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私の目指したい「雁の魂」の話

 はじめましての方も、いつもお世話になっている皆さんもこんにちは。

 今回は、私が「十二国記」シリーズと出会ってから、何度も読み返し、反芻してきたことで、自分の未来を明るくするためのヒントとして受け取っている、精神や行動の指針をまとめ、綴りたいと思います。

 私は「十二国記」シリーズから心の指針になる言葉や考え方をたくさん受け取り、今でも少しでも、そこから学んだ「ありたい姿」を目指して頑張ろうと思っていますが、その中でも、何度も何度も繰り返して読むうちに、「私はこうありたい」と強く定まった、そして、「こうあることで、自分で自分の目指す明るい未来を実現できるはず」と信じられる、精神や行動のあり方が自分の中で形作られていきました。

 それが、作品に登場する、「雁州国」という国に生きる人々から感じられる精神性、人としてのあり方です。

 何を言いたいかと言いますと、私は、「雁」という国の人々から共通して読み取れる、あの国の人々の生き様や精神性が大好きです!!

 そして、彼らの生き方や精神性からは、自分の未来を明るくする、望む未来を実現するためのヒントがたくさん受け取れると思っています。

 そのため、私が目標とし、指針としている、私の思う雁の人々の生き様や精神性、すなわち私の思う、私の惹かれる「雁の魂」とはどういったものか、私なりにまとめてみたいと思いました。

 つまりこれは、私が「十二国記」シリーズという作品の中でも、特に「雁」という国の人々や物語から学び、活かしていきたいと思っていることをまとめ、綴りたいという試みです。

 私が、こういう精神で、こういう生き方がしたいな、そして私も、彼らのように、明るい未来を自分の手で実現していきたい、と自分の心に抱いて目標にしているものを、言葉として形に残しておきたく思います。

 「十二国記」シリーズを元に綴っていきますので、ネタバレを見たくない方は、ぜひ先に「十二国記」シリーズをお読みください。

 まずは、私の思う、雁州国の人々の精神性として共通して見えてくる、私が「雁の魂」として標榜しているものを、大項目でまとめてみました。



 それでは、一つ一つ、詳細を記述していきたいと思います。


笑顔でいること、明るく振舞うこと


 まず、雁の人々は、どんな時でも明るく振る舞っている描写が多いです。

 これは、雁国民の元来も気質もあると思いますし、それに加えて、意識的にそう振る舞っている面も大きいように思います。

 これが顕著なのが、他でもない雁州国の王と麒麟、延王尚隆と、延麒六太の振る舞いです。やはり、冒頭ですから、国のツートップから行きたいですね。


 まず、延王こと小松尚隆について、努めて明るく振る舞っているな、と思う場面をいくつか挙げたいです。

 嘆くか、怒るか。——そう思って見上げた男は、見つめる視線に気づいたのか、ふいに六太を振り返った。そうして笑う。
「見事に何もないな」
 六太はただ頷いた。
「無から一国を興せということか。——これは、大任だ」
 一向に難儀を感じていない調子でそう言う。
「これだけ何もなければ、かえって好き勝手にできて、いっそやりやすいことだろうよ」
 男はあっけらかんと声を上げて笑った。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.26

「——なんだ。そう悲壮な顔をしてどうする。どうせなるようにしかならん。軽く構えろ」
 六太はそれを軽く諫めた。
「無茶苦茶を言うな」
「無茶だが事実だ。どうせ結果が同じなら、心配するだけ損だぞ」
 言って尚隆は縋るように見上げてくる三人ほどの老人に笑った。
「そう硬くなっていては、いざ逃げる段になっても足が強張って動くまい。気楽にしておれ。なんとかしてやる」
 尚隆がそう言って笑うと、老人たちは安堵したように息を吐いた。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.232

 言って尚隆は立ち上がった。もう、いつもの泰然とした表情が浮かんでいる。
「——まあ、どうせ俺の首なぞ、振ればからから音のする飾りのようなものだからな」
 尚隆は笑う。
「この首一つで、どれだけの民を購えるか、やってみよう」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.240


 はい。いくつかの場面を挙げてみましたが…。この人、本っっっ当に、どんな窮地でも、どんなに途方もない道が見えていても、どんなに苦しくても、いつでも泰然と、笑顔を見せるんですよね…。
 その笑顔は、周りの人のためのもの、周りの人を安心させるために、尚隆はいつだって、どんな状況でも笑う人なのです。

 私はそんな尚隆が大好きです。

 上に挙げたシーンは、どれも窮地としか言えない状況で、焦りや絶望を感じて落ち込んでも仕方がない場面ばかりです。

 自分が領主として治める国が、敵に囲まれ、勝ち目のない状況で、できる限りの民を逃がすしかできることがない、そして自分は領主として、民を救うために命を捨てる覚悟を決めている。
 そんな状況で、逃げて生き延びてもらいたい民たちが、絶望してしまわないように、不安に負けてしまわないように、民を安心させるために尚隆は笑うのです。

 そしてそんな風に守りたかった国を失い、新たな国を託されて、その新たな国を初めて目にした時には、その国は滅びたとも言われるほどに、飢え干からびて荒廃している。
 その国を王として任されて、責任の重さも、不安も焦燥も当然感じたと思います。
 それでも、やっぱり尚隆は、そんなことをまったく感じさせないように、あっけらかんと笑うのです。
 それは、隣にいる、同じように国を背負う、まだ小さい子どもの六太のため。六太を安心させるためだと思います。


 そんな風に、尚隆は、どんな状況でも、自分の内に抱える不安や苦しさは見せず、目の前の大切に想う誰かのために、明るく振る舞い、笑う人です。
 そして、そのように振る舞うことで、自分自身のことも鼓舞しているように思います。

 もう、こんなの、こんな人、胸がぎゅっとなって、涙が出るほど好きで堪りません。

 私は尚隆のこうした振る舞いが大好きなのですが、彼が半身と呼ぶ、延麒六太も同じような性質を持ち、同じような振る舞いをしている場面が多々見受けられます。

 こちらも、まずは私がそのように感じるシーンをいくつか挙げさせてみます。

「台輔、お怪我はございませんか」
 驪媚に訊かれて、六太は笑ってみせた。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。——ここ、結構いい部屋だな。思ったより待遇いいや」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.117

「慶の言葉だ。男王が懐かしい、ってこと。酷い女王が続いたからな、無理もないと思うけど。実際、おれも女王だってんで、大丈夫かなと思ったもんな。——ま、すぐにそういう心配はやめたけど。陽子は女だってことでずいぶん器量を疑われてる。……だからさ、おれたちだけは信じといてやろうや」
 にっと笑った六太につられて、楽俊も笑う。 「はい。……そうですね」

新潮文庫「風の万里 黎明の空」上巻P.221

「見つかりませぬか?」
 ああ、と六太の声は低い。立ち尽くすしかない李斎の落胆に気づいたように、六太は明るい声を出した。
「ま、こんなもんだろう。まだまだこれからってとこさ」

新潮文庫「黄昏の岸 暁の天」p.350

 いかがでしょうか。

 六太も、尚隆と同じように、誰かを安心させるために明るく振る舞ったり、笑ったりしているシーンが多くて印象的です。

 これらのシーンも、六太自身だって、囚われの身になって焦りや不安があったり、陽子のことを心配していたり、泰麒捜索のために奔走しているのになかなか成果が出なくて疲弊していたりしている場面です。
 そんな中で、目の前にいる、驪媚や楽俊や李斎を安心させるために、努めて明るく振る舞ったり、笑ったりしているのだと思います。

 驪媚に対して六太が笑うシーンでは「笑ってみせた」という表現になっていて、六太が努めて意識的に笑っているのが分かったり、楽俊との会話のシーンでは、楽俊が六太の明るい笑顔につられて笑う描写が印象的だったりするのが、私は堪らなく大好きです。

 もう!尚隆と六太ってそういうところがとっても似ていて、他者のために明るく振る舞い、笑う人だと思いませんか??
 そういうあり方、とても優しくて強い人たちだなと感じます。

 笑顔でいたり、明るく振る舞ったりすることで、周りを安心させる、尚隆や六太のあり方が大好きです。
 そして、周りが明るく、活気や希望に満ちていると、その空気に助けられて自分も明るくなれたり、安心感を得られたりするものだと思います。

 努めて明るく笑顔で振る舞うのは、それが周囲の人々を安心させ、勇気づけることができるということを知っている人の振る舞いで、また、そうすることで自分自身の気持ちを落ち着け、気分を明るくすることにも繋がっているのではないかと思います。


 また、雁という国全体にも同じような部分があると感じています。

 そのことが分かるシーンがこちらです。

 船を降りながら、陽子は雑踏を見渡す。人を明るい気分にさせる街だと思う。流れる人の誰もが生気のある顔をして、多分それは陽子も同様なのだろう。

新潮文庫「月の影 影の海」下巻P.110 


 私、この描写、大っっっ好きです!!!!!

 陽子が過酷な旅を強いられる中で、雁に入った途端に、街の空気が明るくなって、それで陽子の心も明るくなるんです。
 そしてこのあと、陽子は楽俊とも再会するんですよね…。
 ここから、楽俊と心を通わせ、信頼の絆を築いて、陽子の運命がどんどんと加速していくことを考えると、このシーンは、陽子の旅路のターニングポイントになっているように感じています。

 そんなシーンで、「人を明るい気分にさせる街」という描写が入ることは、気持ちが明るくなることと、状況が好転することには関係があるのではないかな、とそんな風に思わされます。

 
 明るい振る舞い、笑顔、それが他者へと伝わっていくこと、そして周りも明るくなること、私はそういったことには、状況すらも好転させる力があるのではないかと思います。

 それが分かっているから、尚隆や六太はいつでも誰かのために、自然と明るく笑顔で振舞っているのでしょう。

 そして、雁という国自体も、人々が明るく、活気に満ちていることで、それがお互いにお互いを明るくし、豊かで笑顔に満ちた国を作り上げているのだと思います。

 こうした、尚隆や六太のあり方、そして雁という国の雰囲気を見ていると、私もどんな時でも明るく振る舞う強さと優しさを持ち、その明るさを周りに伝播させ、状況すら好転させられる人間になりたいと、強く敬意と憧れを感じます。

 どんな状況でも努めて明るく笑顔で振る舞うということは、人を変え、自分を変え、そうすることで、状況すら変えていく。

 明るく振る舞うことには、そんな力があるのだと、雁の人々のあり方が教えてくれるのです。



どんな状況でも希望を持ち続けること


 いつも明るく振る舞う雁の人々は、彼ら自身の心のあり方についても、どんな状況でも希望を持ち続ける強さを持っていると私は感じています。

 そして私は、この、どんな状況でも希望を持ち続けるということは、明るい未来を掴む取る強靭なエネルギーになるのだと思うようになりました。

 雁に生きる人々が、どんな状況でも希望を持ち続けていると感じる、大好きなシーンがあります。

「でも、これを王様に届けたら、良くなるんだよね」と、長男は言う。
 そうね、と女は複雑な気分で頷いた。信じたいが信じられない。けれども子供にそれを言うのは憚られた。せめて希望だけは持っていてもらいたい。未来と世界に絶望しないでもらいたい。
「きっと王様が助けてくださるよ」
 息子が弟に言うのを聞いて、彼女は手綱を繰り出した。
 真実は分からない。けれども、とにかく急いでみよう。筺の中に希望が入っているのだと信じて。

新潮文庫「丕緒の鳥」(青条の蘭)P.277


 ここ、本当に大好きな場面です。

 特に、「未来と世界に絶望しないでもらいたい。」という一文が、輝かしい光を放っているように感じられるほど、心を掴まれて圧倒される力強く美しい一文だと思っています。
 『未来と世界に絶望しない』を自分の座右の銘に掲げたいほど大好き。笑

 この時の雁、新王が当極したてで、その王がどんな王か分からず、先王時代~空位の時代で政治は腐敗しきり、先王の暴虐や度重なった災害によって、国土は焦土となったまま、耕地は鍬も入らないほど固くなり、日々食べていくだけの実りを得ることもできない状態でした。
 そんな、崩壊しきり、荒廃しきった国で、「信じたいが信じられない」と言いながら、子どもに希望を持ってもらうために希望を肯定し、そして行動する。
 行動する時には、「筺の中に希望が入っているのだと信じて。」と、希望を信じているんですよね…。

 し、信じているではないか…と思ってしまって。信じられないと言いつつ、信じているではないですか…。何という強い心…。

 この、青条という希望の入った筺を運んだ女性も、子どもに絶望させないために、子どもに希望を持ってもらうために、努めて希望に目を向け、肯定し、行動することで、自分自身も希望を信じる覚悟を持つことができたのだと思います。

 この姿は、他者のために明るく振る舞い笑う、尚隆や六太の姿とも重なります。
 やはり誰かのために努めて明るく振る舞うことは、自分自身にも、希望を信じる力を与えてくれるのだと思います。

 誰かを想う優しさが、自分自身にも希望を信じる強さを与えてくれるというのは、それ自体にとても希望が感じられます。

 そして、こうして希望を信じて、「とにかく急いでみよう」と行動したことは、王宮へと届き、その希望と願いは心ある官吏と王にきちんと託されました。
 希望を信じられなくなるほどに過酷な状況の中で、それでも希望を信じ続けて行動したことが報われ、明るい未来を掴み取ることができたという物語の結末は、何度読み返しても安堵し、幸福感で満たされます。

 この結末まで含めて、こうした雁の民の姿は、どんな状況でも希望を信じて行動することで、自分たちの手で明るい未来を掴み取れるのだと、希望を信じ続けることの大切さを教えてくれるのです。


 もう一つ、雁の人々の物語から希望を失わないことの大切さを感じさせてくれるのが、元州牧伯、驪媚の台詞です。

「ですが主上は間違ったことをなされたことはございません。帷湍などは暢気だなどと言いたい放題でございますが、王が鷹揚に構えていらっしゃるから、あの惨状の中でもわたくしどもは絶望しないでいられたのでございますよ」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.215,216


 この台詞、驪媚が、絶望せずに希望を持ち続けることの大切さ、そして官吏や民が絶望しないでいられるように意識的に振る舞っている尚隆の言動をすべて理解していることが分かる言葉だと思います。

 この時点の雁は、20年かけて、一度滅びたとまで言われたほどに何もなかった荒廃から、山野に緑が広がり、田畑を耕作して民が自分たちの食べる分の実りを自分で得ることができるようになった時期です。
 つまり、その20年、官吏や民が、状況に絶望することなく、希望を信じて行動することができたから、何もかもがなくなってしまった荒廃を、再び緑の広がる大地にすることができたのだと思います。


 驪媚はそのことを理解していて、尚隆が周囲に希望を持たせる振る舞いをしていることまで理解している。
 この驪媚の聡明さ、人の心をきちんと汲む洞察力や配慮が私はとても好きです。

 尚隆の意図をきちんと理解して汲み取ってくれる人がいるということ、尚隆も報われているなあと、人と人との心が通じ合っていること、それを可能にしている双方の優しさに、胸が熱くなります。

 この驪媚の言葉からも、希望を信じて行動を続けたことで、雁の人々は明るい未来を掴み取ってきたのだということが分かります。


 このように、雁という国にまつわる物語は、どんな状況でも絶望せずに、希望を信じ続けて行動することで、自分たちの手で明るい未来を掴むことのできた人々が作ってきた物語であると私は思っています。
 そうした人々の姿や、彼らの築いた物語は、どんな時でも希望を信じて行動することは、明るい未来に繋がるのだということを教えてくれます。


 彼らの物語は、私にとって、いつだって希望を信じようと心を奮い立たせてくれる、明るい光の力に満ちているのです。



どんな状況にも活路を見出す発想の転換


 雁の人々は、どんな状況でも希望を持っているがゆえに、どんな状況においても、そこに何か良い面を見つけて、活路を見出す発想の転換がうまい部分が見受けられます。

 私がそのように感じるシーンを2つ挙げてみます。


 まず1つめは、先の項目でも挙げた、尚隆が初めて雁を目にしたシーンです。重複ですみませんが、私はこのシーンが本当に大好きでして。
 尚隆の魅力が詰まったシーンの1つだと思っています。

 先ほどと同じですが、もう一度引用します。

「見事に何もないな」
 六太はただ頷いた。
「無から一国を興せということか。——これは、大任だ」
 一向に難儀を感じていない調子でそう言う。 「これだけ何もなければ、かえって好き勝手にできて、いっそやりやすいことだろうよ」
 男はあっけらかんと声を上げて笑った。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.26

 は~~~!本っっっ当に、大好きです!!!

 何が好きって、もちろん、六太を安心させるために、自分の感じる責任や不安なんか一切見せずに笑うところも大好きなのですが、焼き尽くされた焦土、溢れた川に押し流された里の数々、妖魔すら飢えて息絶えようとしているほどの荒廃を見て、その悲惨さに心折れるのではなく、そんな状況を、「かえって好き勝手にできて、いっそやりやすい」と言ってのける、その発想の転換!物事の捉え方!

 私はこういう、どんな状況でも、そこに起きている物事を、できる限り前向きに捉えることのできる尚隆という人間の心の強さや賢さに、とてつもなく強く惹かれ、憧れています。

 国を良くする、民に豊かで幸福な国を渡すという、目的が明確に定まっているからこそ、ここまでぶれることなく強くいられるのだろうと思います。本当に敬愛してやまないお方。

 私は、「東の海神 西の滄海」の中で、尚隆が元州の謀反に対処するために築堤工事を始めたことも、もともと人手が足りない、首都を手薄にする訳にはいかない、などといった築堤を妨げる要因があったのを、謀反というきっかけを逆手に取って、人手を集めて謀反に乗じて堤防を作ってしまったのだと思っています。
 これもまた、謀反という危機的な状況を、築堤工事を行うきっかけに変えた、マイナスな状況をプラスに変える尚隆の発想の転換だと感じています。

 そんな頭の良さや柔軟さ、心の強さが、私がいつも憧れ、身に着けたいと思っているものの1つです。


 もう一つ、雁の人々の描写で、同じように発想の転換の心の強さや頭の良さを感じるシーンがあります。

 こちらは、雁に生きた民の描写です。

 老夫婦は荒れ地にあった里の出身だという。堤防が切れて川が溢れ、盧家も耕地も根こそぎ駄目になった。食うに詰め、救いを求めようにも求めるあてがない。それ以前から里府も里家も機能しておらず、堤防が切れて以降は里人も離散して、ほとんど人が残っていなかった。仕方なくほかの里に向かったが、以前はどこの里も他里の者に厳しかった。
(中略)
 「伏し拝んで里に置いてもらっても疎まれるだけだろ。それでここに小屋を建てて居着くことにしたんだよ」
 冬は白湯、夏は水、少量の食料、あるいは、閉門に間に合わなかった旅人に小屋を貸す、そうやって夫婦は食い繋いできた、という。あとは小屋の近くに作った畑、山に入って焼く炭。

新潮文庫「丕緒の鳥」(青条の蘭)P.228,229

 これ!これですよ…。
 私、この夫婦の生きてきた道の描写、大好きなのです。

 そりゃあ、こんな生き方、しないで済む時代、境遇だったらどれほど良かったか、とはもちろん思います。
 けれども、想像を絶する災害と荒廃の中で、持っていたものをすべて失って、食べていく手立てもなくて、そんな状況の中で、絶望せずに、自ら小屋を建てて、1から商売を始めてしまうんですよ…。ガッツがすごい…逞しすぎませんか…。

 ただ、本当に、こんな状況で、こんな風に民が放置されているのは本当はあってはならないことなのですが…。本来はきちんと国がこうした人々を援助するべきですが、この夫婦がこうして生きてきた時代の雁は、空位で王が存在せず、官吏は自分たちだけが特権を貪って政治機構が腐敗している時代でした。
 だから、災害で家や田畑を失っても、何も補償されず、自分たちの力だけで生きる道を見つけ出すしかなかったのですね。


 そのような状況で、彼らが始めた商売というのが、「夏は水、冬は白湯を売る」というのが私はとても好きです。

 なぜならば、水や白湯といった、本来は誰でも入手しやすいであろうものが、生活の足しになるほど売れるというのは、この夫婦が、旅人の通りやすい場所を商売の場所に選んだことと、荒廃や政治の腐敗によって、水や白湯でも手に入れることが困難な人々がかなりいたからなのではないかと思うからです。きっと災害続きで元々あった井戸が涸れたりして、飲み水を手に入れるための労力が上がっていたのだろうなと予想しています。

 だから私は、この、水や白湯を売るという発想は、絶望的な荒廃の中で、そのような状況だからこそ、水や白湯を必要とし、買ってくれる人がいるだろうという、「何もない荒廃」という状況に対しても、そこにある活路を見出した逆転の発想だと思うのです。

 こうした逆転の発想ができる逞しさ、頭の良さ、状況の分析力、そして折れない心。

 この夫婦の生きてきた半生の描写はここにしか綴られていませんが、これだけの描写に、彼らの不屈の精神や行動力、知恵が詰まっていて、感服してしまいます。

 このように、尚隆と雁の民には、「どんな状況においても、捉え方によってその状況を前向きに考える要素と活路を見出す発想の転換を行う」という姿勢が共通して見られます。

 この発想の転換は、「絶望せず、希望を失わない」ことに繋がる心の持ちようと頭の使い方なのではないでしょうか。

 このような発想、捉え方の転換ができる心と頭を持っているから、どんな状況でも希望を信じて行動し続けることができるのだと思います。
 あるいは、希望を失わないからこそ、活路を見つけ出し、発想の転換ができるということなのかもしれません。


 こうした、雁の人々の発想の転換は、「どんな状況であっても、捉え方次第でプラスに考えることができる」「どんな状況にも、必ず活路はある」ということを私に教えてくれました。

 どんな時でも、このことを忘れずに、捉え方を変えて状況をプラスに考えられる、そしてどんな状況でも活路を見出すことのできる、そんな不屈の強さと明るさ、それらに支えられた柔軟な発想力や賢さを身に着けたいと、これもまた、雁の人々の姿から学んだ、私の目標の1つになっています。


 活路はある、と信じられることは、どんな状況でもそこにあるチャンスを見逃さない原動力になるのではないでしょうか。



未来は自分で切り開くものという意志を持ち、自ら立ち上がり行動すること


 雁の民の強さは、希望を信じる、物事の明るい面を見る、といった精神面に留まらず、実際に「行動する」ということが伴っています。

 私が雁の民のことを敬愛するのは、この「実際に行動する」、「人任せにせず、自分で立ち上がる」という行動力が素晴らしいなと思う部分が大きいです。

 雁の民の行動力の高さを感じるシーンは多々ありますが、私がやはり外せない、と思うのは、元州の乱に際して、民が謀反を防ぐために立ち上がるシーンです。

 この時の雁は、長い間の先王の暴虐と空位による荒廃を耐え、新王が登極してようやく、災厄が収まり、自分たちの働きがきちんと生活に還元され、日々食べていけるだけの実りを得る緑豊かな国を取り戻しつつある時期でした。
 そんな中、そうした生活を実現してきた王が謀反により斃れるかもしれない、そうなれば再び空位による災害や荒廃の時代が訪れてしまう、そんな状況に置かれた時に、雁の民は自分たちでそのような事態を防ぐために立ち上がるのです。

 このシーンは本当に、立ち上がる民たちから、自分たちの生活と未来を自分の手で守ってみせるんだ、という強い決意と熱い心に溢れていて胸を打たれます。

 該当シーンを一部抜粋します。

「兵が男でなければならない、という法などない。一人でも多くの兵が必要なのじゃないの?——あたしは頑朴へ行く。そのために来たの」
 激しく瞬く温恵の前に、おれも、と進み出る若者があった。
「おれも、そのために来たんです……何もできないかもしれないけど。おれは意気地なしだって言われ続けてきたから。だけど、このまま王が斃れてしまっては本当に雁は滅んでしまう」
 女はにっこりとその若者を振り返った。
「あんた、少しも意気地なしじゃないわ」
「本当にそうなんです。喧嘩だって勝ったことなんてないし。でも、おれにだって荷車ぐらい押せる。そのくらいの役になら、立てると思うんです。(後略)」
 人の群れの中で呵々と笑った者があった。頭髪の後退した男が赤ら顔を更に紅潮させて天を仰いで笑っている。
「見どころのある者がいるじゃねぇか。おれが一番でなかったのは口惜しいが、こういうことなら負けても悪い気分じゃねえ」
(中略)
「——国府へ行ってくる」
「国府、って」
「頑朴へ行く」
 あんた、と女は眼を見開いた。
「冗談じゃない。頑朴って、そんな」
 夫はほとんど初めて、彼女に慈愛の籠もった目線を向けた。
「おれの両親も兄弟も飢えて死んだ。——おれはお前や子供たちに、そんなふうになってほしくない」
「あんた——」
「王を失えば同じことが起こる。ほかの誰のためでも行かんよ、おれは。だが、お前たちのためだからな」
 ——明けて翌日。司右府の大扉の前には長い列ができた。
 自ら兵役を志願する人々の列である。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.199~202

 いや…すごいですよね…熱い心が沸き立っていますよ…。

 もちろん、これをこのまま受け取って、兵として戦うのが正しいとか美しいとか言うつもりはないのですが。

 ただ、ただ、この、自分たちの望む未来、築き上げてきた生活を、自分たちの手で守ろうと立ち上がり行動するこの気概、覚悟、熱き魂に、心が震え、感服して、私も自分の望むものや望む生活のために必要な時は、何にも臆することなく立ち向かいたいと思わされます。

 そして、ここで数多くの民が立ち上がり行動したことで、元州の乱はほとんど犠牲を出さずに鎮圧されることになります。
 
 つまり、この民たちは自らの力で築き上げてきた生活を守り、望む未来を掴み取ったのだと、私はそのように思っています。

 この後、この民たちの行動に、帷湍が「まったく、涙が出てくるような話だ」と言うのですが、本当に、この一連のシーンの民たちの心の強さには涙が出る…と、帷湍に心から同意してしまいます。


 望む未来を手に入れるため、守りたいものを守るためには、ただ希望を信じて待っているだけではなく、自分でも立ち上がり、自分の力で叶える、という意志と行動が必要だと私は思っています。

 明るい未来を掴むには、希望を信じることに加えて、自分で行動することが必要なのだと思います。


 そして、希望を信じ続けながら、未来のために行動することができた時、その行動はきっと報われて、望む未来にたどり着くことができるはずです。


 雁の民の行動力と、その行動力が状況を好転させ、幸福な結実を迎える物語を見ていると、私はそのように信じることができるのです。


 雁の人々の行動力の高さは、この場面以外にも、物語の端々に見られます。

 元州の民たちも、もともとは謀反を起こすつもりではなく、ただ治水の権を取り戻したく、そのことを王に訴えるために行動したものです。だからこそ、事態が謀反という形になった時には元州は民や官吏の離反が相次いで瓦解しましたが、彼らの行動も、結果的には彼らの望みであった漉水の築堤を叶えています。
 私はこの元州の民たちの行動も、自分たちの生活を守るため、望む未来を叶えるための行動であって、そしてその行動は、彼らの望みを叶え、生活を守ることに繋がったのだと思っています。

 王の当極の折に、国の窮状を訴えるために王の足許に戸籍を投げつけた帷湍、王の覚悟を直接問うた朱衡、他の手段が取れない状況に追い詰められて、王宮まで希望の入った筺を届けるために「行くしかない」とたった一人で自ら荷を運ぶ旅を始めた標仲。
 一人で城下に出かけて情報収集をしたり、単独で反乱軍に乗り込んだりした尚隆の行動力も、雁の人々の気質が現れているように感じます。

 また、尚隆の発した初勅「四分一令」は、民がその号令を受けて、土地を耕す行動を起こさなければ、意味を持たない初勅です。
 荒廃しきって鍬が入らなかった焦土が、緑の広がる大地に蘇ったのは、民たちの立ち上がる心の強さ、行動力、そして日々土地を耕し続ける不断の努力があったからに違いありません。


 雁という国が、荒廃から立ち直り、豊かな大国にまで生まれ変わったのは、そこに生きる人々の、諦めずに立ち上がり、自分の力で何か未来を良く変えようという、不屈の行動力の数々が紡いだ歴史によるものだと思っています。

 この雁の人々の姿、彼らの築いた国の姿、そこに至る物語は、いつでも私に、自分の望む未来のため、叶えたいものや守りたいもののために、必要と思うことは臆せずに行動し、立ち向かおうと思う勇気を分け与えてくれています。


 

自分にできることをすること


 雁の人々の行動力は、いつも私の心を鼓舞し、勇気を与えてくれますが、もちろん個人の行動で、何か状況が劇的に変わるということは、滅多にあることではありません。

 けれども、雁の人々は、そのことで卑屈になることなく、「自分にできる範囲のことをする」という精神が息づいているように感じています。


 私は、このことが、雁の人々の行動力や精神性を、より健全で、強固なものにしていると思っています。


 これはもう、特に感じるのは、「青条の蘭」のラスト近く、標仲の後を引き継いで青条を運んだ人々の姿です。
 この一連のシーンに出てくる数々の人々は、皆、「自分にできるところまで協力する」というやり方で、自分の体力が尽き、限界を感じたら、次に託す人を見つけて依頼し、その連鎖で王宮まで青条を届けました。

 一連のシーンすべてを抜粋してしまうと長くなってしまうので、ごく一部の抜粋に留めようと思いますが、本当に、抜粋していない箇所も含めて、出てくる人物がそれぞれに、「自分にできるところまで」という割り切りを持った上で、自分のできるところまで全力で行動し、限界を感じたら別の人を信じて託していて、私はそのあり方に、より一層、雁の民の強さを感じます。


 すべてを自分だけで背負おうとしない、まずは、自分にできることをやる、というこの精神は、まず一歩動き出す力になるのではないかと思います。

 すべてを一人で背負おうとしたり、一度にすべてを解決しようとしたりして、到底できないことをやろうと思っても、それは実現できるものではないし、やろうという気力も奪われてしまいます。
 逆に、「できることをやる」という意識を持ち、実現可能な行動を取るからこそ、「全力でやりきってみよう」「やれるところまでやってみよう」という前向きな意志のもとに、動き出すことができ、また動き続けることができるものだと思います。 

 つまり、「できることをやる」という意識は、「実際に行動すること」に繋がる大事な要素だと思いますし、そうして行動するからこそ、現実は少しずつ変化し、好転していくのだと思います。


 標仲が限界を迎え、見かねた人々が標仲を馬や馬車に乗せてくれるところから、青条を王宮へ届けるバトンリレーは始まります。


「とにかく急ぐんだろ?分かったよ」
 標仲を抱えて馬の背へと押し上げる。標仲はかろうじて鞍にしがみついた。その背に、男は自身の上掛けを被せてくれる。
「冷えないよう、しっかり掴まえてろ」
 言って、手綱を握った彼は足を踏み出した。
 おい、と人垣の中から声がする。正気か、と。「しょうがない。ちょっと行けるところまで行ってくる」
 晴れやかな声を上げ、男は走り出した。

新潮文庫「丕緒の鳥」(青条の蘭)P.270

 
 いや本当に…何という人の好さ…ここから奇跡の青条バトンリレーが始まるんですよね…。
 標仲の必死の頼みが通じるこのシーン、走り出す男性の「晴れやかな声」という描写に心が救われる気持ちになります。

 ここでこの男性の、「ちょっと行けるところまで行ってくる」という言葉、これがとても印象的です。

 「行けるとこまで行ってくる」、できる限りは手を貸す、最大限に協力する、という何とも人の好い言葉ではありませんか…。

 それでいて、自分の手に負える範疇で協力する、限界を超えてまで無理しない、という健全さを感じるので、私はこの男性の描写がとても好きです。 
 
 この健全さがあるからこそ、「晴れやかな声」で引き受けられるのだろうなあ…。

 この、自分に手に負える範疇の線引きの健全さと人の好さや行動力から来る「自分にできることをする」という精神が、その人の希望と優しさ、行動力を最大限に引き出しているように思います。

 ここから次々と、繋いで託した相手がまた同じ精神で、できるところまでやる、の連鎖が続いていったことが、数多くの人々の命と生活を救う奇跡を起こしたということ、いつでも忘れずに胸に抱いていたい希望の物語と思っています。

「行けるところまで行ってくる」というこの男性の言葉は、この奇跡の連鎖の始まりに相応しい、希望に満ちた象徴的な台詞だなと感じるのです。

 自分にできることをできるところまでやる、その精神は、優しさと希望を生み、そしてその先を誰かを信じて託した時、また託された人が同じ精神を持つことによって優しさと希望が連鎖していくのです。

 自分がそうした優しさと健全な精神を持っているからこそ、他の誰かも同じように助けてくれるかもしれない、という希望を信じることができるのだろうと思います。


 この人の好さ、優しさと健全な精神は、自分の手に負えないことは自分だけで何とかできなくても、誰かに頼ったり託したりしても叶う道があるのだという、希望を信じる力になっているだと思います。


  自分にできることをすること、できる限りのベストを尽くすということが、外部の力や自分以外の誰かを信じ、希望を信じられる力になるのだということを、いつも忘れずに覚えていたいです。


 

一人で対処が難しいことは、周りを信じ、頼ること


 もう少し、「自分以外の誰かを頼る」ということの力について記しておきたいです。

 「自分にできることをやる」という精神の健全さには、「手に負えないことは誰かを頼る」という強さが必要なのではないかと思います。

 私はこの「誰かを頼る」ということは、絶望しない、希望を信じる、ということの一環だと思っていて、同時に、誰にでも簡単にできるものではない、強さの一つだと思っています。

 「誰かを頼る」ことが強さの一つであると感じる大好きなシーンがあります。

「何がなんだか説明ぐらいしたらどうだ。意地を張ればそれでどうにかなるのか」
 標仲は黙した。歯を食いしばり、足を立たせようとする。
「依怙地なこったな。だが、声ぐらい上げたらどうだ。なにやら背負い込んでいる様子だが、それはあんただけで背負いきれる荷なのかい」
 標仲はその男を見た。
 荷は——重い。重過ぎる。
「……くれ」
 うん?——と問い返すように男は標仲の顔を覗き込んだ。標仲は疲労で震える手を伸ばした。
「……助けてくれ」

新潮文庫「丕緒の鳥」(青条の蘭)P.268


 あ~~~~~!!!!!!!!

 ほんっっっとうに、このシーン、大好きなんですよ…!!!


 先の項目での「自分にやれるところまでやる」という健全さとは対照的に、このシーンの標仲は、散々裏切られ、声が届かない無力感を味わい、人を信じられなくなって、「自分が何とかしなければならない」「自分一人でやらなければならない」という思いに突き動かされて必死に歩き続けてきたのです。
 そんな標仲が、限界を悟りながらもやはり一人で何とかしようとして、青条を王宮に届けなければならないという強い思いだけで身体を動かそうとして、そんな時に、人に叱られ、手を差し伸べられて初めて、自分が背負っていたものが重く、自分だけでは背負いきれない、と気づきます。
 
 そしてそのことに気づいた時、「助けてくれ」と差し伸べられた手を取ることのできた標仲に、私はこの上なく眩しい心の強さを感じるのです。

 標仲は何度も奏上したものを無視され、ようやく見つかった協力的な官には裏切られて、何年も苦労して見つけ、殖やすことのできた苗を台無しにされて、そうやって自分たちの想いや努力を何度も踏みにじられて、もう人を信じられなくて当然の経験をしてきたと思います。

 そんな中で、差し伸べられた手を取る、助けを求める言葉が零れたのは、故郷のため、国に暮らす民のため、災厄を防ぎ、彼らの生活を守るために、という強い思いがあったからだと思うと、その思いがどれだけ強いのか、標仲という人間がどれだけ強い心を持っているのかということが胸に熱く伝わってくるのです。


 何度裏切られても、自分の限界を悟った時に、望む未来のために、叶えたい何かのために、誰かを頼ることができるということ、差し出された手を取ることができるということ、私はこれもまた、絶望しない、希望を信じるということの一つであり、人の心が持つことのできる強さの一つだと思います。

 助けを求めるということは、相手を信じるということで、自分の手に負えないことを他人に託すということは、信じて待つということになるので、それはとても勇気のいることだと思うのです。


 そしてそれは、世界と未来に希望を持ち、希望を信じることのできる強さから生まれる勇気だと思います。

 こういうところ、全てが一つの線で繋がっているな、と感じます。
 誰かを頼るという強さもまた、希望を信じることと繋がっているのです。


 誰かを頼れる強さって本当に、眩しく尊いものだと思います。


 

他者への思いやり、優しさ、人のためにできることをすること


 誰かを頼ることのできる強さの一方で、雁の人々の姿から同時に感じるものがあります。


 それは、自分が頼られた時には、できる範囲で人のために行動する優しさや思いやりです。

 誰かを頼り、誰かを助けるということは、どちらか一方だけでは不健全なものになってしまいかねません。
 頼るだけでは搾取ばかりの人間になって自立できませんし、助けるばかりでも疲弊して自分を見失ってしまうでしょう。

 だから私は、「誰かを頼れること」と「自分にできる時は誰かを助けること」は、セットであるのが、理想的なあり方だろうと思っています。

 そして私は、雁の人々のことを、そのことを体現している人々だと思うのです。

 もう、大好きなのではっきり言ってしまいますが、雁の人々、本当に人が好い!!
 困っている人がいたら、できる限り助けようとしてしまう、そんな人の好さを感じます。そして、お節介なくらいに暖かい人たちであることが、たくさんの場面に描かれています。

 優しくて、人のために助けを惜しまないんですよね、本当に。

 人を助ける暖かさに溢れていること、それはここまでに繰り返し綴ってきた、「青条の蘭」に登場するたくさんの民の姿に如実に表れていると思います。 
 これまでに綴ってきたものの、その暖かさや人の好さ、お節介なまでの他者への惜しみない手助けを感じる場面を、ここにも挙げておきたいです。(もう完全に私の趣味)

 おおい、と叫ぶ声に振り返ると、雪の山道を黒い人影が猛然と登ってくる。
「あんた——駄目だ。そっちじゃない」
 距離が縮まってみると、麓の小屋にいた老爺だった。驚いた標仲に、老爺は駆け寄ってきた。
「間に合って良かった。——そっちは駄目だ。道が崩れた痕なんだ」
 雪が地面を覆ってなければ、あるいは遠目が利けば一目瞭然なんだが、と老爺は息を弾ませながら言った。
「この雪だ。間違えるんじゃないかと思ったんだ」 「それでわざわざ追い掛けてきてくれたのか?」
 止めるのも聞かずに標仲が出発してしまったから。慌てて準備をし、大急ぎで追い掛けてきてくれたのだろう。

新潮文庫「丕緒の鳥」(青条の蘭)P.237

 男はとにかく街道を駆けた。いい歳をした大の男が声を上げて泣くから、無視もできない。急ぐと言われたのみならず、夜道は未だ危険だから、取りあえず体力の続く限り走り続けた。

新潮文庫「丕緒の鳥」(青条の蘭)P.274


 いや本当に…何度反芻しても、いいですね。大好きです。
 
 本当に、人が好いと思います。困っている人がいたらできる限り助けようとする、その精神。大の男が泣いていたら無視できなくて、体力の続く限り走り続けてしまうんですよ。これが雁の民の精神性なのかな、と思うと、本当に大好きで堪らなくて、見習いたいと思うのです。

 道を間違えるんじゃないかと思って、わざわざ追いかけてくる老爺も本当に人が好いと思います。振り切るように出ていった相手を、それでも放っておけずに、手助けしようと走ってくる人の好さ、本当に暖かいと感じます。
 できる限り人を助けようとする精神を当たり前に持っていて、どんな状況でも自然にそれを発揮できるのがとても暖かくて眩しいあり方だなと思います。

 この人の好さは、尚隆も大いに通じるものを持っています。

 尚隆も人が好いんですよね。
 困っている人はできる限り助けようとする人だなと感じます。

 救えるものはできる限り救いたい。自国の民に対するその感情は、人の好さというより、上に立つ者としての責務が大きいと思いますが、それでも、尚隆は「そうしなければならない」ではなく、心から「そうしたい」と思って人のためにあろうとしている人だと思います。

 また、自国の民に対してだけでなく、他国に対しても、誼のある人間にはできるだけ手助けをしようとする面倒見の良いところがあります。


 それを顕著に感じるのが例えばこの場面。


「李斎も、戴の民には自分たちを救う手段がない、と言っていました。とにかく、せめて人を遣って泰王と泰麒の捜索だけでも——」
 陽子が言いかけると、それだ、と尚隆は声を上げる。
「戴について分かったことなど、この程度だ。それならばわざわざ伝えに来るまでもない。俺はそれを止めにきた」
「それ?」
「いいか。何があっても、王師を戴に向かわせてはならぬ」

新潮文庫「黄昏の岸 暁の天」P.163


 いやもう、大好きです。

 「それを止めるために来た」って。わざわざ忠告のために他国まで乗り込んできてしまうんですよ。書簡でやり取りしていたのに、止めるために直接来てしまうんです。

 人が好いとしか言いようがありません。

 これ以外にも、尚隆(と六太)は、呼ばれたらすぐ他国に行っちゃう描写が多々あって、いや何なら呼ばれなくても行っちゃうところがあって、泰麒が王の選定に悩んだ時も、景麒に頼られて戴まで行きましたし、阿選の乱鎮圧のために戴から知らせを受けて、内乱中の戴に直接乗り込んでしまいました。

 本当に何というか、フットワークが軽いと言いますか、世話焼きと言いますか、人が好いですよね…。

 このことは、作中でもしっかり指摘されています。

 尚隆は溜息をつく。
「陽子、こちらでは他国に干渉をしないのだ。それがこちらの流儀だからな。自国のことは自国で処断する。他国に協力を求めることはしないし、協力することもない」
「延王は私に手を貸してくれましたよね?」
「それは俺が胎果で、変わり者だからだ」
「度外れたお節介なんだ」

新潮文庫「黄昏の岸 暁の天」P.256


 えっもうこのシーン大好きです。

 度外れたお節介なんだ…。そして、「協力することもない」と言いつつ、あなたしょっちゅう他国に協力するために足を運んで他国まで乗り込んでるじゃないですか…。
 それがつまり…度外れたお節介ということ…。「度外れたお節介」と評される尚隆が大好きです。どこまでも人が好いということですよね…。

 はい、雁国民がお節介なら尚隆もお節介です。
 これはもう国民性と言っていいでしょう。


 本当、わざわざ追いかけてきて道を教えてくれる老爺とか、お節介なまでの親切さですもの。

 民から尚隆まで、人が好くて親切。お節介なまでに人のために行動する人々。それが雁の人々です。


 そして、私は、この、「人のために行動する」ということは、巡り巡って自分自身を助けるのだと思っています。


 まず、「自分が人のために行動する」ということは、自分が誰か他者を頼った時に、同じように「誰かも人のために助けてくれる」ということを信じさせてくれる力になるのだと思います。

 人間は頼った時に助けてくれるものだ、そういう人は必ずいるのだということを、他ならぬ自分自身が実践しているからこそ、信じることができるのではないでしょうか。
 「人のために行動する」ということは、「困った時は誰かが助けてくれるはずだ、頼っていいのだと信じる希望」に繋がるのではないかと思います。


 だから私は、雁の人々の、「他者を頼れる強さ」や「希望を信じられる強さ」は、「自分自身が他者のために行動する優しさや親切心を持つこと」と一体になっているのではないかと思っています。


 また、それとは別に、「他者のために行動すること」、それ自体が自分自身に力を与えてくれることがあるのではないかと思います。

 そのことを表す、大好きな台詞があります。

「……まず自分からなんだよな」
「うん?」
 雲海を眺めていた六太が振り返る。
「まず自分がしっかり立てないと、人を助けることもできないんだな、と思って」
 陽子が言うと、そうでもないぜ、と六太は窓に額を寄せる。
「人を助けることで、自分が立てるってこともあるからさ」 
「そんなもんか?」 
「意外にな」

新潮文庫「黄昏の岸 暁の天」P.468


 う~~~ん!金言…。

 「人を助けることで、自分が立てるってこともあるからさ」

 この台詞、本当に大好きです。

 先の項目でも触れたように、尚隆も六太も、人のためにいつも明るく笑顔で振る舞うところがあって、そういう振る舞いによって、自分自身が本当に明るくいられているという面があるのだろうか、とか、いつもいつも他者のために生きていて、お節介なほど世話焼きな尚隆を見ていて六太がそう感じるのだろうか、とか、一度すべてを失って民に殉じて死のうとしていた尚隆が、雁の民という自分を必要とする存在を得てもう一度生きられるようになったことを指しているのだろうか、とか、色々と考えてしまいます。

 ですが、いずれにしても、「他者のためにあること」は、それ自体が自分自身に力を与えてくれる、ということを言っているのは間違いありません。

 先に挙げた、標仲を追いかけてくる老爺にしても、私は「猛然と登ってくる」という記述が大好きだったりします。

 「猛然と」なんですよ。まともな食事も得られない荒廃の中で、寒さと飢えに耐えて、生きることに必死な、老爺が。他人のために忠告してやらねば、という思いで、「猛然と」追いかけてくるのが大好きです。

 これも、「誰かのため」の行動であることが、自分自身に、自分のためとは違った原動力を与えているということなのではないかと思います。

 自分のため、だけでは頑張れない時も、希望が見えなかったり、何をしていいか分からなかったりする時も、「誰か他者のため」なら不思議と頑張れたりすること、実際に多いと思います。

 雁の人々の姿を見ていると、そのことを思い出させてくれるので、私も、自分が何かに迷った時、頑張る気力が沸かない時は、「他者のため」という視点を持ってみる、という考え方の切り替えができるよう、このことは心に刻んでおきたいと思っています。

 「他者のため」にできる手助けは惜しまない雁の人々の親切心や人の好さ、それによって自分自身もより一層強くあれる、希望を信じられる、そういったあり方が私は大好きです。


 そして、このような人々がたくさん増えれば、自分自身が困った時にも、助けてくれる人に出逢いやすくなります。
 そして更に、「困った時は誰かに頼っていい」という希望が強くなり、自分自身も更に強くあれる。

 他者のためにできる限り手を差し伸べる親切心や思いやりは、自分自身を強くするとともに、そのあり方が社会全体に広がることで、実際に自分自身をも助けてくれるものだと思います。


 自分が強くいられて、それでいて困った時には誰かが助けてくれる土壌がある。

 それってとっても素敵なことだと思いませんか。


 雁の人々は、そんな理想のあり方を見せてくれているように思います。


 

他者に対する分け隔てのない心と振舞い


 雁の人々の人の好さや親切心について、もう1つ感じることがあります。

 それは、その親切心を、誰に対しても分け隔てなく差し出しているということです。

 この分け隔てのなさがあるからこそ私は、彼らの人の好さは本物だなと、より一層強く感じます。

 そして、彼らを見ていると、その分け隔てのない心のあり方もまた、自分に返ってくるものだということも感じさせてもらえます。


 私が特にそのように感じる雁の登場人物が、「青条の蘭」に登場する包荒と、「書簡」に登場する鳴賢の2人です。


 まず、包荒について。
 この人とても好きだな~と感じたシーンを抜粋します。

 最初に会ったのは山の中だった、という。興慶が仲間らと山を登っているとき、降りてくる包荒と行き合った。見て見ぬ振りですれ違おうとしたとき、包荒から声をかけてきた。樵夫かと訊かれたが、興慶らは答えなかった。その沈黙から察したのだろう、「猟木師か」と言った包荒は、その先の尾根にある野木がたくさんの実を付けている、と教えてくれた。途中、蜂が巣を作っている斜面があるから気をつけろ、とも。
 (中略)
 逆の仕打ちなら、それまでにも受けたことがある。山に入る役人、あるいは土地の樵夫、いずれにしても彼らからすれば猟木師は山の恵みを掠め取る盗人だ。浮民のくせに公地を我が物顔で闊歩する。ただ、猟木師は珍しい作物や薬を持っているから、仕方なく存在を許容している。
 だが、包荒は自らと同じく山に生きる民として興慶らを処遇した。顔を合わせれば様様な情報を与えてくれ、訊けば何にでも答えてくれた。悪天候のときなど、身を寄せる場所まで手配してくれたことがある。

新潮文庫「丕緒の鳥」(青条の蘭)P.242


 これです。国を持たない浮民は疎まれることが多いけれども、包荒はそんなことを勘案に入れずに、山で生きる上での危険を教え、それを防ぐ知恵を分け与え、相手が困っている時には助けを差し伸べる人です。

 この描写で私は、包荒という人物に尊敬の念が沸き、大好きになりました。

 誰に対しても分け隔てなく、親切に公平に接するということ、当たり前のようでいて、中々、当たり前のこととして実践できている人は少ないのではないかと思います。
 こういうことを当たり前のこととして振る舞える人には、心から敬意を感じます。


 続いて、鳴賢に関する場面についてもご紹介します。

「今晩、飯のあとでな」
 指を突きつけられたほうは、きょとんと眼を見開いた。
「飯のあと——って何だっけ?」
「虚け者。弓の練習に決まってるだろうが」
 言って、鳴賢は笑い、部屋を出て行く。楽俊は、鳴賢を引き留めかけて、そしてやめた。かりこりと頭を掻く。
「……人の面倒を見てる場合じゃないだろうに」

新潮文庫「華胥の幽夢」(書簡)P.161


 はい。これ、何といいますか、私としては、出た~~!と思ってしまう場面です。
 
 出たな~~雁国民のお節介。

 本当に、いちいちと、人が好くてお節介なほどに親切な人物が描かれるんですよね、雁という国は。

 もちろん、それと対比するように、半獣である楽俊に対して差別的に接する教師や学生がいることも描かれていますし、これに関しては、先の包荒の件にしても同様です。

 けれども、詳細に描かれる雁の登場人物のあり方は、不思議なほどに皆暖かく、お節介なほど親切である描写ばかりのように感じます。


  鳴賢に関しては、頼まれてもないのに友人の弓の練習に付き合って指導しようとしていること、本当に人が好いなと感じますし、世間では差別される対象の半獣である楽俊に対して、半獣であることで見下すことも、腫物扱いすることもなく、自然に声をかけて自然に友人として接している、それを当然のこととして振る舞っている人間性に惹かれます。


 こうした描写を見るにつけて、親切というのは、相手を選んだり特定の属性の人物を排除したりせず、相手自身を見て差し出す、という姿勢があってこそ、純度の高い親切と言えるのだろうと感じさせてくれます。


 また、包荒については、このように猟木師たちに対して親切にし、彼らを助けたことで、その後、包荒が山毛欅のかかる病を止める方法を探す時、猟木師たちの助力を借りられることになりました。

 これは、包荒自身の振舞いが、自分が助けを必要とする時に返ってきた、ということだと感じます。


  親切心、人のためを想い、人を助けることは、そこに、相手の属性や先入観で壁を作らないことでより一層の輪が広がるものであって、そうして与える相手を選別しないことで、自分が困った時に得られる助けも大きくなるのではないかと思います。 

 そして、包荒のように、そうして得られた助けが、現状を打破し、未来を築くのに、不可欠な助けになったりすることもままあるのだと思います。


 やはり、雁の人々の生き方、彼らの物語は、そのような希望を信じさせてくれる力に満ち溢れ、望む未来を実現しやすくするヒントに溢れています。

 分け隔てのない親切心、とても暖かく、強い光輝だなと感じます。


 


望みに対して素直であること、自分の心に従うこと


 さて、このように書いてしまうと、自分にできる限りは「人のため」に動くことだけが唯一の指針のように見えてしまうかもしれません。


 けれども、私が雁の人々のことを大好きだと感じるのは、それだけではなく、同時に、自分の意志がはっきりしていて、自分の心に従った、素直な行動を取れるところを兼ね備えているからです。

 いつもいつも「国のため」「人のため」ばかりが戦う原動力にしている訳でもなく、ここにもまた、私は、健全な心のあり方で望む未来を掴むためのヒントを感じます。

 雁の人々の心のあり方は、とてもバランスが良いなと感じていて、「希望」にはただ信じるだけでなく、「行動」が伴っているから地に足がついていますし、「人のため」だけでなく、「自分の心に従う」ということも同時に実践していると感じます。

 そしてそれは、人を自分の望む未来に連れていく大切な要素なのではないかと私は思っています。


 このことを感じるシーンを挙げます。


「荒廃を目の当たりにすると、蓬莱が恋しくてならなかった。蓬莱のほうがましだと思ったのかな、それとも単に嫌気が差したのかな。自分でもよく分からないんだけどさ」
 それで六太は己に正直に振る舞った。——蓬山を出奔して蓬莱に戻ったのである。はっきり言って前代未聞、おかげでいまも蓬山は敷居が高い。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.145


 この描写本当に好きでして。

 「六太は己に正直に振る舞った。」という文章が大好きなんです。


 六太はいつも誰かを想って、人のために笑ったり、家族のために山に捨てられたのを受け入れて耐えたり、人のため、を行動原理にしてしまう優しいところが強くあると感じるのですが、このシーンでは、王を選ぶという役目も、荒廃した雁も、何もかも受け入れられなくて、それで自分の心に従って思い切った行動を取った六太が描かれています。

 私はこのシーンの六太の行動が実はかなり好きで、というのも、「自分に正直に振る舞う」というのは、自分の本当の望みを知り、そして手に入れるのに、強力に現実を動かす行動だと思うからです。

 六太についても、「王を選びたくない」という己の心に正直に振る舞った結果、何の因果か運命なのか、尚隆に出逢い、結局のところ王を選んでしまうことになる訳ですが、ここで己の心に従ったからこそ、尚隆という、六太が信じて託してもいいと思える王に出逢えたのだと思います。


「尚隆は国が欲しいと言ったんだ。王になりたいとも、位を極めたいとも言わなかった。ただ、国が欲しいって。——おれはそれが単に王になりたいとか偉くなりたいとか、そういうこととは違うように感じた。だから尚隆に玉座をくれてやったんだ」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.186

 

 つまり、王を選びたくないという自身の心に従った結果、尚隆という、「王」という存在を選びたくない理由を超越した王の候補に出逢うことができた、だから彼を王に選んだ、という流れだと私は思っています。

 王を選びたくない、忌避する自分の心に従った行動が、「なぜ王を選びたくないか」という、望まない選択肢の本質的な理由を克服した、新しい選択肢に自身を巡り合わせたのだと思います。


  これは、私は人生を生きていくうえで大事なことなのではないかと思っています。


 望みを叶えるため、自分の心の望む方に行動することは、自分が思っている以上に、思いもよらない形で自分の望みを叶えることがあるのではないかと思います。


 六太はここで選んだ王に対しても、この時に信じきることはできませんでしたが、元州の乱を経て、尚隆を信じることを選んだ結果、自分の望む国のあり方を口にすることができるようになります。


 こうした物語の流れ自体も美しいなと思うのですが、私はここから、望みに向かって、その時その時で、「己の心に従う」ことで、その行動を取るごとに、どんどん自分の望みの純度が増し、本当の望みが見えてくる、そしてその望みにまた正直になることで、最終的に本当の望みを叶えることができる、そういったことを感じ取っています。


 望みに素直であることについて、「国が欲しい」と言い切った尚隆もまた同様だと思っています。

 すべてに別れを告げなければならない、豊かな国ではない、人心は惑っているかもしれない、それでも国が欲しいか、と聞かれて、「……欲しい」とまっすぐに答える尚隆が好きです。


「二度と瀬戸内の海にも島にも戻れない」
「……ほう?」
「それでも良ければ、お前に一国をやる。——玉座が欲しいか」
 六太が見据える視線に、尚隆は静かに言葉を返した。
「……欲しい」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.332~333


 この誓約のシーン、本当に、純度の高い、望みに対してあまりにも正直に手を伸ばす、そうせざるをえない尚隆が大好きで、同時に悲しく切ないシーンだと思っています。

 けれどもここで、己の心に正直になれて、「……欲しい」と言える尚隆が私は大好きなのです。


 いつもいつも人のために生きている人なのに、肝心のところではちゃんと、自分の心に正直になれるから。

 だから思いもよらない奇跡の出会いがあって、尚隆も六太もそれぞれの望みに手を伸ばして、そしてそれを手にすることができたのだろうと思っています。


 物語のこうした部分から、私は、自分の望みに素直になって、心に従って行動することは、望む未来に辿り着く近道になるのだと、そう信じる気持ちが強くなりました。

 望むものがあるならば、素直に手を伸ばすことが、それを叶えることに繋がるのだと思います。

 



祈り、願いの力を信じること


 望みや己の心に素直になること、その純度が高いことは、そこから生まれる手を伸ばす行動はもちろんですが、精神面にも、望む未来を実現できる力が宿っていると思います。

 それは先の項目で綴った、「希望を持ち続けること、未来は明るいと信じること」といったものが大きく、それは行動にも作用するものだから特に大事なことだと思っていますが、それとは別に、私は、祈りや願いといった、心が生むものには、それ自体にも望みを叶える力があるのではないかと信じています。

 これは私自身が、そう信じている、という部分が大きいという話ですが、雁の登場人物の物語の中にも、「祈り」「願い」というものが、それ自体に力のあるもの、大事なものとして描かれているように感じます。


 エピソードからそのことを強く感じるのが、少春の昇仙の経緯が描かれた場面です。


——あたしの盧は梟王に滅ぼされたんです。少しの大人と少しの子供だけが残った。でも全部はとても食べていけないから。それであたしは王母廟に行ってお願いした。仙に召し上げてくださいって。残った子供の中で、あたしが一番大きかったんです。 西王母を祀る廟は荒れ果てていた。折れた柱を渾身の力で支えて請願した。死ぬまで柱を離しません。何があっても決して。飲食を断ち、震える手足で不眠不休で柱を支え続けること二日。王母への賛歌一千唱で五山からの迎えがあった。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.147


 このエピソード、大好きです。少春のこの精神力、尋常でない程に覚悟の決まった強さがありますよね。
 それと、願掛けのためとは言えここまで覚悟決めた行動を実践できる行動力もやはり雁の民だな…と思わされます。


 このエピソードは、天があり、昇仙という仕組みのある、十二国世界ならではのエピソードではあります。
 そういう世界だからこの願いは叶った、というのは間違いありません。

 それでも私は、このエピソードから、「願い」というものは、その心の強さによって、望む未来を手繰り寄せる力があるのではないかと、信じる気持ちを強くさせてもらえるのです。


 もう1つ、同じように感じさせてもらえる場面があります。


「わたしを悪辣だと思うのなら、覚えておくんだね。祈りというものは、真実の声でなければ届かない」
 珠晶はわずか、その柔和な顔を見つめた。
「本音でなければならないんだよ、お嬢さん。——そうでなければ、天の加護は得られない」

新潮文庫「図南の翼」P.383,384 


 このシーンですね。とても象徴的な台詞だと思います。

 「祈りというものは、真実の声でなければ届かない」、ならば、真実の声なら届く、ということではありませんか…。


 「本音でなければならない」というところに、私は尚隆の、「国が欲しい」と言った、その純度の高い望みを結びつけてしまいます。

 それから、自分の心に従ってみることで、自分が本当に望むものは何なのか、徐々に見つけていった六太や、立ち上がって行動することで、自分たちの望みを叶えた雁の民たち。

 そうしたすべてに結びつくので、この場面に出てくる台詞はとても象徴的だなと感じるのです。

 この台詞を、犬狼真君が言う、というのがまた、その思いを強くさせてくれます。

 本当、犬狼真君が言うというのが…良いんですよね…。
 なぜ、というのはもう、十二国記読者の皆様には蛇足でしょう。読んでいない方はぜひ、ご自身の読書体験として物語を楽しんでいただきたいです。


 「真実の声でなければ届かない」、「本音でなければならない」、これらは、望みの純度が高くなければならない、ということであり、同時に、望みは純度が高ければ高いほど叶うものだ、と言っているように感じます。

 「祈り」、「願い」というものにはそれ自体に力があって、強く願ったことは叶う、と思わせてもらえます。

 もちろんそれは、現実では行動が伴ってこそのものではあると思うのですが、ただ、「願う」「祈る」ということは、希望を信じること、叶うと信じることでもあると思うので、そのこと自体に心の強さが必要なのだと思います。

 その心の強さが、実際に望みを叶える原動力になるのではないでしょうか。


 私は、雁にまつわるエピソードの数々から、「祈り」、「願い」というものの持つ力は侮れない、本当に現実を変えることがある、と信じています。


 


諦めない心、生きる意志を強く持ち続けること


 「願い」の他にも、雁の人々からは精神力の強さを感じます。

 特にそれを強く感じるのは、彼らの持つ、諦めない心の強さと、生きる意志の強さです。


 彼らに関して、私は、とにかく生命力が強い!と感じるのです。

 そしてその生命力は、生きる意志の強さと、どんな状況でも諦めない、折れない心から生まれているのではないかと思います。

 これは、先に挙げた「希望を信じる」ということ、そして「自ら行動する」ということに通じるかもしれません。
 希望を信じて行動しているから、どんな状況でも諦めない、生き抜く意志の強さが生まれるのだろうと思います。


 雁の人々の生命力の強さを感じる場面をいくつか挙げながら、その意志の強さを心に刻んでいきたいです。

 ここでは、少しずつ、数を多めに抜粋しようと思います。


 亭主が出してくれた粥は舌を火傷するほど熱かった。米も入っているが、ほとんどが粟だ。米を作るのには手がかかる。庶民が十分に食えるだけの米を作る人手が、この国にはもうなかった。干した茸と青菜を刻んだだけの粥。それでも身支度をする間に冷え切った身体にはありがたかった。旅の疲労で重く怠い身体も、芯が温もると少しだけ楽になった気がする。

新潮文庫「丕緒の鳥」(青条の蘭)P.193

 

 これですよ。この場面、私はとても強い生命力を感じます。

 米を作るだけの人手がない状態で、災害続きで田畑も荒れ果てていて、その状況で、茸と青菜を刻んだ粥が登場するということに、感動してしまうんですよね…。
 何はなくてもあるもので、極力栄養の取れる食事をしよう、丁寧に暮らそうという気概と言いますか、迸る生命力を感じるのです。

 農作物の実りが中々得られないから、茸を採ったんだろうなあとか、想像すると、どんな状況でも逞しく生きる、人の力、知恵というものを強く感じます。


 若者たちは交代で駆けた。なんだか分からないが、国のためだという。国のために働くことにどんな意義があるのか、荒れ果てた国に生まれ育った彼らには分からない。ただ、無為に時間を過ごしていた彼らは、単純に走り、互いの体力を競うのが楽しかった。

新潮文庫「丕緒の鳥」(青条の蘭)P.275

 

 こちらもとても好きなシーンです。

 私はこのシーン、とてつもない生命力を感じます。

 何だか分からないけれども、体力が有り余っているから楽しんでしまう、というフィジカルとメンタリティ。
 どんな時でも、極力その場を楽しむ、という強い精神は、生きる力を与えてくれるように思います。

 この精神、肉体の強さは、希望を失わない、絶望しない、という心の強さにも繋がるものだと思います。

 現状を打破するには、やはり生きていてこそ、と私は思うので、この生命力の強さ、逞しさは、間違いなく現状を打破する力の一つだと思うのです。

 そして、この生命力、逞しさは、どんな状況でも諦めない意志の強さにも通じています。

 斡由は長く元州の柱だった。雁の国土が折山の荒廃に曝される中、元州だけは他州に比べてよく地を治め、人を治めた。元州もまた傾いた国土の傾斜のままに荒廃の波に洗われていくのを止めることはできなかったが、それでも他州に比べればその荒廃も高が知れていたのだ。斡由はよく荒廃と戦った。他州の民が恐ろしい勢いで減り、富も実りも失われていく中で、元州だけはかろうじて踏み留まり続けた。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.242


 これですね…。
 私は、元州の民もかなり好きなのです。

 先の項目でも、治水の権を取り戻したいという望みを叶えるために立ち上がる強さを見習いたい、という話を綴りましたが、この、空位の時代の元州の描写も大好きです。

 ここは、元州の民視点で斡由に焦点が当てられていますが、私はこの「よく荒廃と戦った」というのは、斡由だけでなく、元州の諸官、民たちもすべてだと思っています。
 この、空位の時代は国土が荒れる、という摂理に対して、「荒廃と戦った」というのが好きなんですよね。摂理に抗っている…!

 こういうところに、雁の民の、「どんな状況でも諦めない」という強い精神を感じて、強烈に憧れを感じます。

 そして、ここでは「他州の民が恐ろしい勢いで減り、富も実りも失われていく」とありますが、その裏では、そうした状況の中で、茸と青菜の粥を食べたり、白湯を売ったりして生きている民がいる訳です。

 と思うと、もう!それぞれに、それぞれのやり方で戦って生きている!と思ってしまって、私は雁の民のこの、精神の強さと言いますか、何があろうと生き抜こうとする不屈の精神や、生命力の強さに圧倒されるのです。

 そしてここで、「荒廃と戦った」元州の民たちや、荒廃の中で何とか生き抜く工夫をして命を繋いできた他州の民たち、その両者がいたから、こういう人たちがいたからこそ、雁は50年の空位の間に滅びることなく、尚隆という王を迎えて立ち直り、超大国にまで成長を遂げたのだと思うと、生き抜くってすごい…!諦めない意志の強さってすごい…!という気持ちになって、勇気づけられます。

 どんな状況でも諦めずに抗い、生き抜くことは、願いを叶えるのに根本的に必要なことだと、そんな当たり前のことを、雁の人々の生き様は、改めて教えてくれるのです。

 私は、尚隆が王になるまで、50年もの間、王が見つからず空位となったことを、先王の圧政に苦しんだ雁の民の、王に対する要求水準の高さが王の選定に対して民意として反映された結果なのではないかなと思っているのですが、これも、このようにして、荒廃に抗い、そして気持ちの面で王の選定に妥協せず、空位の時代においても、生き抜くことを諦めなかった民たちがいたから、民の望む王が現れるまで、長い空位を耐えられたのではないかと思っています。

 思えば雁の民たちって、本当に意志が強いんですよね。
 折山の荒廃の中で逞しく生き抜いていた民たちの生き抜く意志の強さ、願いを叶えてくれるまで決して離さないと不眠不休で食事も取らずに柱を支え続けた少春の意志の強さ、檻のない牢に自ら留まり続けた成笙の意志の強さ、生死のかかった状況で王から引き抜きを打診されても自分が信を置いて仕えているのは斡由だと言い切った白沢の意志の強さ、何度も裏切られ、体力が尽きて時間もなく絶望的な状況でも、故郷や国のために決して歩みを止めなかった標仲の意志の強さ、信じた王の治世を守るために全てを擲つ覚悟を決めてそれを実行した驪媚の意志の強さ……。
 枚挙にいとまがありません。

 この意志の強さは、生き抜くこと、望む未来に辿り着くことを決して諦めない、そのための意志の強さであり、その意志の強さがあるからこそ、彼らの物語はいつも、不思議な生命力や明るさに溢れ、そして望む未来を彼ら自身の手で実現する結末が訪れているのだと思います。
 大好きなんですよね…彼らの意志の強さが。
 「意志あるところに道あり」を体現している人々で。

 このような雁の民の、生き抜くという意志の強さ、望む未来を掴むという諦めない心、それらが生み出す生命力、そしてそこから未来が拓けた希望の物語を見ていると、絶対に「生きること」や「望む未来を実現すること」を諦めてはいけないな、と感じますし、諦めずに生き抜けば望む未来は訪れるのだと、私はそう信じることができて、彼らの姿や物語に、自分の心を強くしてもらっています。

 雁の民の姿は、「生きること」、「意志を強く持つこと」の大切さを改めて教えてくれる、生命力と意志の強さに満ち溢れています。


 そして、諦めない意志こそが、明るい未来を実現するのだと、彼らの姿はいつでも私を鼓舞してくれるのです。

 


自分を大事にすること


 最後に、これは最後に書いておかなければならない、と思うことがあるので、その話を綴りたいと思います。 

 それは、「自分を大事にする」ということです。

 これは、ここまでのすべての話に通じることだと思っています。
 そして、このことを最後に書いておかなければならないと思うのは、希望を信じて行動すること、望む未来のために戦うこと、他人のためにできることをすること、そうしたことを私は、雁の人々の姿から学び、憧れて自分にその精神性を取り入れたいと思っていますが、それらが行き過ぎて、自己犠牲になってしまうことは避けたいと思っているからです。

 私は、雁の人々の精神性は、「望む未来を実現する、叶える」ことに対してこの上なく望ましく、近道になる精神性として見ていますし、その観点から見習いたいと思っています。
 ですから、その目的を見失って自分が潰れてしまっては本末転倒だと思うのです。

 けれども、これまでに綴ってきた雁の人々の精神性は、「自分を大事にする」という部分も自然と体現できているように感じています。

 その部分がまた、私が「この人たちすごいなあ…見習いたいなあ」と、理想的な精神のあり方と感じる部分でもあります。

 自分にできるところまで行動する、自分の限界を感じたら周囲に頼る、ということができるのはまさしく「自分を大事にする」ということの体現に思いますし、他者を助ける精神を持ちながら、己の心に従うということを両立していることも、そのバランスや、どちらも大事にして実践しているというところが、彼らの精神に健全さを感じ、心に刻んで取り入れたいと思う部分です。

 この健全さがまた、頼もしくて憧れる要素です。

 彼らの生き方は、決して自己犠牲ではなく、自分を大切にし、自分の望む未来のために行動しているのだと感じる場面があります。

「あたしは戦うために来た。あたしたちに富を恵んでくださる王を守る。あたしはこの子を死なせたくない。殺すことを仕方ないと言って諦めてしまうような、そんな世に二度と来てほしくないの。そのためには玉座に天命ある王がいなきゃならない。王が将来、この子を豊かに暮らせるようにしてくれるなら、いまあたしが王のために死んであげてもいい」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.199

 この台詞です。これは、先に挙げた、元州の乱の折に立ち上がった民たちの一人の言葉です。

 この台詞がですね…「あたしが王のために死んであげてもいい」という言葉や戦いに身を投じる姿勢から、自己犠牲のように見えてしまう部分があるのですが…私はそうは捉えたくなくて。

 この台詞は、「自分がどう生きたいか」を大事にしているからこそ発せられた言葉なのだと思っています。

 「そういう時代だから仕方がないと言って、子どもを捨ててしまうような生き方はしたくない」ということであって、それをしてしまっては、自分が自分として生きられない、ということなのだと思います。

 だから、この台詞は、私には「自分が自分であることを諦めない」「自分が自分であるために戦う」と言っているように聞こえて、この精神を私もいつでも持ち続けたい、自分が自分であることを手放したくないと思わせてもらえます。


 雁の人々の姿は、私の目には「諦めない」の精神で強く生き抜き、未来を切り開く力に満ち溢れていると見えているのですが、この、生き抜くために諦めない、という精神やそこから発する行動力も、「自分が自分であることを諦めない」に通じているように思えます。

 空位になれば災害が起こるということを当たり前と受け入れずに荒廃と戦った元州の民も、家も田畑もすべて失っても湯を売り水を売って生き、可能な限り旅人を助けながら生活していた老夫婦も、十分な実りのない中で茸と青葉の粥を作っていた舎館の亭主も。

 どんな状況でも、「自分が自分であることを諦めない」という彼らのあり方は、「生きる」ということがどういうことなのか、教えてくれるような気がするのです。


 彼らの「諦めない」はただ生存するというだけでなく、自分が自分として「生きる」ということを諦めず、自分であることの主導権を決して手放さないという強さであると感じるのです。

 だから私は、彼らの生き方から学び、彼らの生き方を目標にする時に、「自分を大事にする」ということは忘れたくないと思っています。

 彼らの生き方、諦めない信念は、自分が自分であることを決して手放さないのだから。


 そして最後にこれはおまけですが、尚隆は、自分の民に、自分を大事にすることを求める人なんですよね。

 尚隆は自分の民を心から大事にしている人ですから、民が自分を大事にせず、命を投げ出そうとすれば烈火のごとく怒るのです。

 それは小松家の領主として最後の戦の前に領民たちに自分たちを囮に逃げるよう進言された時も、更夜に「全部滅んでしまえばいい」と言われた時も同じでした。


 尚隆がこういう人物であることも、私が「雁の人間の精神で生きたい」と考える時に、それならば「自分を大事にする」ということは決して忘れてはならないと思う所以です。

 なぜなら、雁の人間の精神で生きたいということは、私にとって「雁国民の心持ちで生きたい」ということであり、雁国民の心持ちで生きるということは、尚隆が大事にしている民の一員の心を持つ必要があると思うからです。

 そうであるなら、私が自分を大事にできないことは、自国民が自分を大事にできないということであって、それは尚隆を悲しませ、怒らせてしまうことだと思うのです。


 そうはしたくない、という感情は、私を「自分を大事にしなければならない」と守ってくれているように感じます。


 やはり、雁国民を目指すからには、我らが王の尚隆さまを悲しませたくはありませんからね。



まとめ


 さて、こんな感じで、私の感じる、雁州国の人々に共通する精神性をまとめてみました。

 今回、これを綴ってみたいと思ったのは、私が雁の人々の精神性が大好きなので、彼らの精神性に共通するものをまとめて何か形にしてみたい、と思ったのと、形にすることで、自分自身がより一層、雁の精神を目指して生きることができたらいいな、と思ったからです。

 そして、自分が何かに迷ったり、悩んだりした時に、雁の人々の生き方から勇気をもらい、自分の心の持ち方や、行動の選択について、ヒントをもらえればいいなとも思っています。


 なので、最後にその観点から、これまで綴ってきた雁の人々の精神性と、そこから感じたことをまとめたいと思います。

 まず、先ほども少し触れましたが、雁の人々の精神性って、本当にバランスがいい!と感じました。

 自分で立ち上がり行動する部分と人に頼る部分のバランスも良ければ、他者のために手を差し伸べる部分と自分を大事にする部分のバランスも良い。
 そして、精神面と、行動面のバランスも良い、と感じます。

 雁の人々を見ていると、望む未来を掴むには、まず「願うこと」がスタートだと感じます。そして、願いがあるならば、どんな状況でも希望を持って、未来は良くなる、望みは叶うと信じて行動しています。 

 私はこの、「願うこと」からはじまった願いは、「信じること」と「行動すること」の両輪がそれを叶えるのではないかと、雁の人々を見ていてそのように感じます。

 ただ希望を信じて待っているだけでは楽観視でしかなくて、他力本願な怠惰に陥りかねません。それでは状況が好転するかどうかは運や他力に委ねられてしまいます。
 行動が伴うことによって、願いは現実のものに叶えることができるのだと思います。

 そして、行動を続けるには、心が折れないために希望を信じることが必要で、同時に私は、恐怖心や焦燥、不安に苛まれた行動ではなく、願いを元に希望を信じて発露した行動こそが、1番に強く、継続することができて、そして願いを叶えやすいのではないかと思っています。


 だから「信じること」、すなわち「希望」と、「行動」はどちらも必要で、相互に好結果を生む両輪だなと私は思うのです。

 雁の人々の希望を信じる心は、ただ信じて待っているだけでなく、行動が伴っているから地に足がついているなと感じますし、そういうあり方を、私も目標にしていきたいと思っています。

 また、「行動」も、決して人任せにせず自分で行動する一方で、自分一人ですべてを抱えることなく、必要な時には誰かを頼って託せるという、「自分で行動する強さ」と「誰かを信じて頼る強さ」という両輪によって支えられているのだということも感じました。

 他者に頼るばかりで自分で行動を起こさなければそれは搾取であって、そのようなあり方では手を差し伸べられることも限られてしまいます。一方で、自分一人でできることには限界があって、自分の力だけで叶えられないことは、誰かに頼ることも必要です。

 そして、誰かを頼った時、自分ができることを行動しているからこそ、その姿を見て、手を差し伸べてくれる人が出てくるのだと思います。


 だから私は、「自分で行動する強さ」と「誰かを信じて頼る強さ」もまた、どちらも必要で、両輪になってはじめて、自分を潰すことなく、望む未来を叶えることができるのではないかと思います。


 更に、自分も人のためにできることをする、困っている人には手を差し伸べる、ということが、誰かを信じて頼る強さを生み出すのではないかと、雁の人々を見ているとそのようにも感じます。

 人のためにできることをすることは、自分にも、自分が困った時は誰かが同じように助けてくれるだろうという希望と、頼っていいのだと、人を信じる強さを与えてくれるのではないかと思います。それと同時に、誰もがそのように、人のためにできることをする、という精神を持つことで、自分も誰かに助けてもらえるということは現実のものとなります。

 雁のように、そうした精神性を持った人々が多い社会は、人々が希望を持ちやすく、また、自分もまたできる時は誰かを助けようという思いも生じる、という好循環が生まれるのではないかと思います。


 人のために手を差し伸べる「優しさ」や「思いやり」、そして他者を、未来を信じる「希望」は、連鎖し、循環して、そのたびに大きくなっていくものだと思います。
 そうした連鎖や循環の結果、未来が変わることを、人は「奇跡」と呼ぶのではないでしょうか。

 雁の人々の心のあり方、生き方、そして彼らが紡ぐ物語は、そうした「奇跡」を信じさせてくれる力に満ち溢れています。


 私も、自分の心にいつも、敬愛する雁の人々のあり方を抱いて、「雁の魂」で生きていくことで自分の人生をより良く、楽しく、望む未来をたくさん叶えて輝かせていきたい。

 そしてその心を誰かに伝え、繋いでいくことで、もっともっと大きくしていき、いつかその力で、現実の何かを、より良く、希望と光に満ちた方へ、変えていくことができたらとても嬉しいと思っています。


 そんな願いは大きすぎて、途方もない道かもしれないけれど、希望を信じ、願いを持ち続けて行動することで、きっと何かが変わるはず、と雁の人々やその生き様はそう教えてくれるのです。


 願うことも、希望を信じることも、それが叶わなかった時に痛みを伴うものだから、それを選択すること、選択し続けることは、勇気が必要なことだと思います。

 だから私は、願うこと、希望を信じること、そして行動すること、それらを何一つ諦めない、雁の人々のあり方はとても勇敢で強いものだと思っています。

 そうした彼らの心の強さ、そしてそこから生まれる行動力を、私は心から敬愛しています。

 雁の人々や、彼らの物語で、私が何よりも好きな部分は、「人間って、こんなにも強く、暖かく優しくあれるんだな」と思わせてくれるところです。
 人間はこんな風に強く優しく生きることができる、ということを教えてくれて、私の心を強く、前向きにしてくれるのです。

 そして、その心のあり方が、生き様が、いくつもの奇跡を起こし、望む未来を叶えていく彼らの物語の数々は、私にとって、彼らのあり方には、望む未来を叶える力が満ち溢れているのだということを教えてくれる物語です。


 そんな雁州国の人々の心のあり方や生き様が、私は心の底から大好きです。

 彼らの精神性を身に着け、彼らの物語から学んだことを活かして、自分の望む未来をたくさん叶えていくこと、彼らのような心で、振る舞いで、彼らと同じ魂を持って生きていくことは、私の人生で、ずっと変わらない目標であり続けると思います。


 だからその目標のスタート地点として、自分がいつでも彼らの生き方を思い出し、その心のあり方に立ち返ってその魂を自分の中に持ち続けられるように、今回、自分なりにその目指すところ、雁の人々の心のあり方、行動の仕方の大好きなところをまとめてみました。
 けれども、それだけでなく、もしもどなたかが、何か一部分だけでも響く部分があって、同じように雁の人々の心のあり方や生き方を好きだと感じたり、何か一部分でも私と一緒に彼らのあり方を心に抱いて目指したいと思ってくださったりしたならば、願いや希望の連鎖を繋げられているようで、私はとても嬉しいです。 


 いつだって、いつまでも、心はずっと、雁国民でありたい。

  


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