連載「若し人のグルファ」武村賢親33

「ですが小糸は、私の告白を受け入れてくれました。深く掘り起こそうとすることも、教義を持ち出すようなこともしません。ただ、それがあなたなんでしょうと言って、縋りついた私を優しく慰めてくれました」

「それで小糸についてきたのか」

「はい。ひとつの条件を提示して、小糸は私に選択肢を与えてくれました」

 小糸の出した条件。それは当時のマティファにとって、甘美とも、酷とも取れるものだった。

『この場でわたしを抱きなさい』

 小糸らしい、と思った。相手がもっとも求めているものと、もっとも忌避しているものが同じものだと即座に見抜き、両方同時に突きつける。あの人を食ったような薄ら笑いが脳裏にゆらめいた。

「それで、抱いたのか」

 マティファは俯いて、小さく二回、うなずいた。

「恭介さん。『グルファ』という言葉をご存じですか」

 次に顔を上げたとき、マティファはそう切り出した。

 車は中井駅を通過して、三一七号線を南下している。あと五分も経たたず、小糸のマンションが見えるはずだ。

「いや、初めて聞いた」

「他言語には翻訳できないアラビアの言葉です。日本にも『木漏れ日』とか『詫び寂び』なんかがあります。この『グルファ』という言葉の意味は、『片方の手のひらにのせられるだけの水の量』という謂です」

 マティファは片方の手のひらを皿のようにして、その中に視線を落とした。

「もし恭介さんが、長い間砂漠を彷徨って、やっと辿り着いたオアシスの水が『片方の手のひらにのせられるだけの量』しかなかったら、どう感じますか? その水に口をつけて、舌の上にふくみ、干からびたような喉を伝う水の感触を認めたとき、恭介さんはいったいなにを思いますか?」

 真に迫るようなマティファの語りに、思わず唾を飲み下す。

 いや、真に迫る、ではないのだ。マティファにとってその砂漠と形容した状況は、実際に体験してきた過去なのだ。

「私にとって小糸は、どれだけ祈っても得られなかった水でした。たとえ『グルファ』だったとしても、そのときの私にとっては救いでした。小糸の肌へ口づけを落とす度に、言いようのない幸福感が私の背筋を駆けあがり、頭の上で弾けます。まばゆいばかりの背徳感です。神(アッラー)に背いたその先に、私の救済はありました」

 マティファは一寸ほどの身動ぎもせず、まるで絵物語の朗読かと思えるほど情緒豊かに語り上げた。その頬はかすかに上気して、赤く艶めくようだった。

 そうしてマティファは小糸の出した条件を完遂してともに日本へと渡ってきた。

 目的地のマンションが見えてくる。一緒に住んでいるということは、小糸はいまでもマティファの欲求を受け止め続けているのだろうか。マティファが日本へやってきた経緯も、小糸のもとに留まる理由も判明した。

 しかし、それでもまだ腑に落ちない。

 たったひとつの条件を満たしたからと言って、日本での衣食住、さらには働き口まで提供するほど、あいつは律儀な奴だっただろうか。聞けば渡航のための費用やパスポートの代金も小糸が立て替えたのだと言う。脳裏に浮かぶ小糸と、たったひとりのために奔走するあいつのイメージが重ならない。

 母親の死を知り、妹の存在を知り、マティファに運命を選ばせるような選択を投げかけてまで日本へ連れ帰り、ずっとそばにおいておく理由はなんなのだろうか。

 まだ語られる言葉がないかと待つが、マティファはすべてを話し終えたと言わんばかりの顔をしてシートの窪みに収まっている。

 マンションの敷地に入り、エントランスに車を寄せる。
「両親の事故のところで言葉をかけられていたら、私は恭介さんにあまえてしまって、最後まで話すことを辞めていたかもしれません」

 ドアを開ける直前、マティファはそんなことを言った。

 車から降りてドアを閉めると、マティファは思い出したように振り向いて、見送ろうと全開にした窓に、そういえば、と手をかけた。

「日本の『口寂しい』という言葉も翻訳できないんです。けれど似た表現がドイツ語にあって〝Kummerspeck″と言います。そのまま訳すと『悲しみのベーコン』です」

「悲しみのベーコン」

 復唱するとその単純な響きがいかにも滑稽で、ついおかしさが込み上げてくる。

「きみはきっと良い翻訳家になれるよ」

 口元と一緒に気が緩んだ一瞬の隙を突かれて、マティファの鼻先が頬に触れる。

 これはお礼です、という言葉だけを残して、マティファは駆けていってしまった。

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