「生きてるだけで偉い」ってなんなん?
突然ですが、私はポンコツです。
仕事のタスクを存在ごと忘れてガチで怒られる、
電車を3回も乗り間違えて途方に暮れる、
チンしたご飯を翌日レンジの中に発見……
絶対に堂々と言うことではないのですが、
ドがつくポンコツな私は、
仕事から人間関係まで、そりゃあもう古今東西の失敗を網羅してきました。
前に会社の先輩から、
「りりりは新人100人分くらいのミスを一人で経験してる。
あらゆるミスへの予防策を持ってるから、いいお手本になるんだよ。」
とギリギリ(?)Disな褒め言葉をいただいたことを割と強烈に覚えています。
※尊敬するだーいすきな先輩なので、優しい方ご安心ください…!
これは社会人としていかんとあらゆる抜け漏れ対策を講じたことにより、
今でこそ大きなミスはしなくなったし細かいミスもだいぶ減ったけど、
私の本質はというと相変わらずポンコツのまま。
バナナを買えば冷凍ブロッコリーを買い忘れるし、
西友に行けばセブンに寄るのを忘れます。
ならばと買い物メモを書いてもその通りに遂行できないし、
そもそも見るのすら忘れるなんてことも…
「生きるの難しすぎ〜〜〜!!!」って叫びたくなることもしばしばです。
そして、もうひとつの私の厄介な特性、
自己肯定感が低い。
数年前までは本気で「自分は価値がない」って思ってました。
じゃあ自己肯定感0×ポンコツがかけ合わさると何が起きるかというと、
「私は無価値だ…」
って極端な思考に陥るんですよね。
フラットな状態で自分の価値を信じられていないから。
行動自体を反省すればいいのに、
○○ができなかった自分=価値がない!って思っちゃう。
自分の価値ごと疑っちゃうんですよね。
過去の私とか、今の私のすっごい調子悪い時がそんな感じです。
そして、そんなどん底の人間を励ます言葉の代表例。
そうです。
今回のテーマ、
「生きてるだけで偉い。」
この言葉が、どーーうも腑に落ちなかった。
そりゃ命は大事だけど、私のどこが偉いの??!教えてよ!!!って思ってました()
そりゃそうだ、自分の価値を疑っちゃってる状態で、自分が偉いなんて思えるわけがない。
でも、「自分は無価値」の思想から抜け出さないと辛い!!
そんな過去の自分に言ってあげるとしたら、一言。
「ある」を見ろ!!!
これに尽きます。
私が生まれて今に至るまで、
・産んでもらった。
・育ててもらって、紆余曲折ありながらもちゃんと大人になれた。
・大学までスポーツ一筋で、一生ものの仲間ができた。
・今、こんなにポンコツでめんどくさい自分と仲良くしてくれる人がいる。
産んでくれた人、守ってくれた人、豊かな時間をくれた人、学びをくれた人がいる。
そりゃ、十分じゃなかったり、もっと欲しかったものもあるかもしれない。
トラウマに苦しんだことや傷ついたこともある。
だけど、この世界に生まれて今まで、他の誰かとのストーリーが確実にある。
それを経て存在してるのが今の私。
過去の私よ、きみ、その人たちごと否定するつもり??
「自分に価値がない」って言ってしまうのって、
自分の人生に登場してくれた皆をひとくくりにして否定しちゃうことだと思う。
足りない一部ばかり見て、雑なジャッジをしてしまってると思う。
それって悲しい。失礼すぎる。傲慢すぎる。
誰かから生まれて、誰かとのストーリーがあって、今ここに生きてる。
そう思ったら、偉いとか、価値があるとかないとか通り越して、
「尊い」って思った。
私も、あの人も、あの人も、あの人も、
「生きてるだけで尊い」
違うな。
生きてる「ことが」尊い
どんなスペックだろうが、状況だろうが関係ない。今、生きてることが尊い。
目の前のコンプレックスや苦しさに飲みこまれそうなときもあるけど、それ以上に大事なことを見落とさないようにしたい。
こうやって考えてみたら、「生きてるだけで偉い」も「自分に価値があること」も腹落ちしました。
自己肯定感がちゃんと育ってる人であれば、こんな回りくどい方程式を唱えなくても自分の価値を信じられるのかもしれない。
だけど自己肯定感まだまだ育成中の私は、
「自分と関わってくれてる人を否定したくない」って気持ちを利用することで
自分の価値に気づくことができました。
ばーーーっと書き殴りましたが、
この考えに至れたのは、
以前メンタルを鍛えるオンラインサロンに入っていた時の
最初の課題がきっかけでした。
課題の内容は、
「毎日、その日良かったことを3つ書いてください」というもの。
良かったこと3つかあ、、、なんとなくメンタルに良さそうではあるけどこんな病んだ自分の1日に良かったことなんて、、、と思ってやってみたら、
ある。ちゃんと思い出してみたらあるんです。
別に大層なことが起きたわけじゃなくても、
推しの自撮りがバブくて沸いたとか、
都会の帰り道で大きな星を見つけたとか、
姉御的な先輩と隣で黙々とお仕事できたこととか。
失敗だけを数えてると今日も私ダメだったなーで終わっちゃうけど、
こうやって良かったことに目を向けて数えてみたら、
程度の差は違えどよっぽどのことが起きない限り
「今日もいい日だった」って言えるんだなと気づきました。
それを毎日繰り返してると、
「良かったこと」や「あること」に目を向ける癖がついてきて、
自分自身の価値についても同じように
「今まで関わってくれた人」という「あるもの」に目を向けられるようになったという感じです。
ないものに目を向けると自分は価値ないって思っちゃうし、
あるものに目を向けると価値あるなって思える。
「ある」に目を向ける考え方、いろんなことに通じるな〜と思います。
余談だけど、
能力とか見た目とか、スペック自体に価値がないって否定する意図はありません。
生まれ持ったスペックだとしても、後天的な努力で身につけたスペックだとしても、尊いと思ってます(両者の違いを考え始めたら本筋とずれすぎるので今回は割愛💦)
今のところ私なりの「スペック」の解釈としては、
この世界で自分にとって理想の生き方をするために必要なもの。
社会=ゲームに例えると、スペックはレベルとかアイテムみたいなもの。
身につけるほど勇者の戦闘力や経験値が上がって、世界の攻略が上手になっていく。ゲームをもっと深い部分まで楽しめるようになる。そんなイメージです。
生きてることが尊い自分。
戦闘力がもっと上がったら、生きてることがもっと尊くなるなー。
その時はもっと自分のことも好きになれるかなー。
ちょっと脱線しましたが、
私なりの「生きてることが尊い」論を書いてみました。
おわり!!