連載「若し人のグルファ」武村賢親31
「すみません。お昼ごろまでは晴れていたので、天気予報を見ずに出てきてしまいました」
そう言ったマティファは濡れ羽色の髪を押さえるようにして、すでに色の濃くなったハンカチに水気を吸わせようとしている。濡れて肌に張りついているカッターシャツに下着の柄が透けていて、できるだけ首から上だけが映るようにバックミラーの向きを調節して、身体が冷えないよう冷房の温度をすこし上げる。
「今日仕事は?」
「土曜日は固定のお休みをもらっています。ですが今日は、昨日に引き続き臨時休業です」
衣服の状態に気づいたらしいマティファが背もたれのうしろにそっと移動する。助手席のダッシュボードの下から窓拭き用のタオルを取り出して、振り返らないように差し出す。この間桑原にもらったばかりの新品だ。目の前で封を切って見せたため、マティファは素直に受け取ってくれた。
「どこかで着替えでも買おうか」
「いえ、いまパスモしか持っていなくて。すこし観光するだけのつもりだったので」
しきりに手を動かしながら、背もたれの影から顔だけを出して話すマティファに、小糸は一緒じゃないのかと聞く。
「小糸は、お店にいます」
「なら店まで送ろうか」
「いえ。今日は客間の模様替えと戸棚の運び込みで業者の対応をしています。行っても迷惑をかけてしまいますから」
ひとことふたことなら気にならないが、長文になると途端に海外訛りの発音が混じる。マティファの生まれが日本でないことは肌の色もふくめて初対面のときにはわかっていたことだが、それでもどうしてこんなに流暢な日本語を話せるのか、不思議に思って聞いてみる。
「モロッコでは日本の演歌が流行っていました。それに母が日本人だったので、家では日本語を使うこともありました」
母が日本人。
どうしてもその言葉が引っかかった。小糸が告げた衝撃の姉妹宣言を、俺はまだ完全に信じていない。それは告白したのが小糸であるという以前に、俺が目撃してしまったふたりのキスシーンによるものだった。
真相は、本人に聞く方がなにかと手っ取り早い。しかしプライベートな話であるがためにどうしても躊躇してしまう。
そうこう考えているうちに、マティファと目が合った。恭介さんはどうしてここに、と世間話の延長が続く。
「弟の父親を見送ったところなんだ」
「弟の父親?」
しまった、と思った。マティファの口にした「母が日本人」よりもずっと引っかかる言葉が自分の口から出ているというのに、一切違和感を覚えなかった。
弟の父親は、恭介さんの父親では? と首をかしげるマティファに、これはもう誤魔化しようがないと同居している丑尾のことを、名前と性別は伏せたまま教える。
血は繋がっていないが、子どものころから弟のようにかわいがった幼馴染が居候していて、そいつの父親が同僚の墓参りで上京していたのだと、なるべく難しい言葉を使わないよう注意しながら話す。
マティファは理解できなかった言葉もない様子で、うなずきながら、たまに微笑みながら俺の話を聞いていた。
「やっぱり私たち、似ています」
そのひとことに別の心臓が羽ばたくような気がした。
同時にマティファがくしゃみをして、小さく身体を震わせる。
家まで送ろうと車を出す。小糸の住所は知っていて、もし一緒に暮らしているなら場所はわかると言うと、マティファは二回うなずいた。
「わたしも、小糸のことを姉と思って慕っています。信じてもらえないかもしれませんが、私たちは半分だけ、血のつながった姉妹なんです」
バックミラー越しに後部座席を見やる。マティファは背筋を伸ばしてきちんと座り、シトリンを思わせる瞳を窓の外に向けながら、同じ母親で、父親が違うんですと、淡々とした声音で告げた。
そこまでは、小糸からも聞いた話だった。小糸を生んだ母親がどういう紆余曲折を経てマティファの生まれたモロッコに流れ着いたのかも気になるが、俺が聞きたいと思っているのはその先の、マティファがどうして小糸のもとへやってきたのかというところだった。
しかし答えを急かせば、丑尾との喧嘩の二の舞になるかもしれない。聞いてしまいたい気持ちをぐっと堪えて、マティファの独白を遮らないよう相槌を打ち続ける。
するとマティファの声が小さくゆれて、言葉がぽつぽつと途切れだした。
話はモロッコでの暮らしぶりを経て、彼女の高校生活に及ぼうとしていた。
「犠牲祭(ライード)の、羊を買うために、出かけた先で、先で……」
あきらかに声の様子が変わった。言いづらいことなら無理しなくていい。そう言ったが、マティファは首を横に振って、大丈夫です、言語化することで得られるカタルシスもありますから、と深く何度も呼吸をした。
言語化によるカタルシスか。ずいぶん難しい言葉まで知っているんだな。
甲州街道を折れて三〇五号線に入る。マティファと似た肌色の男が新宿三丁目駅の入り口に駆け込んでいくのが目に入った。その男も傘をさしていなかった。
「私が、十六のときです。犠牲祭の羊を買うために出かけた先で、私たちは事故に遭いました。海産物を載せたトラックが信号を見落として止まりきれず、前の私たちに追突しました。車は交差点に押し出され、左からきた乗用車に衝突。後部座席の右にいた私は軽傷でしたが、左側に乗っていた母は病院で、運転席の父は頭の打ちどころが悪かったらしく、即死でした」
マティファは一頻り話し終えると、息をついて背もたれに身体を預けた。
俺はかける言葉が見つからず、ただ沈黙した。
死別体験など、小学校低学年のときに祖父を亡くして以来、一度もない。こういうときにかけるべき言葉を、あまりに知らなさすぎた。
「そして私は、父のもうひとりの妻に引き取られて、しばらくの間、養ってもらいました」
マティファが話を再開した。ご愁傷様というありきたりな言葉すらかけてやれなかった自分を不甲斐なく思う。
「けれどその人の家系はみんな熱心なイスラム教徒で、結婚に際して改宗しただけの母に育てられた私には、彼らの守る教義は窮屈すぎました。父は、信仰は神(アッラー)と個人との契約であって他人に強制されるものではないと、そう言っていました。ですがその家の人たちは、私に同じ敬虔さを要求したのです」
信仰の強要。宗教に疎い俺にはわからないつらさだ。
事故による怪我や家族の死についてなら、まだ同情が及ぶ。しかし仏教徒ながらクリスマスも正月も祝う典型的な日本人の俺に、イスラム教の、ましてや敬虔なイスラム教徒の生活など想像もできない。
「母はなにも、信仰を蔑ろにしていたわけではありません。父とともに楽園へいくため、礼拝(サラー)も断食(サウム)も行っていました。私もそれに倣っていました。しかし彼らはそれだけにとどまらず、服装や挨拶の仕方まで指定してきたのです。息の詰まる、地獄のような二年間でした」
ニュースで目にする程度の知識だが、イスラム教の女性は極力肌を見せず、ヒジャブという布を被るのだそうで、地域によっては口元まで隠して生活しているという話も聞いたことがあった。
「そんなとき、母の友人の報せで駆けつけてくれたという小糸に出会って、私の人生は変わりました。小糸が私を、救ってくれたんです」
「救ってくれた?」
まるで小糸が救世主かのような言い方だった。
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