好きなものを守ること―カント、スピノザ、Twitter
ネットを見ていると、他者の意見の表明を目にして不快感を覚えることがある。時には、自分の好きなものを他者によって侵害された気分になることもある。自分の好きなものの領域を他者の浸食から守るにはどうすればよいだろうか。
人それぞれの合目的性
カントによれば、快・不快の感情は客観ではなく主観にかかわるものであり、それは合目的性という原理にしたがう。
「対象が合目的的と呼ばれるのは、対象の表象が直接に快の感情と結合されているという理由にのみ基づいており、またこの表象そのものは、合目的性の美感的表象である」(『判断力批判』、序論7)
「規定された認識のために直観がある概念と関係せずに、快が直観のある対象の形式のたんなる把捉と結合している場合には、表象はこの把捉によって客観に関係づけられるのではなく、もっぱら主観に関係づけられる」(同上)
要するに、快の感情は、対象の表象と主観のうちで結びつけられるものであり、対象の表象と快が結びついているとき、その対象は合目的的とよばれる。合目的性は快の感情に基づいており、快の感情が主観のうちで生じるものであるならば、合目的性も主観にかかわるということができるだろう。このことは実感を持って感じられる。自分が快の感情を覚えるもの、好きだと思うものは、〈自分にとって〉合目的的である。自分が合目的性を感じる音楽、人、本、漫画はどこか類似性をもっているような気がする。しかし、自分が好きなものを他人も同じように受け取るとは限らない。
意見の表明の背後にあるもの
自分が合目的性を感じるものと他者が合目的性を感じるものは異なる。異なるものは時に衝突しうる。ネット上の意見の表明は基本的には他者に見てもらうことを目的としており、人は目的の達成によって満足(=快)を覚える。だから、自分の意見を表明する行為はその人にとって合目的的だといえる。人がそれぞれもっている合目的性は時に衝突するのだから、他者の意見を目にして自分が不快な気分になるのは当然かもしれない。
カントは、快の対象のうち、「美しいもの」と「快適なもの」を区別する。両者の違いは、美しいものの判断(趣味判断)には普遍的妥当性が求められるが、快適なものの享受は個別的であることにある。たとえば、ある人が「このバラは美しい」と言うとき、そのバラは実際にすべての人にとって美しいものであることになる。一方、「快適なもの」の享受に際しては、ある人が「このワインはおいしい」と言うとき、他者が同じ対象を指して「このワインはおいしくない」と言う可能性が認められる。ある人にとって「快適なもの」が他の人にとってもそうだとは限らない。しかし、「快適なもの」の享受においても人は往々にして他者の同意を求めてしまう。他者の同意を得ることは、それ自体快をもたらすからだ。
好きなものを守る
自分が合目的性を感じる領域、つまり好きなものの領域を守るには、不快になるような他者の意見は見ないのが一番だ。しかし、不快な気持ちになると分かっていてもつい気になってその意見に目を通してしまうことはある。自分がネットで見ていて気分を害される意見を、(1)明らかに的外れで見当違いな意見、(2)誰かの炎上において飛び交う意見、(3)正当性はあるが陰鬱な気分にさせる意見 の3つに分類してみる。
このうち、(1)は本当に見る価値がない。例えば陰謀論者の意見がそれである。地震が起こるたびに「これは人工地震だ」と騒ぎ出す人たちの意見を見ても百害あって一利ない。こうした人たちの意見を見たくなるのは単なる好奇心であり、怖いもの見たさに近い。しかし、こうした人たちの意見に触れて少しの間嫌な気持ちになるのなら、そんなことのために時間を割くのは無駄でしかない。
(2)について。炎上には理由がある。過度に炎上することはあっても、(炎上にはなんらかの理由があるという意味で)不当に炎上することはない。だから、誰かの炎上からは何か学べる可能性がある。たいてい、炎上する側もさせる側もそれぞれ何かしら悪いところがある。誰かの炎上について調べ、その原因、誰が悪いのか、何が悪かったのかを考えることで自分の教訓にできる可能性はある。しかし、炎上にまとわりつく意見の表明を見ているとどうしても嫌な気分になってしまう。スピノザ『エチカ』にこう書かれている。「憤りはたしかに公平のような外見をそなえて見えるが、各自が勝手に他人の行いをさばき、自分または他のだれかの権利を勝手に主張してかまわないような状況は、無法状態の生に等しい」。わざわざ無法状態の生を自ら見物しにいき、いたずらに気分を動かされるのなら、そもそもそれを見にいくべきではない。
(3)について。たとえば日本の将来を憂慮する意見は、それが事実に反するものでない限り、上の二つとは違い、的外れでも、野蛮でもないかもしれない。客観的な根拠に基づいたものであれば、そうした意見には少なくともある程度の正当性がある。それでも、それらを沢山目にしていると陰鬱な気分になってしまう。そうした意見には目をつぶらずきちんと向き合うべきかもしれない。しかし、ネット上の発言に関する限り、そうした発言が自分の行動に影響を及ぼすことはほとんどない。顔の見えない他者が呟いた意見に気分を動かされることはあっても、自分がそれを受けて実際に動く(=なんらかのアクションを起こす)ことはほとんどない。せいぜいそこで得た知識を糧として誰かに語るくらいだ。
そうした陰鬱な気分にさせる意見が自分の行動に影響を与えず、ただ知識を得させるだけなら、そうした意見に触れることによって得られる知識と、その意見によって下降する気分とを天秤にかけたとき、勝つのは後者だ。もし本当に憂慮していることがあるなら、ネットで顔の見えない他者の意見に触れて一喜一憂する時間を、本を読んで知識を得たり、自分が実際にアクションを起こしたりすることに充てた方がよい。
ネットでは、一度クリックした情報と類似の情報がサジェストされてしまう。一度自分の気分を害されるような意見に触れると、それに関連する立場の意見が次々と目に入ってくる。そこがネットのよくないところだ。一つそのような意見に触れるだけならまだ耐えられる。例えば、(3)に分類される意見は少し目にするだけであればむしろ自分にとって善いものになりうる。しかし実際には、一度ある意見をクリックしてしまうと、目に入ってくる意見がそれに関連するものであふれてしまい、それらに自分の思考が支配されてしまう(定年退職したおじさんの一部が右傾化するように)。
そうなってしまうくらいなら、たとえ自分にとって有益な情報や教訓が得られる可能性があるとしても、ネットの意見は見ない方がましだと思う。自分の合目的性の殻に閉じこもるのは不健全な状態かもしれない。でも、自分の合目的性の殻を破る場所はネットでなくていい。