【精神科病院の不祥事・その8】暴力的な精神障がい者は存在しても、精神障がい者(全体)が暴力的とはいえない話
【精神科病院の不祥事・その8】暴力的な精神障がい者は存在しても、精神障がい者(全体)が暴力的とはいえない話
「サイコロジー・メンタルヘルス&日々のあれこれ」
東京都八王子市・滝山病院における暴行・虐待事件や不祥事にまつわることを、連載しています(タイトルに【精神科病院の不祥事】とつけています)。
これまでに、精神科医療全体が、慢性精神疾患患者様の身体合併症をしっかりと診られるようになることが大切(そのような患者様を、質が悪いことを承知で他院に投げないように)なことと、病病連携のあり方の工夫(丸投げせず、依頼元・依頼先でともに患者様を診る)といった観点から、具体的な“提言”をしてきました。
ただし、滝山病院問題の本質は、当然「なぜ医療者が患者様への暴力・虐待行為に手を染めたのか」にあります。これから数回にわたり、精神科医療における「暴力」について考察しつつ、再発防止の手立てを考えてみたいと思います。
1.報じられたのは「無抵抗な患者様への暴力」なのに
滝山病院の内情を撮影したビデオを、テレビの報道などでご覧になった方ならお分かりかと思いますが、起こっていたのは「無抵抗な患者さまへの、医療者による暴力・虐待」でした。むろん映っていない場面で何があるのか知る由もありませんが、少なくとも医療者・患者様の両者入り乱れての“乱闘”の気配(備品がずたぼろに壊されているとか)は、全くありませんでした。
滝山病院問題が報じられ、ネットでの反応(ヤフコメなど)をつらつら見流していたのですが、やはりというべきか、「患者の暴力から医療者を守れ」や「家族に面倒みさせろ医療者に迷惑かけるな」といったコメントが散見され、心を痛めた次第です。
これらのコメントは、ある種の優しさや同情を反映したものなので、それを“偏見だ”と切って捨てるだけでは筋が悪いと思うので、若干解説しておきたいと思います。
2.暴力的な精神障がい者は存在しても、精神障がい者(全体)が暴力的とはいえない
はじめに、暴力的な精神障がい者は確かに存在します。私の精神科医療での経験(その経験を過度に一般化してもいけないのですが)でも、そのような患者様に何人も出会いました。ただし、それは、精神疾患・障がいを持たない私たちの中にも、一定の割合で暴力的な人がいるのと、対になっているものです。市中で私たちが出会う人々の中にも、暴力的な人はいるでしょう。
「暴力的な精神障がい者がいる」ことは「精神障がい者全体が暴力的だ」ということを意味しません。この両者を混同してはいけません。「精神障がい者全体が暴力的だ」という認識を出発点とした考察は、出だしから誤っているのです。
3.ではなぜ、精神障がい者は暴力的に「見える」のか
では、精神障がい当事者が暴力的に「見える」のは、なぜなのでしょう。それは、精神疾患の症状の一部(ごく一部)が、暴力的な様子と紛らわしいからです。
ひとつは、「不穏」という症状です。精神運動(からだの動きと対比する形での、神経・精神の動き)が亢進し、刺激に弱くなったり、興奮しやすくなったり、多動になったりするのです。これが外に向くと、攻撃的にみえてしまいます。
もうひとつは、「脱抑制」という、我慢したり配慮したりする心の働きが弱くなり、欲求を満たすために極端な行動に出やすくなってしまう症状です。「脱抑制」は、深酒をして怒りんぼになったりやたら泣き出したりする人をイメージすると分かりやすいと思います(アルコールは、緊張を緩和する働きがあるので、不穏にはなりにくいが)。
「不穏」も「脱抑制」も、精神疾患の精神症状です。そして、周囲から暴力的に見える症状(急性症状とか陽性症状という)は、全ての患者様に、病期を通して一貫して存在するのではありません。ほとんどの患者様の不穏や脱抑制は、急性期とよばれるごく一時期に見られる場合がほとんどです。
常識的な医療者であれば、全ての患者様が常に暴力的である、という認識は、確実に否定すると思います。
4.「暴力的に見える」を「精神症状」だと理解するメリットは何か
そのように考えることが正しいから、だけでなく、「暴力的に見える」ことを「精神症状」だと理解するメリットが存在します。それは、症状であれば医学的に処置・対処・治療を考えることができる、ということです。
長くなるので、詳細は次回に持ち越しますが、医学的な処置・対処・治療の第一は、「薬物療法」であり、続く第二は「環境調整」です。
医学的に処置・対処・治療するべき(できる)ものを、暴力で対応することは不適切ですし、その必要もありません。暴力を振るう医療者に対し同情する必要はありません。この点は、何度強調しても足りないことはありません。
(おわり)