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平和的非接続という推し活ムーブをなぜわかってもらえないのか

私は今、ボッチで推し活をしている。

昔は人の輪の中に積極的に飛び込む方だった。新しい推しができたら、その推しの良さを分かち合える人と仲良くなりたくて、SNSで突撃して相互フォローになったり、本人不在の誕生日オフ会なんかを企画して新たな繋がりを作ったものだった。

だから、人と繋がることの楽しさは分かる。新しい出会い、新しい友達、新しい輪、それらが素晴らしいことも知っている。それらを知ったうえで、あえて一人でいるのには理由があるのだから強要はしないでくれよ…と思ったりもする。

私のようなあまり寛容ではないタイプの人間がオタクとして楽しく生きていくのに必要なのは、推しに求めるものと金銭感覚が近く、男の趣味が被らない友人だ。本当はここに「時間の感覚」とか「収入」とか「年齢」が入ってくるとよりベストなのだが、さすがにそこまで求めるのは現実的ではないが、とにかく一番最初に挙げた「推しに求めるもの」の種類が近しい相手であるとは必須の条件だ。

単推しなのか、箱推しなのか、DDなのか、ガチ恋か、保護者面か、認知されたいのか認識されたくないのか、売れてほしいのか売れないでほしいのか、彼女はいませんというスタンスを貫いてほしいのか否か、お金を使ったほうが偉いのか、他の人に配慮して全通は控えるべきかなど、推し活にはそれはもうたくさんのスタンスや思想や立ち位置があって、いつでも誰かが誰かにお気持ちを表明している。

基本的に、オタクは「混ぜるな危険」だ。
自分とは異なる推し方をしている人に対して、嫌悪感だったり嫉妬だったりとにかく何らかのマイナスな感情を抱き、ストレスを感じるものなのだ。
人間的に器が大きければまた違うのかもしれないが、先に述べたように私は比較的不寛容な人間なので、嫌だと思えばストレスを感じる。

私にとって、自分と違うオタクと繋がり、彼女たちのポストを閲覧することはストレスの種なのだ。繋がってしまってから後悔したくない。面と向かって言えないからって影であれこれ悪口を言うようなオタクにもなりたくない。揉めてブロックだのなんだの大騒ぎもしたくない。逆もそうだ。私のポストが誰かを不快にさせてしまうことなど分かっている。だったら最初からSNSでは繋がらずに、現場であったら軽く会釈したり雑談したりするくらいの関係性を保っている方がよっぽどいい。

だから私は公開垢はリプ専用しか作らず鍵に引きこもっているのだが、それだけで「感じ悪い」とか言われてしまう。なんでだよ!喧嘩したくない、気まずくなりたくない、だから一定の距離を保ちましょうねという話なのにどうして分かってもらえないのだろう。

みんなで仲良くしたほうが絶対楽しいよ!の絶対ってなんだろう。どうしてそんなに自信があるのだろう。と、ぼんやり考えるオタク歴25年なのだった。

40歳まであと93日!

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