「文化は氷山」というけれど
ーーー文化は、氷山の一角だっていう例えがある。
食事や服装、音楽、言葉みたいな、目にみえる違いが、水面上にみえている氷。
これを受け入れるのはすごく簡単。
「美味しい」「かわいい」「おもしろい」なんて感想で片付いてしまう。
これだって立派な異文化交流だし、相手を「知る/歩み寄る」行為であることに間違いはない。
でも、「文化」っていうのは本当はもっとずーっと奥深くて、
「時間」の概念や、
パーソナルスペースの問題、
”自己”をどうみるか、
年を、性差を、階級を、どう扱うのか、
みたいなそれぞれの「世界観/価値観」が潜んでいて。
奥深くいけばいくほど、
無意識的だし、感情的にもなりがち。
これが、海の中に隠れた、氷山の根っこの部分。
そしてここまで見ようとしなければ、真の異文化理解はできないし、
共に生きる上で、訳も分からないままぶつかってしまうかもしれない。
だから、そんな深いところまで「文化の違い」を掘り下げてみよう
ーーーみたいな活動をする機会に学生時代、すごく恵まれていた。
これから紹介するのは、私がアメリカの大学に留学していたときに感じたこと、考えたことをまとめた手記である。
◆
結論から言ってしまえば
”結局、人間なんてみんなちがって、そしてみんな同じじゃん”
ということ。
Navigating Cultures というタイトルの授業を受けたことがある。
「時間」の概念や
「個人主義と集団主義」
「権力格差」
「不確実性の回避」
が文化によっていかに異なるかについて。
授業や、リーディング課題の中で、
日本は毎回のように、欧米と異なる国として取り上げられた。
時間に正確で、全体的にスピードが速いのに、
関係性をとても大事にしていて、ビジネスは欧米みたいにサクサク進まない
とか
「Noと言わない日本人」の話、
自身のグループ属性をどれだけ大事にしているか(例として、自己紹介のとき日本人は属性から入ることが多い)
とか
縦関係がはっきりしているか(おじぎや「I/You」がいかに種類豊富で、立場や場面によって使い分けているか)
とか。
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まあおもしろいっちゃおもしろいのだけど。
でも、うーーん。
「欧米では、関係性がイコールだから、”Thank you”って誰にでも言うけど、
アジアでは何故目下の人に挨拶するのか驚かれる」
とか
ハーモニーを大事にする文化では、表立って批判はできないから、
「陰口」が発生しやすい
とか
そこまでくると、「ちょっとまって」ってなってしまう。
これにいちいち反論することはここではしないけれど
ちょっとやりすぎじゃないかな、と思った。
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もちろん、
授業では
ステレオタイプ/偏見はいけないとか、
絶対的なものではないから、常に例外も存在する ってことは
何度も強調されていて。
でも、
疑問を呈した時に
「I know I know - Of course it’s not everything. But generally speaking – 」
で片づけられてしまうのが
そして
「Am I right?」
で承認せざるおえないようなプレッシャーを与えられるのが、
すごく不快で、苦しくて、あぶないなーと思っている。
(日本・アジアの立場から、おかしいなって思う例ばかりあげたけど、
西欧の立場でも
「衝突はなるべく避けたいし、何でもかんでもダイレクトに言ったらいいって思ってるわけじゃない」とか言いたいことはたくさんあると思う。)
ただのGeneralizationのつもりが、Stereotypeになってしまうことってすごく多くて、それは注意してもしても足りないくらいのもの。
そしてこの授業にはその配慮が足りていない場面があるんじゃないかなぁって思うのです。
”In General”が魔法の言葉みたいになっちゃうのは、おかしいと思うんだよな~
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もうひとつ私に考えるきっかけをくれたのが、
あるワークショップで、ステレオタイプについて話したとき。
「アジア人女性」
「黒人男性」
「ゲイ」
「ムスリム」
について、存在していると思われるイメージ(特にステレオタイプ)を書き出してみようというワークがあった。
「アジア人女性」のボードに並んでいた
従順、受け身、シャイ、成績優秀、人種差別的(白人好き)、厳しい親、
なんて言葉は、
私自身これらのステレオタイプをぶつけられてきたなと思うところがすごくあって。
昔、ニュージャージー州で留学していたころ、
数学で一番に解き終われば()”Asian” といわれ、
成績が悪ければ、お母さんに怒られない?って心配され、
よくしゃべるね、よく笑うね、意見もってるね、アクティブだね、社交的だねって驚かれたり、
今までに参加した国際交流系プログラムや留学生活で、
“You are very different from other Japanese people.”
ってどれだけ言われてきたことか。
そして、そう言われたときの複雑な気持ちといったら。
ステレオタイプを崩せた、私をきちんと見てくれた、って一瞬喜ぶんだけど、
でも実際には
ステレオタイプは全く崩れていなくて。
私が「例外」としてみられただけ。
そして私が本当に「例外」なのではなくて、
他の日本人をきちんと知らない、というそれだけのことだと思うんだよね。
「日本人離れ」がポジティブなのかネガティブなのかはおいといて、
私は、私が「すごく日本人的」だとも「日本人離れ」しているとも思わないし、
誰のこともそうだと思いたくない。
その人が何人か、とか、どの国から来たか、
で一体どれだけのことがわかるっていうんだろう?
って、
サッカーが嫌いなブラジル人や、
すごく「男らしい」ゲイ、
しっかり者で、異性関係にも堅実なフランス人
と仲良くしているとどうしてもこう思うわけなんです。
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「文化」はたしかに Iceberg 氷山かもしれない。
水面下には、歩み寄りが難しい「違い」がたくさんあるのかもしれない。
何事もWrong ではなくて、different なんだよってメッセージはすごく素敵だと思う。
でも、それ以上に、海はしっかりつながっていて、
どの氷の山も、もとは同じ水からできているってことを
しっかり心に留めておかなきゃならないと思う。
「違い」ばかりに着目するのに少し疲れてしまった火曜の夜です。
◆
むかし書いたものを見返すといろいろ発見がありますね。
これは当時やってたブログで、知り合いに見られるという意識で、テンションをコントロールして書いてるのが、自分でよくわかる。
当時、ここで、だれにも見られないと思って書いていたら、きっともっと怒ってたと思う。
だって、あのときの私は、きっと怒っていたから。
つかれてなんてなくて、闘いたがっていたから。
.
言葉にすることで、捉えられるもの。
言葉にすることで、逃げてしまうもの。
どんな文章にも、必ずどちらもあると思うけど、これは私の「怒り」の感情を随分逃してしまったなぁ
と懐かしくふりかえっています。
2020.05.13
とがりチヨコ
▶ こちらの方が怒ってるかな。スパイシー🍫
▽ こちらは軽いくちどけ