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執筆の可能性 by. 木森 林林
『執筆』
執筆とは "文を書く" 様子を意味するが
発信する意図をもった行為としても解釈される
記録や記す文書も対外的に行う場合が多い
内面的な変化を言語化し
"書き留める行為" も執筆といえる
どちらも「書き出す行為」により
『ナニカが整うため』に必要なのかもしれない
いずれにせよ言葉や記す行為というモノは
整えるための前向きな働きに変わりはない
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- ととのう執筆 -
ワタシが連日行う執筆活動は、
ナニカを遺し伝えるためでもあるが、
冒頭で記したように、
『ワタシの内側を整理するため』でもある。
これまで言葉や文章を使い
公にナニカを発信した経験はなく、
SNSも運用してこなかった。
理由はシンプルで、
表立って言葉や文章を使い表現する人、
“その手段で活動すべき人” が身近に多くおり
ワタシは裏方の役割を全うし専任していたからだ。
以下の過去記事に断片的ではあるが記している。
(※以下参照)
過去も現在も日常生活において
「ナニカを伝える」という行為は日々繰り返される。
昨今の時代の変化や速度は、
目まぐるしい変容を遂げ、
その変容の渦中にいるワタシも、
その都度抱く感情や目の前の状況も変化し
特定の誰かに対しての記事でなくともこのように公に記すコトで近況に対し思慮深く考え、
ワタシの中の『ナニカを整理するため』に大きく役立っているわけだ。
言語化するという行為や行動は、
時に誤解を招き "避けるべき事象" もあるようだが、
それは具体的な対象者がいる場合や、
ナニカを求める場合には相互に気を遣い、
本来の言語化や書き記す行為自体は、
あらゆる学びの機会があり有益なモノと考えている。
- ワタシの執筆-
本や記事といった著者が記す文面は、
多くの経験や取材から得る知見を元に残されてきた。
それは多様な人間同士の視点や解釈から、
議論や憶測を呼ぶ内容のモノも過去にはあり
それもまた "人間的だった" のかもしれない。
現在はそうした人同士の体感した視点や経験が、
『“鋭利” で “営利” な武器』の様なカタチに変わりつつある。
ワタシは今その変化に抗うように日々仕事の合間に執筆を続けているわけだ。
本来こうした執筆をする動きは考えていなかったが、
実際に逆張りや抗う意思ではなく
本質的な意図は初回投稿に記した通り、
今できる表現の中で不条理で不可逆的な世の中に
『ワタシの視点』を言語化することでどこかの誰かが新たな希望や創造のきっかけになればという意図である。
(※以下参照)
本来であれば、
“仕事” として過去の経験やワタシが有する特定の業界の技術を発信する方が有益なのかもしれない。
実際にワタシの活動遍歴や技術を知るモノは、
今ワタシがいる環境や現在の活動に対して懐疑的に直接問うてくる者もいる。
このような活動や環境に至るまでには、
長い年月の中でワタシにしか分からない複合的な要因があることも事実。
それはナニカのメッセージのように受け取りながらも、
その全てが『目には見えないモノが原因である』という結論に至った。
流行や特定の業界に対して有益な情報を発信し、
収益を得るためにこれまでの活動も続けその傍ら執筆をすることも手段としてはあるかもしれないが、
今はこの言語化することが困難な潜在的にある内側を、
言葉や創造物として表現するために日々執筆を続けている。
- 執筆の可能性 -
『執筆』は冒頭でも記したように、
発信する意図や記録を残し伝えることで、
他に与え、得られるモノも多くある。
さらに日常を整え日記のような役目も果たし、
“考えるコト” を習慣化させることもできる。
これは「ワタシしか知らない日記を手帳に記す」という習慣以上に得られるモノがあるように感じている。
理想はこの内側と外側を別の媒体で日々書き綴ることができればそれに越したことはないかもしれないが、
“ワタシの視点” も日常で得られる学びから日々成長をしながら変化を繰り返し、
その過程で過去・現在・未来をさらに俯瞰して考えることもできるわけだ。
個の外側も交えた『執筆』という活動は、
まだ始めて間もないが既にこれら全てを内包しているように思う。
ほとんどの場合は、
発信するモノやその行為にかける時間以上に、
吸収するモノや時間が膨大に消費されてきた。
現代では多くの人が各々で発信することが可能になり、
まだまだ流行や偏りはあれど枠に囚われない未知の世界や有益な発信をされている著者や著書も無数に存在している。
これらは小さな発信や日々の積み重ねが伝播し、
盲目的だった箇所に光を与える可能性を秘めている。
芸術的な表現として音や絵や造形物の役割を身を持って体現してきた身として、
新たな活動として始めた『執筆』という
“言語化し記す行為” にはやはり直接的な働きがあり、
内側にも外側にも有益に働く可能性を感じている。
- さいごに -
ここまで見てくださりありがとうございます。
今回は執筆活動を始めた経緯を振り返り、
投稿を継続する上で得た学びや経験を記事にしてみました。
まだまだ道半ばですが、
少しでも閲覧数が増えることで日々の励みになり、
リアクションを頂くことも嬉しく思います。
ワタシの生きた世界では、
これまで数字や結果といったモノが基準となり取捨選択をされてきた場面を多く目にしてきたため、
その本質に対して懐疑的に日々を過ごしてきました。
確かにその数字や結果は多くの方に届き、
『影響力』というチカラとして社会的な恩恵を得られることは理解していました。
ただこうして内側と向き合いながら前向きに段階を踏み、
僅かながらも直接的に反応を得られることも有意義な時間です。
現在は毎日投稿を続けていますが、
今後は過去記事をさらに深掘りした有料記事や
“SHAPES OF LIFE” の核となる部分を発信していく予定です。
引き続き発信を続け愛読していただける記事も意識して執筆は続けますので、
フォローやリアクションなどで応援していただけると幸いです。
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木森 林林(RINRIN KOMORI)