【精神科病院の不祥事】滝山病院問題について書きたいが、筆が進まない
【精神科病院の不祥事】滝山病院問題について書きたいが、筆が進まない
「サイコロジー・メンタルヘルス&日々のあれこれ」
先日来さまざまに報じられている、東京都八王子市・滝山病院における患者様への暴行・虐待事件を受けて、すでにnoteに記事をあげています。
その後しばらく時間が経ち、もう少し思いや教訓を整理した記事を書きたいと思っていたのですが、どうにも気が重くて筆が進みませんね。そうこうしているうちに、“コオロギ食問題”や”放送法に関する官邸圧力事件“などが赤丸急上昇してきたので、滝山病院問題が早々に忘れ去られないか、危惧しているところです。
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この問題について書くことに気が進まないのは、私自身が“どの立場に身を置いたらいいのか、定め切れていない”からです。むろん高みの見物を決め込むつもりなどないのですが、私自身の精神科医療での経験は、私を「患者様を送り出す側(紹介元)」「患者様を引き受ける側(滝山病院のように)」「患者様自身(私も認知症など発症してもおかしくない世代)」、いずれの立場にも引き出しえるのです。いやきっと、その全ての立場における責任であっても、引き受けるべきなのでしょう。
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気が重いながらも、この問題について考える時、私は現時点で二つの確信を得ています(後々、ひとつふたつ増えるかもしれないけれど)。
一つは、滝山病院や加害者を適正に処分・処罰することと同時に、事件の背景を理解し、改めるべきものを改める必要がある、ということです。この事件は、精神保健福祉の至らない部分を煮詰めて煎じたような出来事です。鍋を温める火と、鍋の中の苦い液体そのものを何とかしないと、第二第三の滝山病院が亡霊のように再登場するように思われてなりません。
もう一つは、精神保健福祉の現場の一人ひとりが、これまで以上に力をつけていかなくてはならない、ということです。滝山病院は、身体合併症をもつ慢性精神疾患患者様を引き受けていました。その患者様を、なぜ自院で診きれなかったのでしょう。どうして外来で診られなかったのでしょう。その一つの理由が、私たち自身の力量不足なのです。我が身を振り返って、苦々しいけれど、そうなのです。
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noteのご近所でも、苦々しさを堪えつつ発信を続けていらっしゃる方がいます。私も、筆が進まないながらも、拙いながらも、何とか記事を更新し続けたいと思います。でも気が重いです…
(つづく)