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台湾にまだ在る日本

はじめに

台湾にはもともと原住民が住んでいましたが、国家の体をなさなかったため、オランダに一部を支配されてしまいました。17世紀のことです。やや詳しい話はまえに書きました。

そして我が国との関わりはパイワンによる日本人虐殺というネガティブな事件から始まりました。

しかしながら、我が国と台湾はその後も関係をいい意味でもよくない意味でも保ち続けています。

明治の日本人は台湾を創世した

台北の二二八和平公園には台湾博物館があります。ここは明治41年(1908年)に児玉総督後藤民政長官記念館として建てられた建物です。

児玉源太郎
後藤新平

そのすぐ翌年に台湾総督府博物館として開館しまた。いまの建物が完成したのが大正4年(1915年)になります。

台湾博物館

ここには台湾創世記というべき我が国の統治下にあった時期の明治の日本人が成した素晴らしい功績が展示されていました。

日本人が歴史で学べなかった偉人

残念ながら我が国の歴史教育は歪んでいます。うすら左翼といっていい歴史学者がその原因です。

みなさんは、川上瀧彌をご存知でしょうか。おそらく大半の日本人は知らないと思います。しかしこの川上瀧彌は台湾の大きな功績を残しているのがファクトなのです。川上瀧彌は植物学者で、阿寒湖のまりもを定義した偉大な学者です。https://note.com/ririme/n/nca28ff802e94

熊本県立大学農業学校の教諭の後、明治37年(1904年)に台湾総督府技師となり、台湾の植物を調べ尽くしました。

川上の植物本

川上は初代の台湾総督府博物館となり、失われた台湾研究の先駆者でありましたが、激務のあまり博物館開館の翌日大正4年(1915年)8月21日に44歳で亡くなりました。

森丑之助も知られざる偉大な我が国の人類学者です。明治28年(1895年)に通訳として台湾に渡った森は台湾総督府の嘱託として先住民の研究をしました。台湾全土を移動して先住民の集落を訪れ、全容を明らかにしたのです。

森丑之助が残した写真

森のおかげで台湾先住民が認知されたのではないでしょうか。

台湾民族地図

他にも台湾の鉱物を研究した地質学者の岡本要八郎、昆虫学者の素木徳一など、我々が学校で習わなかった偉人たちの業績が台湾博物館に展示されています。一度は見てみるのがいいと思います。
表紙ある写真は、明石元二郎の墓であった現在の森林公園にある鳥居です。明石元二郎も台湾発展に貢献した偉人です。

日本から中華民国暗の暗黒時代へ

1895年から1945年まで日本であった台湾ですが、大東亜戦争後、国民党が支配することになります。支那からやってきたこの外省人たちは、略奪を行い、秩序を悪化させ、汚職の限りをつくしたのだそうです。そして、本省人に狗去豬來、すなわち、犬(日本)は獰猛で騒がしいとはいえ、番犬として重宝されるのに対し、去ったあとに来た豚(国民党)は食べるだけで何もしないと言わせるまで台湾を破壊しました。

二二八和平紀念碑

そして1947年2月27日、台北でたばこを販売していた台湾人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きました。これが発端となって、2月28日には台湾人による市庁舎への抗議デモが行われ、憲兵隊がこれに発砲したのです。その結果、抗争は台湾全土に広がり、蒋介石ら国民党は、武力によりこれを徹底的に鎮圧します。二二八事件です。蒋介石は、その後なんと38年間に渡って戒厳令を施行し、反体制派を密告であぶりだし、弾圧しています。中共と同じことを蒋介石は台湾でやったのです。この事件を風化させない目的で二二八和平公園がつくられたのです。
(Nov/2024)




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