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バラトン湖 晩秋

 ブダペストから鉄道を乗り継ぎ、バラトン湖西岸の街ケストヘイを訪ねる。ケストヘイが生んだロマン派の隠れた大家 カール・ゴルトマルク(ハンガリー名:ゴルドマルク・カーロリー)の名を冠した劇場を見つけた時、20年近く前まさに彼のことを調べるためにこの街を訪ねたのを鮮明に思い出した。

今日めったに演奏される機会を得ないゴルトマルクだが、
これまでに室内楽曲をいくつか演奏したことがあり、
彼の濃厚なハンガリー・ロマン派の趣は心地よい。

 雨上がりで、濡れた落葉をスーツケースの車輪に巻き込みながら長い坂道を歩くのは難儀だったが、フェステティチ宮殿の真裏に開業したばかりのB&Bで、バラトンのワインと共に静かなバカンスが過ごせることへの期待は何ものより大きかった。

 バネットの小説にでも影響を受けたのだろうか。若い夫婦が今年6月から始めたこの宿は The Secret Garden という。都会の喧騒はどこにもなく、静かで落ち着いたこの街の、最も美しい時間だけを大切にしている。小さな部屋だが、すべての調度に心配りや洗練が感じられ、スーツケースを置いた時の安らぎは、今までの旅とはどこか異なるものだった。

 聖母教会のささやかなライティングは、この街の美しい静謐を象徴している。夏が終わると、ヨーロッパの日没は早い。

1390年頃に建てられたと考えられている聖母教会。

15 November 2024, Keszthely


 バラトン湖の北岸に少しだけ突き出した土地がある。混沌とした時代に楽園が存在するとしたら、バダチョニはまちがいなくその一つだろう。バラトン湖が見せるこの色は偉大な芸術家でも表せないもので、古代ローマの時代から葡萄の木がこの地に文化を育んできた証。

 ケストヘイの郊外に温泉湖で有名なヘーヴィーズがある。湖全体が温泉になっているのだが、深さは20m以上に及ぶところもあり、かつて噴火口だった名残を感じることができる。つまり、バラトン湖一帯は火山性土壌という、ワイン造りには最適の地。

収穫を終えた葡萄畑が黄金色に染まる。

 午前中からワイナリーを一軒ずつ訪ねて歩く。小規模ながら最新の製法でワインを作っているところもあれば、昔ながらの家族経営で大切に作っているところもある。ハンガリー語で pince と書かれている場所では、何らかの形でワインが楽しめる。ローマの名前を冠した通りを歩いていれば、南向きの斜面沿いに葡萄畑が広がり、その道すがら pince が点在する。バダチョニを中心としたバラトン地方の作り手のワインがリストに並び、思い思いに飲んでいく。この土地に立っているからこそ堪能できる風味。

(左) LAPOSA
(右) HINTA Badacsony

16 November 2024, Badacsony


ティハニ修道院からバラトン湖を望む。

 バダチョニでワインを堪能した後、バラトンフェレドを経由し、バスでティハニに向かった。

 前回は2010年だったが、ハンガリー人の知人に言われるがまま、対岸のシオホークから車でフェリーに乗り込み、気がついたらこの修道院にたどり着いていた。自力で旅をすると、地図上にたしかな足跡が残る。Google Map はティハニまでの距離や交通手段を示してくれるが、どのような起伏を経るのか、どのような景色が車窓から眺められるのかまでは教えてくれない。旅は苦労や失敗があるほど、思い出の濃度も変わってくる。

小高い丘に建つティハニ修道院。

 バラトン湖はハンガリー人にとっては海に他ならないので、ティハニ半島と呼ぶべきなのだろう。その小高い丘には修道院が立つ。この修道院は1055年にアンドラーシュ1世によって建てられたもの。イシュトヴァーン1世がキリスト教を国教とした王であるならば、アンドラーシュ1世はそのキリスト教的伝統を継承し発展させた王と言える。

教会内のオルガンは18世紀に設置されたもので、
バロック時代のオルガン製作技術を象徴している。

 アンドラーシュ1世とその妃アナスタシアを記念した像が屋外に立つ。アナスタシアはキエフ大公国の出身で、2人の結婚は11世紀のハンガリーとキエフ大公国との結びつきを象徴する。現在のウクライナ情勢を考える上で、東欧の歴史を知ることは重要だが、それとは別に、このような愛の形がバラトン湖のほとりで美しい眺望と共に息づいていることに、感動を禁じ得ない。

16 November 2024, Tihanyi


Festetics-kastély(フェステティチ宮殿)

 日曜日は早朝より深い霧に包まれる。秋と冬をつなぐこの時期は日毎に変化が大きく、室内でも外の寒さが伝わってくる。ケストヘイではフェステティチ宮殿の真裏に投宿し、宮殿の庭園を横切って街を往来した。今回の滞在は忘れがたい思い出となるだろう。

 宮殿の見どころはやはり図書館で、フェステティチ家で最大の力を持ったジョルジの功績がうかがえる。図書館は知識と文化の象徴。歴史、哲学、科学、文学に加え、音楽のプレートも棚に打ち付けられており、貴重な楽譜が数多く陳列されている。当時の知識人や学者、またジョルジが設立した農業学校の学生たちにも開放されていたという。開帳を望むばかり。

 宮殿の一室にピアノが展示されている。ヨーロッパでは特に珍しい光景ではないので、いつもであれば見過ごすところだが、ピアノに立てられている楽譜に目が留まった。フランス語のタイトルによると、ジョルジの娘ユリエが作曲した、ヴァイグルのバレエ《アテネの踊り子》の行進曲による6つの変奏曲である。同じ主題でチェルニーも華麗なる変奏曲を作曲している。

 バラトン湖の畔で見た物語の一部である。

17 November 2024, Keszthely

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