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【精神科病院の不祥事・番外編】見ぬこと潔し、ではあるけれど
見ぬこと潔し、ではあるけれど
「サイコロジー・メンタルヘルス&日々のあれこれ」
昨日、精神保健福祉の関係者は、滝山病院問題をもう忘れてしまったのか!と、嘆きとも怒りともつかない投稿をしました。
その後、noteのご近所さんのお友達(フォロワーさんのフォロワー)の記事を拝見して考えたことも含め、備忘録として短く追記しておきたいと思います。
1.「心を乱すことは見たくない」
世の中が(そして精神保健福祉の従事者たちが)滝山病院を早くも忘れ去っているように見える、理由の一端は、私たちが「心を乱すことは見たくない」という認知的属性を持ち合わせているからなのでしょうね。昨日の投稿をした時点で、この事実を過小評価していたのは、軽率のそしりを免れませんね。
もう少しきっちりした表現をすると、私たちは「認知的な平衡状態を乱されることを回避したい」という心理属性を持っているのです。これに類する説は、心理学のいくつかの分野(認知心理学・環境心理学・社会心理学・臨床心理学など)で提唱されており、おそらく“普遍的な事実”でしょう。
例えば、被虐児が虐待的な養育者を棄てず、むしろ近接し執着してしまうことがあるのは、逆境から脱し新奇な経験をするより、現に虐待的ではあっても馴染んでいる(予測可能な)環境の方が、認知的な不協和が少なく平穏(乱されず)でいられるから、と解説されるのは、その一端を示しています。
確かに、滝山病院の予測をはるかに超えた悪辣ぶりに、私たちはずいぶんと乱されました。攪乱的な情報に接したくない、距離を置きたい、と思うのは、自然なことでもあります。トラウマ的な情報からは距離を取ってよいと、臨床心理学者はアドバイスするものですし。その意味では「忘れていく」のはむしろ自然な理といえましょう。
2.見ぬこと潔し、知らぬが仏、を乗り越える
「認知的な平衡状態を乱されることを回避したい」ことが心理学的事実であるなら、そこと正面切って戦っても仕方がありません。かといって、滝山病院問題を温存しておくこともできない。見ぬこと潔し、知らぬが仏、であることを受け入れつつ、それを乗り越え改善策を考えていかなければならないのです。
私が不勉強であることをお断りしつつ、現時点で心がけたいと思っていることは、滝山病院問題を“(悪辣すぎて)特殊なケース”と切って捨てたうえで忘れ去ってしまう(というふうに、私たちの認知的特性に悪乗りする)のではなく、できる限り私たちの日常臨床と関連づけて論じ、具体的な対処を提案するとともに、認知的不協和を軽減し、身近なこととして誰もが語りやすくする、ということです。
この問題に関する私の語り口が、表面的で楽観的であるように感じられるとしたら、それはここで述べた私の意図によるものです…と、さっきようやく明確に意識できました。遅っ。
やはり、忘却が最大の罪です。これからも語り続けたいと思います。どうかお付き合いいただき、ともに語りましょう。
(おわり)