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二分心の話 感想文『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』

今、科学とオカルトについてそこそこの長文を書いているんだけど、書きたいことが多すぎて興味がどんどん移ろっていき、分岐が増えまくってですね、読める文章にならず絶賛停滞中です。なので分岐の方を別出ししようと思ってこちらに逃しています。上記の「科学とオカルト」で人間の意識や思考形態について、少し触れている中で「二分心」について話をしています。

そして二分心といえば以下の本が面白いんだ。

「二分心」というのは人間の脳に「意識」が生まれる前に人間を動かしていたとされる「プレ意識」のことで、そういうものがあったという仮説です。

人類は意識がないうちから社会生活を行っていた

人類が意識を持つようになったのは、言語を用い始めてからであって言語を持つ前の人類は意識を持っていなかったと本書は言います。そして現代人と同じような構造の意識を持つに至ったのは割と最近で3000年ほど前と結論づけています(後述)

しかし、人類はこの以前から狩りや農耕や牧畜、儀式や芸術活動や社会的なルールを持って集団生活を行っていたのです。(諸説あるけど10000年前くらいには全然やってる)意識がないのに。

「神々」の命令

「意識」の代行していたのが「二分心」というお話です。

さて『イーリアス』は現代から2800年ほど前(紀元前8世紀頃)に書かれた古代ギリシアの叙事詩(主に英雄譚の詩)なのですが、文章を精査すると「私」を指す一人称がなく、現代の文法でいうなら「私は英雄にマントを掛けた」と書くようなことを「(神々は)英雄にマントを掛けるように命じた」と訳すべきような記述が多く見受けられた、と。(まあポエムだからそういう表現でも不自然ではないのかもしれないけど、そのへんは追加調査があったはず)

『イーリアス』の中から、そういった箇所を洗い出して、後世の別の文献と比較していくと、神々は徐々に命じることはなくなっていく。

この神々が「二分心」。いわゆる宗教上の神様というよりは、内なる声みたいなもので、これが意識(主体的な自己)を持つ前の個人を動かしていたのでは?という仮説です。

言語が生まれて、二分心が意識にとって変わられると、二分心を残した珍しい人たちは神々の声を聞けるメディウム(巫女・占い師・霊媒師)になったり、現在では幻聴といった形で解釈されたりしているという話。

解釈

個人が主体性を持つというのは現代社会の根本的なテーマだから、見えにくくなっているけど、思ってるほど肉体や社会生活ってのは意識に依存してねぇぞって話なんだよね。

無意識でやれることは、思っている以上に多い。卑近な例を出せば、どんなに痛飲してもきちんと帰路につけるじゃない、あれ僕、オートパイロットと呼んでますけど、まあそういうことですよ。そんで次が平日なら、体の不調に反して朝乾いた体を引き剥がして起きるじゃない?

意識が体をコントロールしてると思い込んでるけど、そうでもないよ?っていう話。騎手がいなくても馬は障害物避けて走るだろうな。そうすると意識ってのはオマケかもなと。

短編『From the Nothing, With Love.』

短編集『The Indifference Engine』の中の短編『From the Nothing, With Love.』はかなりかっこよくて、007が出てくるんだけど、これも意識と無意識の話がキーになってます。殺しのプロは意識を介さずとも殺す。


魍魎の匣

”匣”のトリックに比べれば、軽く語られているんだけど「魔が差す」の話なんだよねこれ。魔が差すも「二分心」の名残っぽいよね。ちなみに「魔が差す」の「魔」って「通り魔」って名前の妖怪で、ぼんやりしてる人に取り付いて、罪を犯させる妖怪だそうですね。いわゆる「通り魔」って「通り魔」がついた人というニュアンスなのだそうだ。

あと英語だと「通り魔」って "phantom killer" っていうらしいね。これもちょっと二分心っぽいニュアンスが込められてる気がする。

意識や無意識をテーマにした作品をもっと読みたいな。

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