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「あの日」と「この日」
今日この日。
私は性別の取り扱いの変更を求める審判を起こす。
……もっと平たく言えば家庭裁判所に書類を提出してくる(追記:してきました)。
この日まで長かった。越えなければならない障害がたくさんあって、なにが苦しかったって、自分のことだけ考えていられないのが本当に。
一番の障害は親だった。親の言うことに従って大学に行くか、自分の生き方を貫いて縁を切り、一切の金銭的援助を捨てるか選べ、と言われたのが今となっては懐かしい。治療も、病院に行って診断を受けることも、許さないと言い渡された。
あの日のことは今でも鮮明に思い出せる。――嘘だ。朧げにしか思い出せない。
思考に、なんとなくモヤがかかっている。強い精神的ショックを受けたからなのだと思う。思い出として受け止められないくらいには、あの時の私には辛すぎる経験だった。でも、それ以上に。
時間が経ったのだ。つらい経験を過去のものにするには、四年でじゅうぶんだった。
高校3年生の冬。春が近いか。親に黙って大学側と連絡を取り、通称名を使用する手続きを進めていた。ところがその通称名で、実家に書類が届いてしまった。……それだけならよかった。
当時仲良くしていた――友人以上の精神的つながりを持っていたひと――から、バレンタインを契機として荷物が届いていたのを、覚えられていた。クール便。家に直接届いた通称名の荷物、「間違って」届いたことになっていた書類と同じ名前。その日は焦りながらも、適当に笑って誤魔化していたのだが。
まあ、問い詰められるよね。私の目は誤魔化せないよ、と。
夏ごろにカミングアウトして完全なる拒絶を受けてから久しかった。「『治った』と思っていた」とひとしきり泣いた母親は打って変わって放心し、一切の家事を放棄した。あの頃、弁当を分けてくれた親友へ、ありがとう。きみのおかげで生きていられた。決して過言ではない。
女性性――というより、ジェンダーロールに固執していた母親。女の子なのだから、髪を伸ばし、可愛い服を着させて、化粧をしてもらい、一緒にショッピングに行こうと。願望は異常とも言える押し付けとして表れていた。
ところが私は、念願の、期待されるところの「女の子」とは異なる様相だった。うん、この通りに。残ったのはいかにも女子らしい名前だけ。たぶん、私がボーイッシュなだけでも押し付けはなされていたと予想している。
バレンタインという祭日のうれしさと、それを呑み込むほどの衝撃を受けた、すべてを否定された、あの日。
「あの日」からもう、丸四年が経つのだ。
時間が解決する、と、多くの人々は私に言った。その通りだと頷いて未来に希望を持つには、私は脆く、そして青かった。
殉情。
どうにもならないから死のうとタワーマンションの窓枠に足をかけた私に、「一緒に生きよう」と告げてくれたその人に送ったメッセージは簡潔なもので。名前と性別変えてくる! という旨と、それで久々に思い出したんだよね、なんて何気ない会話を。「あの日」の重みに比べればあまりにも軽すぎる。
その人は、私もたまに思い出すよ、と言ってくれた。母や姉のような気持ちで。……母は言い過ぎじゃないか?
紙切れ――あるいは電子上の情報――のうえで、たった一文字が変わるだけ。名前を含めても、片手の指にすら収まらない文字数の変化。
それだけをひたすらに望んで生きてきた、というわけではない。他に考えることも多かった。人生って何とかなる。それなりに楽しめていて、死にたい、と思うこともほとんどなくなった。
けど、折々でぶつかる壁。目を離してばかりいられない「女」という表記。親とのぎこちない関係。航空券の「Ms.」を隠すように持つ手の形の、いびつさ。「お兄さんですか?」「いえ、本人です……」。
ようやくここまで来たのだ。
「今、どんなお気持ちですか」
診断書を渡すにあたって問いかけてきたのは、セカンドオピニオンの為に出会った、同じクリニックの中にいるとはいえ初対面の先生だった。
はじめまして、こんばんは、と告げ、丁寧やね、と笑われて。二言目にはそう問われた。一瞬の沈黙のすえに、「やっとここまで来たなと」と、そう悩むことなく返した。
……思い返すとまるで有名人のインタビューのような口ぶりで、笑ってしまうけれど。嘘偽りのない本心だ。
ガラスの壁がある、と、(おそらくは)当事者でもない先生は言う。
戸籍が変わっても、自身の出生時の性別に対してあまり意識しなくなっても、どこかで壁にぶつかる。
ひとりで悩まずに、同輩だけでなく時に上の立場の人も頼ってね、もちろん私たちのところにも――出来ることは少ないけど、事例をたくさん見てきて知見はあるから――いつでも来てな、と。そして幸せになりなさいとメッセージを送られた。純粋にうれしかった。しみじみしながら、うなずいた。こういうことを斜に構えず受け入れられるようになったのも、なんだか自分のことながらうれしい。
親と一日旅行をして、寿司を食べさせてもらって、それでも最後まで言えなくて、別れ際の新幹線の改札前で、「名前と性別をさ、変えようと思って」と打ち明けた。就職前に、変えておきたいんだと訴えたら、かれの目は潤んでいた気がした。感情の起伏が少ない父親らしく、いつかそうなると思っていた、なんて返ってくる声は平坦だったけれど。
自分がそうしたい、ももちろんそうなんだが。そうすると何故か「権利ばかり押し通して」と叱られてきた。昔からだ。ではどうしたか、社会的にそうした方が便利だ、こういう事情があって不便だ、でも今こうして(男として社会生活を送ることで)人生が楽しいんだ、と伝えることで不思議とうまくいった。これはなんとなく、家庭裁判所に申し立てる手続きと同じようなものだな、と、思った。
親もなんだかんだでこちらを苦しめたいわけではないのだな。いや、苦しめられてはきたのだけど。自分もまた親を苦しめた。ここで自罰的になることはないと思っていて、でも責めるのもなんか違うなと。結果的には、大学進学にまつわる費用を出していただいたわけだし。
許せるわけではないけど、許す許さないではなく。過去と現在を切り離すことが出来て、随分と楽になった。
今日この日。
私は性別の取り扱いの変更を求める審判を起こす。
時間が解決するから大丈夫、とDMで励ましてくれたフォロワー。下宿先の契約もすべて取り消すと言い渡されて途方に暮れていた時、顔も知らない私に手を差し伸べてくれた複数のフォロワーたち。なんとかなりますか、と初診の去り際に震える声で尋ねて、一瞬の間のあとに力強く頷いてくれたジェンクリの先生。あなたの両親は20年間娘を育て、その後息子を得るのだからラッキーだ、と明るい声音で言ってくれた某国のホストファミリー。「一緒に生きよう」、「私の為に生きてよ」なんて直接的な言葉だけではなく。
あの時のすべてが私を死に導いたのだとすれば、これらの瞬間のすべてが私を生かしてくれた。
ひとりで生きていくんだ、とがむしゃらにもがかなくても良かった。思ったより世界に味方は多い。もっと言えばひとは他人に関心がないもので、時間は多くのことを解決してくれる。
こんな何でもない気付きを抱きしめて、新しい生を生きていきたいと思う。
……まだ許可下りてないんだけど!笑
これを最後まで読んでくれたあなたがもし必要なら、その実根拠はないのだけれど、「なんとかなる」と言ってあげたい。
世界は常に回っている。こちらの事情など構いもせず日は昇って沈み、風は前へと吹き続け、私たちは前へ進むことを余儀なくされているのだ。自分が立ち止まりたくても時間が過ぎて行くことに疲弊し、絶望感に囚われることもあるかもしれない。
だけど時間の流れは残酷なだけじゃない。良いこともある。毎日じゃなくても、ほんの少しずつでも、流されているだけで、何かがゆるやかに変化して改善されている、なんてことがあるから。あったので。
畢竟、敵だと思えば敵になり、味方だと思えば味方になる。後者の方が幾分得だ。
なんとかなります。闇の中に引きこもらないで、と、それだけのお話でした。
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