空白を満たしなさい(最終回直前 感想)
ああ、泣いたな。第四回。
(以下、ネタばれあり)
主人公と佐伯の関係については、第2回あたりからうすうす感じ取るものはあったのだけれど、佐伯が実在かどうかはちょっと訝しかった。あれだけ胸くそ悪いことばかり言う嫌な奴だし、もう観るのやめようかなとすら思ったのだけれど、そこはさすがのNHKドラマ。みごとにひっくり返してきたなという感じ。
佐伯の部屋の壁にびっしりと貼られたゴッホ。それも自画像ばかり。ゴッホを殺したのはだれか?という持論を展開する佐伯。「ああ、それな」と思った。
私の中にも私がたくさんいて、このnoteにもその私同士の会話みたいなものを書いているんだけど、私がどれも私だとしても、私の中にも葛藤や諍いがあって、強い私と弱い私がいて、正しい私も汚れた私もいて、私を鼓舞する私もいれば、私に虐げられている私もいる…佐伯の言わんとしていること、ほんとよく分かって胸が痛かったよ。
ドラマを観ていない人には「なんのこっちゃ」だよね。すみません、観ていない人に説明できるほど理解が追い付いていなくて。言葉にできないけど、切実にわかるってこと、あるやん?まさにそれ。
私の中に認めたくない自分がいて、その私をなかったことにする。見ないふりをする。いないように扱う。
それって自分を守っているようでいて、実はずっと損ない続けているってことなんだよね。強すぎる自己防衛は自傷行為と変わらないんだね、とか思った。
主人公は自分が認めたくない自分を外在化して、それをすべて佐伯に背負わせた。このあたりはとても病的な反応ではあるけれど、事実をよく見ないままに誰かのせいにするってことは、それと似たり寄ったりな反応なのかもしれない。たとえば、いじめとかもそれに近いものかも。
すごい物語だなと思って、初めて原作が平野啓一郎だとテロップを見て、驚きと納得がいっぺんに来た。彼の著書はよく知らないけれど、分人というワードについては聞き覚えがあって、その言葉がまさにゴッホの自画像の壁とぴたっと重なりあって、1秒で腑に落ちた。我ながらすごい体験をしたものだ。いや、自分がすごいのではなく、平野氏がすごいのだろうけれど。
このドラマは説明が少ないし、お世辞にも親切とは言えない。分かる人に届くあたりをゴールにしている気もしている。ただ、私にはすごく刺さった。本当に心が弱り切った経験のある者にとって、第1話から第3話までは刃物を首元にあてられているかと思うほど、しんどい展開だったけど、第4話でカタルシス的なものが訪れて、途中で観るのをやめなくて良かったと心底思った。
私はどこかで弱い私を大事にすることを決めたのだ。朝、起きては泣き、職場からの帰り道、ひとりで泣き、もう無理だと思ったあの時。
そして、そのピンチは誰にでも訪れるということをこの物語は描き切っている。ほんとうは「生きたい」と願いながら、弱い自分(受け入れられない自分)を亡き者にするために、自らの命を絶とうとする瞬間がある―それをひとつの可能性として世に放った。
私は死にたいと思ったことがあるし、身近に自死を選んだ人もいる。すべての「死にたい」が「生きたい」ではないかもしれないけれど、「死にたい」と「生きたい」が大いなる矛盾をはらんで同時に成立することがある、あるいは「生きたい」の強さが翻っての「死にたい」があり得る、というこの作者の提起には恐れ入った。
あ、そうそう。どこで泣いたかというのは、ずぶ濡れで帰宅した主人公にお気に入りのタオルを差し出した息子くんのシーン。バリ島旅行じゃなく、ああいう瞬間にこそ幸せがあるんだよなぁ。
それにしても、出会う時期を間違えると、とんでもなくしんどい作品だと思う。視聴者のみんな、大丈夫かな(←余計な心配)。