空也上人像と「折り鶴」騒動から考える
京都・六波羅蜜寺の空也上人像が、東京(国立博物館)に来られているとのこと。あの、立ち姿の空也上人の口から、6体の小さな仏像が出ている、教科書にも載っていた像です(今はどうなのかしら)。
今から20年ほど前、京都を訪れた際に、六波羅蜜寺で上人像を拝見しています。寺宝であるにもかかわらず、薄暗い倉庫のような建物(それが宝物館だった)に、雑多な収蔵品に紛れて展示されていたこと、思ったより小さいと思ったことなどを憶えています。
空也上人は、一遍上人とともに、踊り念仏の祖と考えられています。金を打ち鳴らしながら、ひたすら念仏を唱えることで、救済が約束される、と説くものです。
空也上人の弟子や孫弟子が、上人像を携えて街をまわり、
上人像を囲みながら、そんなやりとりをしていたんだろうな、と想像します。
仏像は、ただのフィギュアではありません。教えを説く人・それを信じる人の情念が、長い間に沁み込んだものだから、有難いのです。
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祈りは、念仏のように、口に出すことで力を増します。行動に移すと、さらに力を増すことでしょう。お百度詣りなどはその代表例です。
ところで、ロシアに蹂躙されるウクライナに連帯の意を示そうと、(ウクライナ大使館などに)千羽鶴を折って届けようという意見と、そんなの独善的で迷惑だという意見とで、ネット内で議論になっている、と聞きました。
私は、どちらかと言えば「千羽鶴派」かな。そこに祈りがあること、祈りを“鶴を折る”という行動に移していることが、尊いと思いますね。もちろん、折り鶴を受け取ったところで、現世の利益には全くならず、むしろ相手に手間をかけさせてしまう、という指摘には同意します。でも、そうであるなら、祈りの気持ちだけ受け取って、モノは“供養”(情念がこもったモノを手放す儀式。“人形供養”とか“針供養”とかのようなもの)すればいいのです。
空也上人像も折り鶴も、関わる人の情念が込められているから、尊いのです。
(おわり)
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