連載「若し人のグルファ」武村賢親37
俺はなにも答えられなかった。知らぬ間に全身に力が入り、寒くもないのに小刻みに震えている。シーシャの煙を吸い過ぎたのか、こめかみの血管がずくずくと痛んだ。
「もくろみが外れた?」
小糸の手が肩にかかる。耳元で紡がれる言葉は、まるで悪魔のささやきのように聞こえた。
「聞いたわ。リニューアルまでの経緯。やさしいのね、あなた。あの子のために展示スペースをつぶしたんでしょう」
かつてない大きな戦慄が全身へと駆け巡る。
息をするのも忘れ、ただ、緘黙する。
あの子をわたしみたいな好奇心から守ろうとしたのね、売り場をつぶしてレジをなくしたかったんだ、見習いの仕事は掃除とレジ番なんですってね、どうやったって接客からは逃れられないもの、あの子がお客さんから、あの子自身のことで踏み込んだ質問をされないように気をまわしていたんでしょう。
「過保護なおにいちゃん」
そう言って小糸は俺の耳に唇を押しつけた。てらてらと濡れた音が頭の中に入りこんで、思考をかき乱す。
思い違いだと、反論したかった。だがそれに必要な言葉は音として形を成す前に、からからになった喉の下で虚しく散り散りになってしまう。
「お前は、どうなんだよ」
やっと絞り出した声は、擦れ、震えて、ちゃんと小糸の耳に届いたのかも疑わしかった。
「マティファが血のつながった妹だからって、日本に引き取ってくる必要はあったのか」
俺の問いかけに、小糸の身体がすっと離れた。
空白のできた背中に空調の冷気が滑りこんでくる。
「お前、あの夜言ってたよな。寂しくなったらひとりで泣いて、さんざん乱れて眠るって」
振り向いた先に、小糸の笑みはなかった。どこか暗いものすら感じる無表情に、赤い口紅だけが浮かび上がっているようで気味が悪い。
「マティファは、お前のその寂しさを埋めるための手段なんじゃないか。あいつは救われたって言っていたけど、お前はただいいように、あいつを利用しているだけなんだろう」
ずっと疑問に思っていた。小糸がマティファを連れ帰ってきた理由だ。これまでの恋人や、俺や、一夜限りの娯楽の相手とは違う。血のつながりという切れない鎖で結ばれた、決して絶えない姉妹という関係。しかもマティファは小糸に大きな恩義を感じている。たとえ身体を求めても、拒否しない従順さと性癖とをその身に宿していた。
自分に依存して離れない、欲望の捌け口としての道具。
小糸はかすかに首を傾げて、それは違うわと、否定した。
「第一わたしがモロッコに飛んだのは、お母さんのお墓をひと目見ておこうと思ったからよ。種違いの妹がいるなんて、現地の案内をしてくれたお母さんの友達に教えてもらうまで知らなかった」
小糸は飾り戸棚の下段から焦げ茶色の布を投げてよこした。丁寧にたたまれていて、生地の縁には細くアラベスクの刺繍が施されている。
「向こうにいる間、あの子がずっと身につけていたヒジャブよ。本当なら一生それを身につけているはずだったのに」
「これはお前が脱がせたんじゃないのか」
「そうかも。けど、それはあの子が自分で脱いだのよ。たしかに、あの子を焚きつけるような仕草も、言葉も言ったけれどね」
小糸が歩み寄ってきて、マティファのヒジャブに手をそえる。
「そこまでして、あいつを連れ帰ったのはどうしてだ。墓を見にいくだけが目的だったなら、あいつに近づく必要はなかったはずだ」
「そんなの、汚したいからに決まっているじゃない」
小糸はヒジャブを優しく撫でるようにしながら、そんなことを言った。
「考えてもみて。同じ母親から生まれたのよ。それなのにあの子の方がお母さんと一緒にいた時間が長いなんて。わたしはお母さんに抱きしめてもらったことも、頭を撫でられた記憶すらないのに」
小糸はヒジャブを掴み上げると、腕をいっぱいに振りかぶって、床におかれたシーシャ目掛けて投げつけた。ヒジャブはクレートップの上に被さり、燃え上がった。