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松下幸之助から学ぶ「経営のコツ」

2022.5.27

今日は「松下幸之助勉強会」というものに参加してきた。
アウトプットとしてnoteに書いていこうと思う。

松下幸之助とは?

・パナソニックの創業者(1918年)
・PHP研究所の設立(1946年)
→モノの豊かさだけではなく、モノと精神の豊かさのバランスが必要なのではないかという個人的研究から始まった
・松下政経塾の塾主(1979年)
→若いリーダーを作るため
・亡くなったとき、日本経済新聞・毎日新聞などの新聞メディアに号外といて載るような人物
・2018年5月28日「歴史街道」の調べで日本史上で最も優秀な起業家・経営者ランキング1位

松下幸之助の成功とは?

・アメリカの「タイム」誌で紹介される(1962年)
・アメリカの「ライフ」誌で紹介される(1964年)
→「5つの顔を持つ人物」として①最高の産業人②最高所得者(日本で9年間1番稼いだ)③思想家④雑誌発行者⑤ベストセラー作家(「道をひらく」フォードとアルジャー(アメリカの牧師・作家)の2人を1人で兼ね備えたパイオニアと書かれていた)

松下幸之助のないないづくしの人生

1.お金
・もともと親は和歌山の地主でお金を持っていたのだが、4歳の頃に先物取引で失敗し家の財産が消滅。質屋通いになる。

2.学歴
・小学校4年中退
→昔、小学校は4年制で、その卒業間近に父が大阪に出稼ぎに行ってたこともあり、松下幸之助も大阪で稼ぎにいくことになったため
・関西商工学校夜間部を退学
→大阪に行き、住み込みでの仕事、自転車屋、市電をみて電気を凄いと思い配線の仕事、そして一緒に働いていた人に誘われ関西商工学校入学、しかし漢字が読めないなど授業についていけず、行かなくなり授業料未納で退学となった。

3.身体が弱い
・19歳の頃、急に咽喉がむずむずして咳が出て、おかしいなと思いパッと痰を吐くと血が混じっていた。医者に行くと「肺尖カタル」と診断される。
→帰る故郷がない松下幸之助は、薬を飲みながら3日行っては休み、1週間行っては2日休むといった状態で勤務を続ける。

4.肉親がいない
・松下幸之助は8人兄弟の大家族だったのだが、松下幸之助が5歳の時に次兄・八郎が亡くなり、6歳の時に長男・伊三郎と次女・房枝が亡くなり、11歳の時に父・政楠と三女・チヨと四女・ハナが亡くなり、18歳の時に母・とく枝が亡くなり、24歳の時に五女・アイが亡くなり、26歳の時に長女・イワが亡くなり、26歳の時には肉親が全員亡くなってしまった。

松下幸之助の成功の秘訣

1.お金がない→お金を大切にした

2.学歴がない→周りの知恵(衆知)を集めた
→松下幸之助自身は電気の知識がなくとも成功でき、経営においては知識があるから上に立つものではないということ

3.身体が弱い→人(部下)に任せた
→体が弱く、寝たきりの松下幸之助は布団から部下に指示をしていた(不眠症でもあったので寝れないときは常に考えることをしていた)(松下幸之助の娘は常に布団にいるイメージしかないですと言っている)

4.セレンディピティを持っていた?!

セレンディピティ=偶然の幸運を招きよせる能力
→「セレンディピティ」というのはイギリスの小説家であるホーレス・ウォルポールが生み出した造語で「セレンディップと3人の王子」という機転をきかせながら旅をしてくという童話が語源になっている言葉。

・ついている人、運がいい人とよく言われていた

・松下幸之助が必ず面接で尋ねた質問で「きみはこれまで運がいいか?」というのがあり、「仕事がうまくいったら運がいい、うまくいかなかったら自分が悪い」と言っていた。

困っても困らない考え方

エピソード①
ある部署の社員が、上司がいない時に、会社に松下幸之助が来るといった出来事があった。その社員は「なぜこんな時に上司がいないんだ」と焦りや緊張の中で会社に案内し、そのエレベーターの中で「なにか喋らないと」と必死に出した言葉が「社長って悩みごと多いんでしょうね?」というものだった、その問いに対して松下幸之助は「せやで、でもな悩んでる瞬間、瞬間は一つしか悩まれへんで」と答えた。

→これをどう解釈するかは人それぞれだが、私は悩みが多い人も少ない人も悩んでる瞬間は一つしか悩まれないんだから変わらないよっということだったのではないだろうか。

エピソード②
ある女子社員が「私はカバンが大好きで、もっと買いたいのです。しかし給料が少なくて買えない。」という給料の不満を訴えた出来事があった。そのとき松下幸之助は「給料が少ないのはすみません。でも、こう考えてみてはどうですか?百貨店にあるカバンを全て自分のものだと思って、全部のカバンは家には入らないから百貨店に置いているのだと思って、必要な時に買ったらどうですか?」と回答したらしい。

エピソード③
ある時、会社の工場が倒壊するという事件があった。そして松下幸之助がその工場を見に来た時、社員が「大変です!工場が倒壊してしまいました!」と言うと、松下幸之助は扇子を扇ぎながら「こけたら立ったらええんや」それだけ言って帰っていった。

→松下幸之助にとって、工場が倒壊する位のことは人生で何回もあって、とても見切りが速かった。

エピソード④
ある新聞記者が松下幸之助に「なぜ成功したと思いますか?」という質問に対して、松下幸之助は「天地自然の法に従ったまでです。具体的に言うとすると雨が降れば傘さすと言ったことです」と答えている。 

→「危機に直面しても負けないことや。それを無理せんことです。実際に即して自然体でいくわけや。つまり、時に応じて方策を立てる。早い話が”災い転じて福となす”という気持ちが大事だとですな。そういう気持ちを姿勢にして、事に処すんです。」とも答えており、一つ一つの事に自然体に向き合うことが大事ということだ。

松下幸之助が行った画期的なこと

・日本で初めて中期計画を発表(1956年第一次5ヵ年計画を発表)
・「5年で売上げを4倍に」というの目標を言い、4年で達成させる
→社員が「なんであんなこといったんですか?!」というのに「言っちゃった」と答えていたらしいが、松下幸之助には確信が行けるという確信があったのだろう。
・日本で初めて事業部制組織の採用
→責任が明確であることが、人が育つこととして「任せて任せず」という「思う存分やれ、責任は俺がとる」という心理的安全性を確保しながら行った。
・日本で初めての週休2日制(1960年発表→5年後実施)
→国際競争に打ち勝つために、生産性を高めないとということで実施(これに対して労働組合はそれで大丈夫なのかと逆に反対意見があったらしい)

すべては経営である、すべては人である

「社員稼業」の精神→誰もが独立経営体

社員という仕事の経営者であるという自覚を持つことで「言われたことだけやればいい」と言った考えはできない。
→そしてこの自覚があると「想像もできない偉大な力が生まれる」と言っている。

考えてみてほしい。同じ社員として「サラリーマンマインドで働く人」と「社員稼業といった経営者マインドで働く人」定年までの2人の姿を考えるとどちらがいいだろうか?

人を大切にした理想の組織

①組織より人
②組織の官僚化は経営の最大の敵である
→どうしても無駄が生じてしまう
③新入社員でも社長にものが言える気風を
④課の成績が上がらないのは課長の責任
⑤一人一人が自分の仕事を一つの経営として考える
⑥一人の目覚めは全員の目覚めに通じる
⑦人の組み合わせによろしきを得る
⑧大きな歯車も小さな歯車も必要である
⑨中小企業ほど強い
→任せられる仕事が多くポテンシャルを高めれる

おわりに

どんなに時代が変わっても、本当に大事なことは変わらないのだと思う。
「経営の神様」と呼ばれる人でさえ、考えられないような不幸や挫折があり、そこから成功者と言われるまでになっている。
なぜ成功者に松下幸之助はなれたのだろうか?
私は「どんな状況でも諦めず、誰よりも考え、誰よりも当たり前のことをやったから」だと思う。

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