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映画「PARFECT DAYS」

大学の学科の友人が映画鑑賞会を始めた。
学生の集まる場所、交流する場所が増えることは、とても良いことである。ありがたい。

社会への反抗期真っ只中、未熟な視点からになるが、
映画の感想・話し合った内容をここに記しておく。


「繰り返し」「生活」「絶対評価」「道具」という4つの言葉で解釈する。

1.「繰り返し」の中で、小さなことへの感度が高まる
トイレ清掃員の仕事は、終わりが見えない繰り返しの作業に思える。汚れては掃除し、また汚れては掃除する……。映画の中でも「どうせまた汚れるんだから」というセリフが出てくる。しかし、そんな繰り返しの無限ループかと思われる仕事を、黙々とこなす平山さんの姿を描いたこの映画では、「繰り返し」による彼の感性の高さが随所に見て取れる。風に揺れる木々や木の葉の影といった、些細な周囲の変化に心を動かされる彼の表情。その微細な変化に触れることで、観る側の感覚も研ぎ澄まされるようだった。特に印象的だったのは、車窓から東京の街並みを見つめる平山さんの視線。街ゆく人々をじっと見つめる彼の眼差しが、普段忙しく生活している自分に刺さるようだった。平山さんは、他人への配慮にも繊細だ。孤独と隣り合わせの東京都で、彼の温かい視線や行動が一層際立って見えた。清掃服の背中に大きく描かれた「Tokyo」という文字が、妙に馴染まないのはそのせいだったのかもしれない。

2.「生活」すること、とは
この映画を少し引いた視点で見れば、平山さんの「生活」をただ映し出したものとも言える。生活とは、「生きて」「活動する」ことだ。現代では、多くの人々が「生活する」こと自体に意識を向けることが難しくなっている。だからこそ、この映画が多くの人に響いたのだろうとも思う。「しっかり生活しようとすると、1日のほとんどをそれに費やす」という言葉がネットで話題になっていたが、実際、生活を犠牲にしていると感じている人は多いようだ。SNSで非日常ばかりが評価される環境で育つと、日常の中にある些細な幸せや感情の起伏が薄れていくように感じた。

3.「絶対評価」軸で生きる
最近周囲との相対評価を求める若者が増えていることに、社会問題として危機感を覚えている。「周り」の中での「誰か」からの評価を基準に生きてきた結果、社会に出る直前になって「自分軸」を見失うケースが多いように感じる。一方で、平山さんはその逆で、「絶対評価」を基準に生きている。誰に知られることもなく、自分の生き方を持ち、自分なりの癒し方を知っていて、仕事以外の時間はそれに費やす。この作品が多くの若者に響いたのは、現代を絶対評価軸で生きることの難しさの証明ではないだろうか。そんな彼が訪れる場所で、彼はとても居心地が良さそうに見えるのだ。自分の好きを、自分だけであたためてかみしめる、そっと蓋をする、自分の居場所は自分で作る。「平山さん、いつもの?」というバーのママからの呼びかけに、嬉しそうに黙って頷く平山さんは、東京で最も強い生き方をしているのではないかと思う。

4.「道具」を大切にする
道具をすごく感じさせる映画だったと思う。平山さんが丁寧に磨いているトイレも、生活のための道具だ。彼が嬉しそうに木々を撮っていたフィルムカメラや、移動に使う自転車、そして彼のコレクションであるカセットも、全て道具である。しかし、印象的だったのは、これらの道具に対して、電子機器がほとんど登場しないことだ。平山さんの携帯電話はガラケーで、使うのは電話をかけるときだけだった。それに対して、登場する若者たちはスマートフォンを使いこなす。隙間時間に空を見上げ、揺れる木々に微笑む平山さんと、少しの時間も無駄にせずスマホを触る若者たちの対比は、電子機器が奪ってしまった何かを突きつけているように感じた。道具は生活を豊かにする一方で、大切なものを奪うこともあるのだと気づかされた。

その他
・映画の中には日本を感じさせるシーンが多く登場した。スカイツリーや浅草、銭湯に描かれた富士山など。海外受けを狙っているのかもしれないが。
・少し古びた家での質素な生活は、TOKYOという大都市に住む人々の現実を映し出しているように思えた。
・過去に囚われた生き方も感じられた。何度も出てくるモノクロのシーンは、平山さんの過去の回想。夢として出てくるので、大切な記憶なのか、忘れたいのに浮かび上がってくるのかは定かではない。
・2人で行うはずのシフトを一人でこなさなければならないとき、穏やかだった平山さんが業者に怒りの電話をかけるシーンもあった。やはり、金銭的、精神的、時間的に余裕がないと、感度を高めることは難しいのだと感じた。


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