「世界観」という視点。あるいは、活動への想い。
1冊1冊の世界観
本を手に取って表紙を開くと、1ページ目にはタイトルや作者だけが書かれたシンプルなページが待っている。
このページを「扉」と呼ぶのだが、ハリー・ポッターにとって、ロンドンの目立たないパブの裏にあるハグリッドがピンクの傘で叩いたレンガ壁がそうであったように、この1ページ目は日常生活から離れた別世界に読者が足を踏み入れる「扉」としての役目を果たしている。
扉を開いた先で読者を迎え入れてくれるのは、たとえそれが、とある小惑星から来たという王子様と墜落した飛行機乗りがいる砂漠であっても、野良猫からとある島で囚われの身となっている竜の話を聞く雨の夜であっても、魅力的な登場人物やよく練られた舞台背景などにより、見事に1冊1冊独特の空気を生み出している「世界観」だ。
「本に浸る」という言いまわしがあるように、その本の世界観に身を任せ、その世界で吹く風を感じながら主人公とともに生きることは、ただ単なる娯楽や知識の供給源としての読書という行為を超越した、真に本を楽しむ姿勢だと思う。
1人1人の世界観
僕は、本だけでなく人間1人1人にも、それぞれの「世界観」があると思っている。
僕は、人における「世界観」を、出自に始まり、性格や考え方、生き方、軸、信条、価値観、正義感、道徳観、さらには理想や夢にいたるまで、様々な属人的な物事を包括する大切な概念だと考えていて、「自らを取り巻く混沌とした世界にどのように色を塗るのか」と自分なりに定義している。
たとえ、出自が関西人の男、性格は真面目、考え方は論理的……とそれぞれの要素がありきたりなものであったとしても、それが1人の人間としてその人の「世界観」を構成したとき、その「世界観」はユニークな世界に1つだけのものになるのである。
しかし、今日の社会では、様々な差別や偏見、先入観、慣習などにより、扉は蹴破られ、人々の世界観は土足でずかずかと踏みにじられてしまう。「男/女なのだから……」や「……は普通じゃない」といった何気ない言葉が、優しくノックされれば開いたであろう扉を永久に閉ざし、それでも止まることはなくどんどん泥がついたまま上がり込んできて、その人の世界観を破壊してしまうのだ。
日々そうした批判にさらされているうちに、現代に生きる人々は、必要以上に他人の目を気にし、空気を読むという自己防衛手段を身につけた。その結果、あれほど1人1人ユニークだったはずの世界観は薄まり、同質化されてしまっているように感じる。これはある意味で、教育の失敗を目の当たりにしていると言えるかもしれない。
本来、確固とした世界観を持ち、それに従って生きることができれば、自由に社会における自己実現の方法を見出し、より自分らしい生き方ができるはずだ。自分らしく生きることは、明日への希望をもって心から楽しみながら生きられるかどうかに直結するだろう。
子どもの本の世界観
子どもの本とは、1冊1冊の世界観と1人1人の世界観とが融合したものであると思う。
子どもの頃に触れた本は、時に、子どもたちに計り知れない影響を与えるものだ。作家もそれを知っていて、大人向けの一般書と比べても、より深く強い想いが1冊1冊に込められている。
そんな想いには、必ずその作家自身の世界観が反映される。そして、「こういう生き方をしてほしい」「こういう考え方もあるよ」といった作家1人1人の世界観が、登場人物の言動や舞台に反映され、子どもの本1冊1冊の世界観に落とし込まれていくのだ。
しばしば面倒なことに巻き込まれながらも、持ち前の純朴で正直な愛らしい性格ですべてを丸く解決させたパディントンが、「終わり良ければすべて良し」とお十一時を楽しんでいる光景から、楽観的な視点の必要性に気づかれるように、また、普段はおしとやかに学校生活を送っていても休暇中だけはヨット「アマゾン号」を乗り回して「ガタガタにしちゃうぞ」と声を上げる女海賊の船長になるナンシイに、自分らしく生きることの尊さを教えられるように。
子どもの頃の読書体験は、実体験に勝るとも劣らないインパクトを持っており、そうした子どもの本を通して様々な作者の世界観に知らないうちに触れることが、その後の成長過程で思考や価値判断の基礎となるのではないだろうか。
やがて自分自身の世界観に
本は、良くも悪くも能動的に楽しまなければいけない媒体だ。座って観ていれば物語が進んでいく映画とは異なり、手に持っているだけはなく、自分でページをめくり、活字を理解して頭の中で想像しなければ物語を楽しむことはできない。
けれども、それは裏返せば、本から何かを押し付けられることがない、ということでもある。映画であれば、登場人物の容姿から舞台背景まで、すべてがあらかじめ決められており、それを視聴者は受け入れるしかないのに対して、本は、読者が自分の好きなように想像の翼を広げることができるのだ。
これは、世界観という面でも同じだ。本を通して新しい考え方や生き方などに出会っても、本は無理にその考え方や生き方を強要してこない。「他者の世界観は○○だ。じゃあ翻って、自分の世界観はどうだろう? これからどうしていきたいんだろう?」と一旦立ち止まって、自分自身の内面にある世界観とじっくり向き合うための時間をくれる。結果として、新しく出会った世界観を取り込むか、それとも自分には合わないからと本を閉じて忘れてしまうかは、自分次第なのだ。
だからこそ、たくさんの良い本と親しんで、新しい世界観を受け入れる下地を作っておくことが大切になる。たくさんの作品から、たくさんの世界観に触れ、そのうちでしっくりくるものを吸収して、自分だけの世界観に昇華させていく。そうして培ったユニークな世界観に従って、自由に自分らしく生きる。
僕は、そんな豊かな読書体験をより多くの子どもたちに届けたい。
自立した読者を育てる
読書教育の世界では、「自立した読者」という言葉がある。「自ら目的や必要に応じて本を手に取り、自分の力で読むことを楽しんだり、情報を適切に活用したりして、自らの内面を耕していくことのできる読み手」のことで、読書教育を経た理想像の1つとなっている。
Dor til Dorの活動でも、「次の本に手をのばす喜び」を広げていくことを掲げており、自立した読者の育成に資するものだと自負している。
僕個人としては、もう一回り大きなビジョンを掲げていると言えるかもしれない。というのも、現在のビジョンは、「良質な読書体験で自立した読者を育てる」というものだからだ。
僕は、ここで「自立した読者」を、「自分らしく生きており、その生きる原動力が本にある人」という意味に広く自分なりに解釈しているが、本を通して、子どもたちが確固とした世界観を持つようになり、主体的に自分らしく生きる大人に成長してほしいと考えている。
「良質な読書体験で自立した読者を育てる」というビジョンに向けて、読書教育をはじめとする教育学を学び、それを活動に還元することで、子どもたちの世界観を育て、自立した読者を増やしていきたい。
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