞者に作品の評価は委ねられています。
未来のことなど、誰も分からない今、永続性を目指す芸術は不可能に近いのではないか。
それに今の時代でも、結局、批評家に運命を委ねているようなもんなのですから芸術家も孤高な存在ではないのですね。
わたしの好きな映画監督にアレハンドロ・ホドロフスキーがいますが、この監督は「今」を大切にしている監督です。
映画も観客のサイコマジック(体験を経てトラウマをなくすこと)を促すために作っています。
この監督の作風にはとても合点がいきました。
今の人のことを考えて作った作品は、図らずも永続性のある作品になるのではないか。なぜなら人間に真なるものだから。
なので、自分の作品は子供で永続性を求める!
ってのはかっこいいけれどいささか考えものなフレーズだなと思った次第なのでした。
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