連載「若し人のグルファ」武村賢親38
なにを、と慌てる俺を制して、小糸は燃えるヒジャブを見下ろしながら続ける。その身体は見てわかるほどに震えていて、それが怒りからくるものだとわかるまで、たいして時間はかからなかった。
「愛情を注がれて、教育も受けさせてもらえて、それでいて神を疑うなんて贅沢までできて。ほんと、身売りまでして必死に生きてきた自分がバカらしくなってくるわ。こっちは神に祈りを捧げる余裕すらなかったって言うのに!」
壺の底が抜けたかのように、小糸は自らの半生をぶちまけた。
父親にネグレクトされて幼少期から飢えに苦しみ、保護された施設ではこころない担当者に罵声を浴びせかけられ、すこしでもマシな生活を夢見て勉強に精を出したが学費が足りず、不足したぶんは売春に手を染めて賄った。
長い間孤独に耐えていた身体は人肌のぬくもりに中毒を起こし、しばらく触れ合わないでいると禁断症状で身体全体がかゆくなった。
社会に出て店を持ってからも、雇う従業員それぞれに自分にはない家族や家庭があって、ひどい劣等感に苛まれる。
それでも無理やり笑顔をつくって、たったひとりでも大丈夫だと、人のせいにしないで、わたしは今日までやってこられたのだと、わずかな自尊心を盾に生きてきた。
けれど、海の向こうから報せが届いた。記憶のどこにもいない母親が、はるか遠くのモロッコという小さな国で死んだのだと、実感の湧かない悲しみを連れて。
子どもを産んだことはないけれど、宿したことのあるわたしにはわかる。毎月こんなつらい思いをしてまで生んだ子どもを、なんの理由もなくおきざりになんてしない。
そんな淡い希望を抱いて飛んだアフリカの赤い大地で、不運にも、自分以外の子どもの存在を知った。しかもその子は両親の愛を一身に浴びて、身体を自ら傷つけるようなこともなく、幸せに十六歳まで育ったのだというのだ。
「嫉妬くらいしてもいいじゃない」
俺に向き直った小糸の瞳は、底知れない黒を浮かべて爛々としていた。
「あの子がレズビアンだって告白してきたとき、わたし踊り出しそうになったわ。復讐の鍵が見つかったって。あなたがわたしの代わりに愛したこの子は、わたしのエゴで、体液で、まずはぐっちゃぐちゃに穢されるのよって」
狂気すら感じる情景だった。ヒジャブの灰は換気扇の風で舞い上がり、小糸と俺の間に降り注ぐ。あまく絡みつくような匂いと灰の焦げ臭さが混ざってむっとなる。
「本当に、それが理由なのか」
「だってお母さんはもう死んでいるのよ。墓を掘り返したってそこにいるわけじゃない。死者への復讐はその人が信じて残したものを徹底的に壊して初めて成るものじゃないかしら」
言っている意味が解らない。それとマティファの願いを叶えたことがどう結びついて復讐になるんだ。
いったいどれだけの間、小糸と対峙しているのかわからない。こめかみを流れ落ちる汗は冷たく、服はじっとりと重くなっている。舌の根が乾いて、ベタベタとした苦みを感じた。
「本当にわからない? あなたもその片棒を担いでいるかもしれないのに。昨日どうしてマティファが新宿に出かけていたのか。教えてあげる」
小糸はマブサムを取り上げて、唇の間に咥え込んだ。そして胸が膨らむほど煙を吸って、吐き出しながら、あの子、祈祷室にいったのよと、呆れるような顔をしてみせる。
「祈りもしないくせに。前日に教義をたくさん破ったから、不安になったのかもしれないわ」
教義を、破る?
そのとき、屋上での光景が脳裏を掠める。
ホットドッグを食べて涙を流していたマティファ。
彼女はソーセージにかじりつく直前、「もう違いますから」と呟いた。
イスラム教では豚肉を禁じている。ソーセージに使われた肉がなんなのか判然としないなら、イスラム教徒の人間は決して食べようとはしないはずだ。
「最後の審判って、知っているかしら?」
俺が首を横に振ると、小糸は嬉々としてその概要を話した。
この世界は神によって創造され、不可逆的な流れの中でゆっくりと終焉へ向かっている。世界の終わる最後の瞬間、人類は生者も死者も神の前に呼び出されて「神に祈祷(いのり)を捧げたか」と問われ、罪を裁かれるのだという。天国へいくか地獄へいくか、来世の運命がそこで決まるのだ。
この祈祷(いのり)というのが、イスラム教でいう礼拝や、教義を守ることなのだと小糸は語った。
「てことは、マティファはもう天国へはいけないって言いたいのか」
小糸は満足そうに微笑んで、小さく二回、うなずいた。
「そう。お母さんは最後の審判で、愛した娘ともう一度、今度はわたしのせいで引き裂かれるの。そして天上の楽園から、地獄で苦しみ悶え続けるわたしとマティファを見るんだわ」
煙の向こうで、小糸が嗤う。目の前にいる女が、なにかべつの、得体のしれない生き物であるかのようにゆらめいて見えた。
「お前に受け入れてもらって、自分は救われたんだって。あいつ、感謝すらしていたのに」
薄く漂う煙の奥で深紅の唇を歪ませながら、小糸だったなにものかは恐怖をかき立てるかのような嘲笑を上げた。
「お生憎さま。あの子は神様に背を向けたって言ったけれど、神の対極にいるのは悪魔。あの子はわたしにそそのかされて、お母さんとの最後のつながりを、自分の手で捨てたのよ」