折り合いをつけられない私たち「ミッドナイトスワン」「子宮に沈める」
映画を2本見た。
「ミッドナイトスワン」と「子宮に沈める」
数ある映画のなかでこの2本を順番に選んだのは、どちらも「親子」とか「母親」「女」といったテーマを持っていたからかもしれない。
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」
とボーヴォワールは言っている。
人間は他者との関係の中で、何者にでもなりえるということになると思う。
例えば親子関係なら人間は子供との関係の中で親になっていくといえるのではないか。
そこに性別や立場、境遇は関係ないはずだ。
何かを愛する心がそこにあればいい。
「ミッドナイトスワン」には、いろいろな形で何かを愛する心が描かれていると思った。
女の心を持った自分を愛する心だったり、
バレエを愛する心、
友人が美しく成長する姿を愛する心……
「子宮に沈める」の母親だって、育児放棄自体は残酷で無責任というほかないけれど、子供たちの処理を丁寧に済ませた母親が、シャワーの中でむせび泣く姿を見ると、決して子供たちへの愛情がなかったのではないと思う。
それなのに他者との関係、性別や立場、境遇がものすごく大きな壁として立ちはだかる。
それに対して映画のなかの人物たち、そして私たちは、みんな無力だ。
「ミッドナイトスワン」の凪沙は女になるための処置を続けられないし、りんはバレエ以外の道を探すことができない。
「子宮に沈める」の母親も、異性に求められることに女として、ひいては自分自身の価値を見出してしまったために、母親としての役割との折り合いが付けられなくなったのではないか。
普段嫌なことや理不尽に対して、何となく折り合いをつけながら生きなければならない私たちだからこそ、「折り合いをつけられない人たち」究極の選択に走る彼女たちに、激烈な印象を抱くのだろうと思った。